妖邪界。
--九山八海。
人間界。当麻の大好きな天文学の言うところの、無数の銀河系のある宇宙世界とは全く異なる、異質な物理法則と精神性が溶け合った世界。
暗闇を抜けると、征士は、あり得ない高さから、その九山八海の世界へと落ちていった。
世界の中央にあるのは須弥山である。
誰でも一度ぐらいは聞いた事のある非現実の山の名。
だがその山を現実として、征士はその目で見る事になった。
須弥山。その高さ、132万㎞。
一番上が有頂天と呼ばれ、様々な世界が須弥山の上にも展開されている。
その足下に、太陽系ほどの広さの円盤が三つ重なっている。
それが世界の基礎である。
円盤は一番下が風輪。その上が水輪。その上が金輪。
金輪が大地に接しており、大地のうえには須弥山を中心に、七つの金の山と鉄囲山がある。
鉄囲山の外側、須弥山に向かって東部にある半月形の大陸が勝身洲。西にある満月形の大陸が牛貨洲。南部にある三角形の大陸が瞻部洲。北部にある台形の大陸が倶廬洲。
征士は知らないことだが、この四つの大陸を、四魔将がそれぞれ一つずつ支配、統治している。
その大陸達と、須弥山の間には、外側から内側に向かって順番に、尼民達羅山、象耳山、馬耳山、善見山、檐木山、持軸山、そして持双山が世界の中心の山を囲むようにそびえている。
その間には広々とした海があり--何しろ、太陽系ほどの規模の話だーーこれを九山八海という。
世界の中心である、須弥山には、本来なら帝釈天が住んでいて、月や太陽に移民をすすめているものだそうだが、妖邪界においては何故か帝釈天は存在しない。
存在したのは妖邪帝王阿羅醐であり、彼は、誰もなしえなかった妖邪界統一を数百年前に完遂、四つの大陸は四魔将に分け与えた。
そして自分は、須弥山の麓にある閻浮提(ジャンブー・ドヴィーバ)の煩悩京に居を構え、そこから世界を見渡し、須弥山さえも手に入れたかのような振る舞いをしていたらしい。
あるいは、征士の知らない420年の間に、実際に、阿羅醐は須弥山さえも四魔将とともに統治していたのかもしれないが。
それこそ征士は、須弥山すれすれの位置を途方もない上空から落下している。摩擦の熱で焼け死ぬのではないかという高さからだ。
だが、不思議な事に、空気摩擦は起こらず、征士は須弥山の見える距離から閻浮提の大陸へと落ちていった。
閻浮提--煩悩京。
それこそ、平安京の町並みを模しているが、既に現代日本の東京ほどの規模を持つ都である。
その平安京の北を守るのが、闇神殿だ。闇神殿は、大体新宿三個分ほどの規模の広さを持ち、闇魔将悪奴弥守が統治する区域である。
征士、というよりも征士の魂は、自分でもどうしようもない速さで、まっすぐに、その闇神殿へと突っ込んでいった。
闇神殿には、外宮と内宮に当たる機関があり、その最高責任者が悪奴弥守になる。
悪奴弥守は、その日も、外宮と内宮を行ったり来たり行ったり来たりしながら猛烈に仕事をこなしていた。
元々、融通が利かなくて責任感が強い辺りは、征士によく似ている。
「長、次は丑寅の宮に」
ヤヅカに言われて、悪奴弥守は頷いた。
「そうだな。今日の転生者の顔、見ておくか」
悪奴弥守は快活に笑うと、ヤヅカと他数人の妖邪を連れて、外宮から内宮の方に向かうことにした。
短い黒髪、野性的に日焼けした浅黒い皮膚、生命力溢れる輝きを宿した濃紺の瞳。身長は五尺六寸一分(170㎝)、細身だが筋肉質で体重は十六巻目(63㎏)、日頃は鉄黒色のざっくりした着物を着込んで暴れているが、今は仕事中なので、女物の神子姿でいる。
白い小袖に赤い袴、純白が鮮やかな千早まで着込んで完璧な純和風の巫女姿だ。悪奴弥守は、妖邪界最高の覡であり、祭事の際には、必ず女装する。これには一応、訳があるのだが、それは腹心のヤヅカと神官のスクネ以外、闇神殿でも知る者はいない。
