午前中のうちに悪奴弥守は闇神殿に戻った。
長屋には、征士と当麻だけが残された。
悪奴弥守配下の闇神殿の敷地は広い。
実に、現代の東京で言うのなら、新宿三個分は余裕に入る土地が彼の所有物である。
そこの中心となる建物が闇神殿であるが、そのいわれは人間界の伊勢神宮にゆかりがあるようでそうでもない。
闇神殿は、二十年ごとに社殿を全く新しくするなどの儀式は行われない。勿論、必要に応じて建替は行われるが、定期的に神遷しのお祭りなどは、ない。
その反面、闇神殿が司るのは光でもある。即ち、妖邪界にもある日天(太陽)、月天(月)双方を崇めるための神殿でもある。
須弥山世界である妖邪界においては、天動説が普通であるから、太陽は須弥山を中心に東から登って西に沈む。
そのほか須弥山の有頂天に棲まう神々や四天王を敬い、儀礼を執り行うのも悪奴弥守の覡としての大事な役割であった。
その気になれば、妖邪界において、太陽を消すほどの能力をふるえるのは悪奴弥守のみであるが、それは妖邪界が、精神と物質が半々で出来てる世界であるためとも言える。
--この話題は割愛する。
いずれ、壮大な原始の森に覆われた壮麗な社殿に、悪奴弥守が戻ってきたのは、巳の刻をだいぶ回った、人間界の時刻で言うならば朝の10時半頃であった。
「長」
悪奴弥守の気配を察知して、社殿の玄関の門まで、ヤヅカが出迎えに来ていた。
ヤヅカと、いつも一緒にいるアイヌの双子、ハギとハズだ。
三人とも、相変わらず、アイヌの厚着衣装のままで、黒髪を長く背中に伸ばしている。
気配に敏感な闇神殿の中でも、繊細なレーダーのような感知能力を持つこの三人は、悪奴弥守が故意に気配を消したりしない限り、何百メートルも離れた位置から場所を特定出来るのだ。
それで、出迎えに来られたらしい。
悪奴弥守もこの忠実な股肱の能力は熟知しているから、今更驚く事もなかった。
「長、また」
「ああ、すまんすまん」
ヤヅカが不平を言おうとするのを悪奴弥守は軽くいなした。
ヤヅカは、悪奴弥守が単独で、町家に勝手に移動して、一晩過ごした事について怒りたいのだ。
何しろ、闇魔将という将軍職にありながら、悪奴弥守の行動は自由すぎる。自由をゆるすのはヤヅカを始め、側近達が悪いと、螺呪羅に文句をつけられることも割にある。
ヤヅカの方は何しろ螺呪羅が大嫌いであるから、彼から小言をつけられたりするのは、発狂するぐらい嫌な事なのだ。
それなのに、悪奴弥守ときたら、征士がいると思って、供もつけずに勝手に外泊。
「--長は、俺が、幻魔将に怒られるのが嬉しいか」
日頃は、アイヌ語の独特のなまりを持って双子の弟分と会話しているヤヅカの話し方には癖がある。恨みがましくかわいらしい童顔を歪めながら悪奴弥守の事を見上げると、悪奴弥守は参ったというように短い黒髪の頭をかいた。
「これからは、気をつける。ヤヅには必ず話して行くから、そう怒るな」
「本当か。長。俺に話をしてくれるのか」
「ああ、そうする。するから、ヤヅカ。悪かったな」
「長!!」
すると、ヤヅカと同族のアイヌの双子達が悪奴弥守に飛びついてきた。
「長、今日の午前中は南の正殿から」
「長、ひるどきに、毒魔将が来る」
などなど、口々に今日の仕事を述べ始めた。
ヤヅカの仕事でもあるのだが、悪奴弥守の補佐役であるヤヅカの補佐に回っているのが、この双子なので、そう不思議な事ではない。
「那唖挫が? なんだ?」
「毒魔将は、星麗宮の姫のことで話したいことがあると」
