「部屋の使い方は分かるな?」
悪奴弥守は一つ一つの部屋を開けて案内しながら征士にそう尋ねた。
「ああ」
「あと、台所にはもう、米や当座の食料が来ている。これで大丈夫だな、光輪」
そうはいっても、慣れない妖邪界で、いきなり昔ながらの竈に立てと言われたようなもので、征士は戸惑っている。
使い方は、弾動力を動かすように妖力(?)を使用して、火を点けたりすればいいようだが。
困惑していると、悪奴弥守が隣に来て、案の定、霊力で竈に火を点けてくれた。
「米の炊き方がわからんのか?」
「あ、ああ」
「だから嫁を貰えとあれほど言ったのに。嫁から教われば出来たのだぞ」
妖邪界と人間界は交流を絶っている。だが、この二十年以上の間、征士と悪奴弥守は年に数回、顔を合わせていた。
妖邪を倒すなどの行事があったこともあるし、他に仲間の冠婚葬祭などもあったし、そのほか会いたくて仕方なくなることもあったからだ。
その間、征士が本音や本心を悪奴弥守にぶつけるたびに、悪奴弥守が口を酸っぱくして言い聞かせたのが、早く結婚して妻子をもて、親を安心させてやれの常套句であった。そんなことは、それこそ親からも言われている。何しろ、由緒正しい伊達家の嫡男なのだから。
(現代の嫁が、稼働する竈の使い方を完璧に理解していることなどないと思うが……)
だが、悪奴弥守にそんなことがわかる訳がない。悪奴弥守にしてみれば、征士の知っている炊飯ジャーの方が謎の存在だ。
だが悪奴弥守は、今回は口が酸っぱくなるような小言は言わず、すぐに屈託なく笑った。
「今日は特別だ。俺がメシを作ってやろう。待ってろ、光輪。すぐだから」
「あ、悪奴弥守が!?」
征士は驚いているが悪奴弥守は全く気にする様子もなく、テキパキと体を動かして征士の夕飯を作り始めた。
確かに、悪奴弥守は最初に断ったように、大したものを作ったりはしなかった。闇神殿から支給された米や味噌、野菜や干物の中から適切なものを取り出して、手早くぱぱっと、どこにでもあるような夕飯を作った。
鰺の開きにぬかづけ、野菜の味噌汁、玄米の飯である。
それだけでも、征士にとっては感動の出来事であった。
征士は、自分の胸の高鳴りが膳を挟んで悪奴弥守に聞こえてしまうのではないかと言う、そんな想いに潰されそうになりながら、悪奴弥守が作った夕飯の膳に向かった。
悪奴弥守も食べていくということで同じものを自分の膳に並べている。
「どうした? 光輪。顔が赤いぞ」
「い、いや、何でもない……」
「昼間に冷たい水を浴びたから、風邪でも引いたのではないか?」
「私はそんなにヤワではないっ大丈夫だっ」
征士が焦った声を立てると、悪奴弥守は、また不思議そうな顔で箸を止めて征士の方を見る。
征士は一口、温かいミョウガの味噌汁を啜ったあと、悪奴弥守の方を見て赤い顔のまま言った。
「私の気持ちは知っているだろう。何回、お前に告白したと思っているのだ」
「そ、それはっ……」
今度は悪奴弥守が赤面する番だった。
その後、二人は、ぼそぼそとぎこちない会話を数回繰り返しながら、同じ飯を食べた。
悪奴弥守から見ればまだ子どもの頃から、征士は悪奴弥守に想いをかけてきた。二十歳になった頃から数回、こらえきれずに自分の気持ちを噴火させ、悪奴弥守を困らせた事も何度かある。
悪奴弥守は、妖邪帝国の闇魔将。
生涯結婚出来ないし、子どもも持てない身の上だった。
そのため、数百年越しに出会った征士の事が、可愛くて可愛くて仕方ないらしい事はほんの少しの仕草や言い方で伝わってしまった。
そのことが、征士に妙な自信をつけさせたのだ。
正直、征士は悪奴弥守を誰もいないところで押し倒した事すらある。
