闇。
一筋、一点の光すらも見えない闇。
究極の安らぎへと誘う、神聖なる闇……。
それは、妖邪界における原初の母なる闇に繋がっていると、一部では噂されている。
悪奴弥守の寝所にある神聖結界。
本当にわずかの光も見えない漆黒の闇だが、妖邪界においては、ほんの数人のみがこの暗闇の中でも目が利く。悪奴弥守本人と、蓮華殿随一の乱波、螺呪羅だ。
他にも原初の闇を見通す目を持つ者はいるかもしれないが、現時点で、神聖結界で視力をきかせた事があるのは、螺呪羅と悪奴弥守だけだった。
悪奴弥守は寝所の主として当然のこと、灯りのさす普通の部屋のように見渡す事が出来る。それに対して螺呪羅は、隻眼ではあるのだが、恐らく……忍びの訓練によるものだろうと、言われていた。
いずれ、元からして螺呪羅は寝所の暗闇をものともせず、悪奴弥守を蹂躙することが出来たのである。
悪奴弥守は、眠っていた。昏々と、眠り続けていた。
那唖挫が受けた毒蜃のダメージは深刻だったが、神聖結界の中、闇の安らぎは悪奴弥守の心身を優しく包み込み、完全なる静けさは悪奴弥守のささくれだった心を癒やしていった。
悪奴弥守は、夢を見ていた。
戦の夢だった。この何年かの果てない戦の夢を、見ていた。
夢の中で、悪奴弥守は武装していた。漆黒の鎧をまとい、黒狼剣を手に、容赦のない斬撃で敵を斬り伏せていた。怒濤のように妖邪兵は突進してくる。その敵の顔は次々と変わった。
初めて攻め滅ぼした国、壱越の武将、あるいは壱越の気骨のある王族の男……あるいは平調の国の雑兵、北方の獣使いが連れていた怪物……あるいは、女達もいた。女ながらに武装し、華麗な舞のように戦う娘子軍達。悪奴弥守は、女といえど、戦場に覚悟を持って立っている以上は、情けなどかけなかった。斬った。斬り捨てた。
悪奴弥守は。夢を見ていた。夢中夢ではない。
いずれ、妖邪帝王阿羅醐が……世界を統一し、この戦乱の世に終止符を打つという夢をみていた。それに、全身全霊をかけていた。
乱世が続いて数百年ときく。その乱世を平和な治世に変えるためにはどうするか。単純な事である。武力統一してしまえばよい。そのための、絶体君主は誰か。……妖邪大陸において、妖邪帝国を建国し、妖邪帝王と名乗った阿羅醐、彼以外いない。
そのために、悪奴弥守は、戦場に敵として立つものは、女であれど斬った。斬ったからには、……夢をかなえると誓ったのだった。
敵の顔はくるくる変わった。怨霊のような形相もあれば、泣いている仏のような顔もあった。自分が斬り捨てた顔、あるいは慈悲をかけた顔がくるくると、目の前で踊っていた。
そして、仲間の顔が。
ヤヅカ。カラムシ。スクネ。ハシリバ。陪臣の戦士達が、悪奴弥守の肉になり盾になり、守ってくれたこと。彼らを守ったこと。必死に戦場を生き抜いてきたこと。それらを全て、思いだし、反芻するように、仲間の顔を見ていた。怒り、悲しみ、そして戦勝の喜び、それらが、闇の眠りの中で繰り返された。
闇魔将軍唯一の女魔戦士であるテホコが、敵方の武将に突進していくところが見えた。
テホコは、全身に”気”を巡らせる事で、瞬間火力を人としての極限まであげることが出来る。その突進攻撃は、カラムシの腕力にも匹敵し、武器を振り回して突撃すれば、ほぼ無敵と言えた。
「闇魔将軍、テホコ! 私の相手をする者はいるか!!」
女性であろうと関係ない。テホコが雄叫びを上げながら突進するのに続き、闇魔将軍の獣使い、魔戦士、魔剣士達が、敵の武将の首を狙って戦場を駆ける--それを援護する、最強の狩人達の射撃。
