ハルデンブルグ伯爵家の当主、クラウスは、地方都市デレリンの中心地に”青蝶城”といういっぱしの城に日頃は住んでいる。
だが、それとは別にデレリン郊外の村にいくつか別荘を持っていた。その中の最も大きくて快適な別荘が、アッシュ達の住むヴィスター村にあり、クラウスはそこに妻のディアナと娘のエリーゼを置いていた。
エリーゼは麻疹で倒れるまでは、青蝶城で暮らしていたのだが、その後、奇行が目立ち、四六時中泣いてばかりいる引きこもりとなると、デレリンの中でどんな噂が広がるか分からないため、村の中に隠したのである。そのため、村の大人達の中にも、村はずれにある大きな屋敷に誰が住んでいるのか、知らない者はいた。
エリーゼの奇行を知られる訳にはいかないからだ。
だが案の定、三年も経つと緊張感が緩み、村長に使者に立てた使用人の愚痴からたちまちお屋敷に住むお嬢様は”頭の病気であるらしい”……ことがまことしやかに広がっている。それで長い間、屋敷から一歩も出ずに、隠されているのだと。
つくづく、エリーゼは風評被害に悩まされる人生であるらしい。
クラウスは、この夏の間、ディアナとエリーゼと過ごすために別荘に来ていた。そこに、村で四年に一度開かれる精霊祭が行われる事になり、その運営(ぶっちゃけ金の問題)について、使者を立てたのだった。精霊祭は観光客も増えそうな、大雪原ではそれなりの規模のものなのだ。
クラウスは、エリーゼにも見せてやりたいと思っていたし、その際にエリーゼが変に思われるようなことがあったとしても、快適に過ごせるように、村にそれなりの金をばらまかなければならないと考えていた。クラウスはエリーゼの長患いを非常に気にしており、こうなったら神頼みで、精霊祭に願を掛ければ良くなるかもしれないと思った。そうでなくても、自然の豊かな場所で明るい綺麗な祭を見れば、エリーゼの体調も回復する可能性はある。
そういうわけで。四年ぶりの精霊祭を滞りなく、華麗に気品を持って運営するためには、領主の立場から言うべきこともある。そのための使者であり、村長には村長の立場もあり、意見のすりあわせには気を遣うところであった。
そういう、ただでさえ大人の気遣いの応酬をしている最中に、エリーゼの部屋に子どもがどやどや入り込んで、娘の頭を殴ったらしい。
当然ながらクラウスはカンカンに怒った。
子どもだからといっても、大勢が一人娘の部屋に不法侵入してやりたい放題して泣かせたように見えたのである。
把握としては大体あっている。
「お前はどこの誰だ。名を名乗れ!」
クラウスは、早速、チョップ一発で黙らせたアッシュに怒鳴りつけた。
エリーゼの方は父親の後ろに回り込んで、袖を掴んでじっとアッシュの方を見ている。泣いてはいないが相当に怯えている様子は伝わって来た。
アッシュは、チョップを貰った頭をなでさすりながら立ち上がり、睥睨してくる強敵に向かって自分もガンを飛ばした。
彼は大人だからと言って、退くような性格ではなかった。
彼には彼の、聖帝サ○ザーのようなポリシーがあった。
・逃げない
・泣かない
・謝らない
これである。このポリシーを掲げて毎日バンバン楽しい事を追求して生きてきたら、この十人前後の手下(仲間)が出来て、その親分として生きてきたのだ10年間。
それだけのプライドを感じさせる仕草でアッシュは真っ向からクラウスに刃向かった。
「オッサンこそ、誰だよ!」
「……」
クラウスは黙った。それは計算のうちである。ここでハルデンブルグ伯爵であることを明かせば、エリーゼの件でどんなダメージが来るか分からない。病気の娘は静かで平穏な生活をさせたいのだ。
自分の身分が裏目に出た時を考えた。
「なんだよ。話せねーのか。俺には、どこの誰か聞いたくせに! オッサン、何者だ!」
クラウスの事情など知りはしないアッシュは、元気よくそう言い切った。
「ひょっとして幽霊の親玉か?」