そそくさと食事を終えて、悪奴弥守は征士に微妙に目をそらしながら向き直った。
顔は先ほどのように赤くはないが、ぎこちなさが残っている。
「それじゃ光輪、俺は今日は帰るが……明日は正午前には闇神殿の正殿に来るのだぞ。こちらでの生活を教えるからな」
「悪奴弥守」
やはり食事を終えた征士は、やや強ばった声で悪奴弥守を呼んだ。
「悪奴弥守、今日は私のそばに泊まっていかないか?」
「光輪……?」
悪奴弥守は、右に頭を傾けながら、征士の顔を恐る恐る見た。
相変わらず、美しかった。金髪に、ラベンダー色の瞳、凜々しく整った表情。
風の色にも似ている、自然な輝きに満ちた目に真剣に見つめられて、そんなことを言われたら、女なら即死してもいいという気持ちで彼の腕に飛び込むかもしれない。
悪奴弥守は女ではないのだけれど……。
「悪奴弥守。私は妖邪界に来てまだ時も経たず、何をしていいかわからず、何も出来ないかもしれない身だ。それでも私は後悔していない。今、私は悪奴弥守とずっといたいと思う」
「そんなことを、真顔で言うな」
「……私はふざけて、こんなことを言えないのだ」
征士は苦渋に満ちた表情で視線を落とした。
一介の妖邪である自分と違い、悪奴弥守は帝王ではないものの、将軍だ。帝国に唯一不可欠の四魔将だ。
散々悩んできたが、自分が妖邪になれば解決出来ると言ったものではなかったらしい。何しろ、初っぱなからこれだけの身分差が開けてしまったのだ。
「だがもしも、悪奴弥守が闇魔将の立場を気にしているのなら、もうこんなことは……」
「光輪」
悪奴弥守は窘めるように彼の名を呼んだ。
正座して苦悩の表情でいる征士の前に立ち、そっとその金髪に触れた。そして、彼の顎に触れた。顎を上向きに指先で掴んで固定すると、そっとかがんで顔を降ろした。
悪奴弥守は征士にキスをした。
「全く、少し見ない間に、男前になって、……苦労して……」
悪奴弥守は声を濁らせた。苦労して苦労して、退魔師なんて仕事をしてきた征士に、なんという悲運が訪れたのだろうと思う。征士は焦慮も悲嘆も、怒りさえもつゆほども表に出さないが、本当はとても辛いに違いない。
そしてそれは、当たっていた。だから征士は、珍しく迷いの表情を悪奴弥守に見せているのだ。
「今日は特別だからな。今日だけだぞ」
悪奴弥守はそう断って、膝立ちになり、征士の頭を抱え込むようにして再びくちづけた。甘いくちづけだった。征士の舌がすぐに悪奴弥守の舌に絡んできた。
最初は戸惑うように、しかし次第に激しくなる舌の動き。
甘く熱く深いくちづけは、忽ち悪奴弥守にとろけるような快感を与えた。
悪奴弥守はすぐに腰砕けになり、征士の前で立っていられそうになる。
膝から力が抜けた悪奴弥守の体を抱き留めて、征士は素早く悪奴弥守を新品の畳の上に押し倒した。
「悪奴弥守、私は本当に、お前のことを……」
「光輪、言うな」
いてもたってもいられなくなったのだろう。
征士は、悪奴弥守の懐に手を差し入れて、その弾けるように若い素肌を素手で味わった。
そのまま二人は着物をはだけてもつれ合い、何度も何度も口づけをかわし、互いの手で互いの体を探り合った。征士は悪奴弥守が本当に自分の腕の中にあるのかどうか、確かめたくて、彼の体の奥まで進んでいった。
その熱い奔流のような痛みに苦しげな呻きを漏らす悪奴弥守。征士は性急に動いた自分に一瞬戸惑うが、最早律動を止める事は出来なかった。
体の中心だけではなく、手の先、足の先からお互いに溶けて混ざっていくような感覚。
もつれ合い絡み合い、互いの喘ぐ吐息まで絡め合って、その夜は、二人は深い煩悩京の闇に溶け込むように、求め合ったのだった。