悪奴弥守が南の正殿の方に歩き始めると、ヤヅカと双子が付き添った。
ヤヅカの説明で、悪奴弥守は納得した。星麗宮の迦遊羅は元々、最強の巫女ではあるのだが、最近、能力が伸び悩んでいる。
養育係の那唖挫が色々相談に乗ったのだろうが、仏法、法力を司る那唖挫の力と神につかえる巫女である迦遊羅の力とでは似ているが、違うものだ。それで、迦遊羅の迦雄須一族の力をどうやって引き出すかという相談を、悪奴弥守にしたいのだろう。
悪奴弥守は、覡だから。
「わかった。午後から、もしかして俺が、星麗宮に行く事になるかもしれん。その前に、すませられる仕事は全部すますぞ」
悪奴弥守がそういうと、アイヌの股肱達は顔を引き締めて、頷いたのだった。
なんだってそうなのだろうが、闇神殿は神に仕えるのが仕事、甘っちょろいことは一つもないのだ。
テキパキと仕事をこなしていくと思ったより仕事ははかどった。
昼時に、悪奴弥守は、闇神殿の自分の部屋に戻る事が出来た。
丁度その頃に、奥女中のスヤリから案内の声がかかり、那唖挫が悪奴弥守の部屋に滑り込んできた。
「あ、那唖挫。ちょうどよかった。これから昼飯なんだが、喰っていくだろ?」
「いいのか、悪奴弥守?」
いつもながら、彼によく似合う、柳色の長着姿の那唖挫は、悪奴弥守の隣に座りながらやや不安そうな顔だった。
「ああ。だけど、出されたものは文句言わずに喰えよ」
「--うむ」
「お前の偏食に悩んでいるのは俺だけじゃないからな?」
那唖挫は、昼餉時になってしまったのだから仕方ないと、軽くため息をついた。
妖邪界の誇る調理将軍、毒魔将那唖挫。
その医食同源のレシピは華麗にして美味、毒入りでも一度は食べて見たいと言う数奇者は後を絶たない。だが、当の本人は、この九山八海のいずこの土地の美味も珍味も楽勝で作れるスキルを持ちながら、とんでもない偏食で、味覚がどうかしているんじゃないかというぐらいの辛党であった。
それこそ、唐辛子を生かじりにするレベルの辛党。
それでどうして、美味や珍味を作れるのかは、螺呪羅や悪奴弥守にさえ謎である。
そういうわけで、那唖挫の不安は現在のところ、闇神殿の昼食に何が出てくるかということである。
何しろ、兄貴風吹かせるのが癖の悪奴弥守であるから、那唖挫が偏食の癖を出したが最後、平気な顔で、殴ってでも給食を食べさせる事だろう。
「だけど俺が偏食で困るのは俺だけなんだから……」
「屁理屈言うな」
何かぐずるような事を言おうとした那唖挫を悪奴弥守は一言で黙らせた。
そこに、スヤリが昼餉の膳を持って他の奥女中と一緒に部屋の中に入ってきた。
「長、昼食です」
「ああ、今日はなんだ?」
悪奴弥守はそれなりに那唖挫を気遣うように見ながらスヤリに尋ねた。
人間界との交流が始まって三十年近く経つ。
妖邪界で独自の発展を遂げた食文化と、自然と人間界、特に東京の食文化は自然と融合していた。
「ファラフェルとコシャリになります」
スヤリが純和風の膳に、トマトソースの混ぜご飯の皿と他の料理の皿を置いている。
「コシャリか。那唖挫、食べられるな?」
「埃及の米料理だったか?」
那唖挫は複雑そうな顔だった。
悪奴弥守は那唖挫の反対に、好き嫌いが全くないため、平然としてスプーンを手に取っている。
コシャリはエジプトのソウルフードと言われている。
炊いた米に、フライドオニオン、豆、パスタ、マカロニなどを混ぜトマトソースでまとめてしまう。