「オッサン、幽霊庇うっていうことは魔族なのか!」
アッシュの威勢の良さを真似て、手下のクルトやヴィルヘルム達が口々に騒ぎ始めた。
「幽霊とは、なんのことだ?」
傍らにエリーゼを抱き寄せながらクラウスはそう呟いた。伯爵という事は騎士階級である。騎士が魔族呼ばわりされている場合ではない。
エリーゼの方は、本当に、膝のあたりまで伸ばしっぱなしのふわふわの銀髪を揺らしながら、アッシュと父親を見比べている。
「幽霊女なんだろう、そいつ! 学校に行かないで、昼に寝て夜に起きて、変な呪文を唱えて変な声立てて踊るって、俺はそう聞いたぞ!」
アッシュは自分の知っている事をまくしたてた。
それに対して、クラウスは嫌そうに真優をひそめて何も答えない。
自分の娘についての悪評を、子どもが喚いているのだから気分が悪いのには違いないが、真面目に相手をする気にはならないのだろう。
「わ、私……幽霊じゃないよ」
そのとき、父親の後ろに回って弱々しく袖を掴んでいたエリーゼが、か細い声を立てたのだった。
「私は生きている人間だよ。私、エリーゼ……」
「やめなさい」
クラウスはエリーゼが怯えながらも、必死にアッシュに話しかけるのを見て窘めた。彼からしてみれば、アッシュとエリーゼは身分違いだ。今のうちから、直接話す時の口の利き方を教えなければならないと思ったぐらいだ。
「エリーゼ……?」
そういえば、先ほどクラウスが部屋に入ってくる時、エリーゼの名を呼んでいた。偽りではないだろうと、アッシュは機敏に反応した。
「エリーゼって言うのか、お前。俺はアッシュ。アスラン・カッツだ!」
アッシュは相手の呼び名だけでも正体が分かったので気を良くして名乗りを上げた。すると険しい面立ちで黙りこくっていたクラウスの眉がぴくりと動いた。
「アスラン・カッツ……?」
「!」
その名を繰り返したクラウスに、アスランは怪訝そうな顔をした。
「オッサン、俺の事を知っているのか?」
何となくそう思わせる口調なのである。
「なるほど、君がアスラン。カール・カッツ村長の息子か……」
伯爵とはいえ常にお高くとまっている訳ではない。クラウスは村の情報も収集していた。カール・カッツに何百歳も年の離れた息子が存在することも知っていた。
「親父の事を知っている……?」
そこでアッシュは気がついた。
親父の事を知っている偉そうなオッサンは恐らく本当に偉いのだろう。偉いオッサンが、村長の親父にしそうなことはただ一つ、今日のアッシュの乱行を親父に詳しく言いつけて、親父に俺様を罰させる事だけ。
大人に見つかった時点でこのゲームは詰んでいるのだが、その前にやれることはやっておこう。それしかない。
「オッサン」
そのとき、アッシュは背後の方に木の剣を持ち、刀身を隠していた。
相手は子どもだと侮っているクラウスは、無言で傲岸な表情でアッシュを見下ろしているばかりだ。大人の尊大なデクノボーにアッシュには見えた。
実際には、クラウスは、エリーゼの事を子どもに話していいかどうか考え込んでいただけなのだが……。
「オッサン、偉いんだろう?」
「うん?」
偉いも偉くないも、この地方において、皇帝をのぞけば王様と呼べるのは、クラウスである。そういう身分の人間なのだ。
「オッサンは、デレリンの精霊祭に出るのか?」
「出るが?」
クラウスは口数が少ないものの、返事をした。
「それじゃさ、精霊祭に参加出来る子どもの年を、下げてくれよ」
「年齢?」
不思議な事を言い出したと、クラウスは思った。
「君は何歳なんだ」
「10歳」
「それじゃ、精霊祭には、参加出来る年じゃないか。何故だ」
そう。
精霊祭には10歳の子どもから参加出来る事になっている。
「ああ。だけど、それじゃ、エマやミラが参加出来ない。それにルーカスも」
「……?」
部屋の隅で息を潜めている村の少女達に、クラウスは初めて気がついたようだった。
「精霊祭で家族に会いたいんだよ、誰だって」