悪奴弥守は馬に乗り、紅のマントを翻す。仲間たちの後をついていく訳ではない。自分こそが魔将だ。闇魔将。
「闇魔将、悪奴弥守……ここにおられるぞ!!」
戦勝の宴、愚痴も言わずに闇神殿でせっせと料理を作ってくれたスヤリ。
そのスヤリを手伝いながら、男顔負けの戦士ぶりをからかわれているテホコ。
笑っているヤヅカ。笑っている仲間たち。
子供ながらに善戦して、褒められ、照れているハギとハズ。
それが、悪奴弥守の夢--死の毒でありながら、死の苦しみにありながら、彼の心の際奥にある夢。
何百年もの乱世が妖邪界では続き、そのために踏みにじられた人間、亡者は数知れない。そして人の勝手で苦しみ獣、動物も。焼かれる森、毒を投げられる川、あらゆる自然も。
それを、一人の男として、一人の魔将として、どうするか。答えは分かりきっていたのだ。阿羅醐の名の下に、仲間の魔将と戦い抜くこと。そして、民に平和をもたらすこと。戦のない世を渡すこと。
自然の闇。自然を守ること、獣を守ることはそこに繋がる。人の勝手で焼かれたり、毒をまかれたりすることがなくなれば、それだけでどれだけ回復力が増すだろう。
民に、安らかな、平安の世界を渡すことも、同じことだ。戦い抜いて、……戦って、戦のない世の中で、笑顔を取り戻してもらう。様々な矛盾を抱えていることなど、わかってる。
だが、だからどうした。矛盾しているからといって、目の前で、ただ漫然と時が通り過ぎていくのを眺めていろと言うのか。
そういうことだった。
夢の中で、悪奴弥守は戦っていた。今まで戦ってきた、何人もの他国の勇者、他国の英雄と。一人一人、黒狼剣で屠りながら、悪奴弥守は、阿羅醐の名を呼んだ。
阿羅醐様。--阿羅醐様。世界を統一してください。
世界を統一して。……この乱世に、トドメを。
トドメを!!
明らかに斬の手応えを感じ、悪奴弥守は、呼吸を整えた。敵の命を奪う時の、あのひりひりするような感覚。
「黄泉へ行け、戻ってくるな」
そう言い放った瞬間、目が開いた。
最初、悪奴弥守は何が起こったのかよくわからなかった。
目の前で刃が閃いた。
その刃が、忍び独特の短刀であることまで見て取れた。
悪奴弥守は寝起きでありながら、軽々と、ぴょんと飛び起きて、布団の上から畳の上に着地した。蘇生の息と神聖結界の力を使えば、その体は超完全回復。硬直することも、苦痛を感じる事もあり得ない。
どちらも悪奴弥守の能力であるから、そんなことはわかりきっている。
平然として悪奴弥守は、目をすがめ、闇に潜む相手を誰何した。
相手は驚いて息を飲んでいるようだった。昏々と眠りについている相手の寝首をかこうとしたその瞬間に、とんぼ返りするような鮮やかな跳ね返りで飛び上がられたのだから。
「誰だ!」
悪奴弥守は、寝所に安置してあった刀を手に取り、相手に向かって怒鳴った。
悪奴弥守は、魔”戦士”であると同時に魔”剣士”である。やや武器オタクなところがあり、大抵の武具は使えるが、専門は刀や剣だ。
何よりも愛用の黒狼剣でのタイマン勝負を好む。
武装していないので、黒狼剣は使えないが、日頃、鍛錬に使っている刀を抜き、悪奴弥守は相手をよく見てみた。
相手は、『螺呪羅』だった。少なくとも、見た目は螺呪羅にしか見えない。
「……?」
螺呪羅の偽物を初めて見た悪奴弥守は、呆気に取られた。
暗闇に潜む忍び装束の彼は、かつて、壱越で共闘した時の螺呪羅そのものにしか見えなかったが、悪奴弥守にはすぐ違うと分かった。
「お前、何者だ。螺呪羅の格好しやがって、何の真似だ!!」
確信する。螺呪羅ではない。悪奴弥守にはそれがわかる。一目見ただけで、その場にいるだけで、螺呪羅ではないと識別出来る。