それに、ファラフェル(豆コロッケ)やラム肉、フムス(ひよこ豆のペースト)、メルゲーズ(羊肉のソーセージ)などを添えて食べるのが一般的だ。
実際にそのときの膳にも、ファラフェルやメルゲーズ、フムスの他に、千切りキャベツのサラダと夏野菜のスープが出た。
「最近は煩悩京でも色々な人間界のものが流行ってきたな。元々、朱天の牛貨洲に似たような食事はあったけど、俺は結構こっちの方が好きだ」
そんなことを言って、悪奴弥守はいつもの癖で、食べる前に食料の前で手を合わせた。
それを見て、那唖挫も、渋々と言ったようにエジプト料理の前で手を合わせた。
あんまり気が進まないらしい。
「悪奴弥守の倶廬洲は、小麦や芋の料理が発達しているからな……トマトは珍しくないのか?」
「珍しいというほどでもない」
「そうなのか?」
「お前のところからは最近だが、昔から螺呪羅のところ、勝身州からトマトは買いたたいている。それこそ麦や芋で」
「ほう」
「それより那唖挫、最近の暑さで、瞻部州の米がヤバいと部下達が噂していたが、また値上がりするのか?」
「……するしかないだろうな」
「なんとかしろよ、米の値段の上がり下がりに、ここのところ、煩悩京の民は一喜一憂しているぞ」
「それは俺も知っている、なんとかしたいが、今の状況ならば昔の……例えば米将軍吉宗が来たって大した力になれんぞ」
そんなふうに、食糧の値段の話や煩悩京の民の噂話をしながら二人は仲良く食事をした。
悪奴弥守は、米一粒残さず綺麗に皿をたいらげた。
そして、気がついた。
「……那唖挫」
「……なんだ」
那唖挫は、コシャリは半分残し、ファラフェル(豆コロッケ)とフムス(ひよこ豆のペースト)は全部残し、千切りキャベツとメルゲーズ(ピリ辛ラム肉ソーセージ)だけ全部食べて、好き嫌いをきっぱりと皿の上に食い残しで示していた。
「出されたものは残さず喰え!!」
「嫌なもんは嫌だ」
「お前……豆に何の恨みがあるんだ。豆コロッケだってひよこ豆だって、喰って見ればうまいだろう!!」
「朱天だって豆は残すのに、俺が豆を残すと怒られるのはなんでなんだ!」
「朱天は朱天、那唖挫は那唖挫! 朱天は豆残す時は残すけれど、最近は喰えるらしいぞ!」
「嘘だ!」
「いやだから、嫁のナスティが無理矢理喰わせてるんだよ!!」
「女の差し出口に負けたのかあいつは裏切り者め!!」
子どものような言い訳を始めた那唖挫に対して、悪奴弥守が必死に叱りつけて豆コロッケを食べさせようとするが、那唖挫は顔を背けて嫌がった。
「何故、喰わないッ!?」
「甘いから!!」
誰もが認める甘党の悪奴弥守はその時点でブチギレそうになる。というかブチギレる。
思わずゲンコツを落としそうになったところで、スヤリがそっと二人分の膳を下げた。
スヤリ、武道における見切りの達人は、リラックスしている悪奴弥守の動きだったら容易く見切れた。
「毒魔将様、それならば、食後の辛味噌揚げ餅はいりませんね?」
「……あ」
辛い和菓子が大好きな那唖挫は、一瞬、狼狽えた表情を見せた。
「……餅?」
スヤリはデザートを用意していたらしい。
「東京から取り寄せた辛い揚げ餅です。もうおなかいっぱいなのですから、いりませんよね?」
にっこりと営業スマイルで言い切るスヤリ。
「……い、いらない」
明らかに突っ張った声で那唖挫はそう言った。そういうわけで、那唖挫は、大好きな辛い和菓子を自分の我が儘と突っ張りで食い損ねたのであった。