現代日本の暦で六月頭の気候に、きっちりと巫女衣装を着込んだ悪奴弥守は、暑さのあまり扇子で扇ぎながら、闇神殿の内宮の方に入っていった。ざっくばらんな仕草だが、それが活発で明るい性質の悪奴弥守がしていることなので、よく似合っている。
この九山八海の妖邪界にも、四季はあり、そのとき折々の気候がある。
煩悩京でも最近の夏は異常に暑いのは、人間界の影響かもしれない。
今年の猛暑を予想させるような、煌めく青空の下、悪奴弥守の日焼けした素肌に凜々しい純白の千早はよく映えていた。
アイヌの厚着を着た少年ヤヅカと、神官の直衣姿の供回りを数人連れた悪奴弥守は、闇神殿の原初の森の木陰、一枚の絵のように美しかった。
丑寅の宮は別名、転生の宮とも呼ばれている。転生の宮は、人間界から転生してくる人々のための宮だが、闇神殿の東北に十カ所前後あると言われている。性質が性質だけに、その数は勿論、全貌は明らかにされることがないのだ。
ただ、一日の間に転生してくる人間の人数から想定して、十カ所はあるんじゃないかと言われているだけである。
その中でも最も大きく古い宮に、悪奴弥守は率先して入っていった。
天井の高い、木造の神殿を奥の方に進んでいく。最奥の渡殿のさらに奥に、泉の湧き上がる庭があった。滾々と湧き出る冷たい清水の周りには、幾重にも闇神殿の神聖結界が張り巡らされている。その術式を知っているのは悪奴弥守と、相当高位の神官だけだ。
暑いので渡殿の雨戸は全て開け放していた。そろそろ青や紫、ピンクに色づいてきた紫陽花や、紺色の菖蒲、その葉の緑の鮮やかさが際立っている。
悪奴弥守はヤヅカと談笑しながらその場を進み、やがて、ちょうど泉の周りが光り輝き始めるのに気がついた。
「……転生か?」
神聖結界の中に光が生まれ、次第に大きく膨れ上がっていく。
最初は少し大きな蛍ほどの光だったが、あっという間に巨大化し、それは次第に人の形を取り始めた。
最初は、いつものことなので、渡殿の上から様子を見守っていた悪奴弥守だったが、突如、そのことに気がつくと、いきなり足袋のまま渡殿から飛び降りた。
「長!?」
ヤヅカが驚くのにもかかわらず、他の供が止めようとするにもかかわらず、悪奴弥守はやや湿った地面の上を物凄い勢いで、泉の前まで走って行った。
「光輪!!」
光の輝きの正体は、光輪のセイジだった。
素っ裸の四十代の体で、それでもやはり光り輝くばかりの美しさで、彼は泉の中から妖邪界に転生してきた。
悪奴弥守が動転してしまったのはそのことである。
「光輪! どうしてこんなことに……どうしたのだ、お前、まさか死んだのかっ!? 何故死んだ!?」
悪奴弥守の夢は、光輪のセイジが、いつか可愛い嫁を持って、子宝にたくさん恵まれて、孫やひ孫に囲まれて大往生してくれることだった。人間らしいまっとうな生き方で幸せになってくれることだけだった。
その彼が、独身のまま、41歳で死んだらしい……そのことですっかりびっくりしてしまい、生まれたての姿の彼に取りすがり、泉の中に突っ込んでいって二人で転んでびしょ濡れになった。
「光輪! ……光輪、なんで死んだ!?」
死んだも何も、妖邪界に転生してきて、妖邪として生きている訳だが……。
いきなり、巫女姿の悪奴弥守に飛びつかれ、すっころび、泉の中に転倒してしまい、征士は目を白黒させている。
悪奴弥守からは何とも言えぬいい匂いがした。巫女衣装に香りをたきしめているらしい。
子どもの時はともかく、自分よりも小さく若い体の悪奴弥守に抱きつかれ、泣かれ、征士はすっかり顔を赤らめてしまった。
「悪奴弥守……私は妖邪となったのだ……お前と同じ妖邪だ」
「光輪……そんな……礼の戦士のお前が……?」
「そんなことは気にしなくていい。それより悪奴弥守、綺麗な服がびしょ濡れだ。風邪を引いてしまうぞ」
「あ、ああ」
悪奴弥守はようやく自分の格好に気がついて、女装を見られていると思い、恥ずかしそうに顔を赤らめて伏せた。