螺呪羅に化けた偽物が、自分の寝所に忍び込み、刃を抜いている……それで、どういうことかわからない訳がない。
同時に、相手が誰かが気にかかる。何者が、どんな目的で、自分と那唖挫を襲った。悪奴弥守だって魔将だ。毒蜃の毒は、「売買出来る」事ぐらい感づいている。毒蜃を使ったからといって、北方だとは限らないだろう。
もしかしたら、北方と手を組んだ勝絶か--そんな考えが、一瞬、よぎったのだ。
勝絶が、螺呪羅の背後の煩悩京を攪乱し、螺呪羅の名前をおとしめながら、那唖挫と悪奴弥守を襲わせる。そして、螺呪羅本人は自分たちの軍で足止めする。そういう方法もあるだろう。
何しろ、螺呪羅が煩悩京入りしていないから、そんなことを考えていた。
「誰かと聞かれて素直に本名を教える忍びがいると思うのか、悪奴弥守」
『螺呪羅』は微笑みながらそう言った。
悪奴弥守はぞっとした。その笑い方が、あまりに螺呪羅本人に似ていた。だが、わかるのだ、この男は螺呪羅ではないと。
「忍びの常道をお前に説いても無意味なのはわかるが……相変わらずの単純さよのう。寝所で襲われて、俺に、俺の正体を教えて欲しいのか」
「名乗りやがれ!!」
おかしそうに笑う『螺呪羅』に対して、悪奴弥守は勢いよく怒鳴った。
「俺は、螺呪羅だ」
短刀を構え直しながら、忍び装束の美しい男はそう言った。
悪奴弥守はそのときになって、『螺呪羅』が桃色の軽装備であることに気がついた。それは、螺呪羅が、戦の本番以外で着る事の多い、忍びの任務の時の装備だった。正式な忍び装束とはまた違うのだが、桃色が妙に好きな(悪奴弥守からはそう見える)、螺呪羅が任務中に着ている服を『螺呪羅』が着ている。
それが無性に腹に立つ。どこまで螺呪羅に似せているのか--どこまで、妖邪帝国の幻魔将をバカにするか。
「お前は螺呪羅じゃない。魔将をバカにするのはやめろ」
悪奴弥守は『螺呪羅』に向かって居丈高に言い切った。
「何を言う? 俺以外の誰が、『螺呪羅』だと言うのだ」
しかし偽物はそんなことを言って、刀を構える悪奴弥守に近づいてきた。闇の中、刃をしっかりと握った腕が近づいてくる。
「違う!」
「俺は螺呪羅だ。……お前を愛している、お前だけを愛している、幻魔将だ……」
『螺呪羅』は密やかな溜息を混ぜてそう言った。
悪奴弥守はかっとなった。
そんなことは螺呪羅にも言われた事がない。
螺呪羅は悪奴弥守にそんなことは言わない。
言える立場じゃない!
「何故、憤る? 悪奴弥守よ。俺は、お前が愛しくてならないというのに……」
螺呪羅はそう言った。
悪奴弥守は、そんなことは本当に言われた事がなかった。壱越の国を滅ぼした後……薬品を飲まされて、螺呪羅に好きにされたことはある。だが、そのときに、螺呪羅はそんなことは言わなかった。
その後、螺呪羅はやたらに態度がでかくなった。さながら、悪奴弥守が自分の一部か所有物のような態度を取るようになった。何を言った訳でも、言い交わした訳でもないのに。言わなくてもわかるだろうとか、そんなことまで言っていた。
だから、怒った。
だから、憎んだ。
だから、大嫌いになった。
その男の顔をして、この『螺呪羅』は何を言うのか。
「ぶっ殺す!!」
悪奴弥守は最早、それしか言えなくなった。
実際、そう怒鳴り散らすと、悪奴弥守は刀を抜いて、大上段から、『螺呪羅』に切りか方。よく、天井に刀が突き刺さらなかったものだが、闇神殿の寝所の天井は高い位置にあった。
しかし、紙一重で螺呪羅はその大ぶりの攻撃をかわすと、素早く短刀を持って悪奴弥守の急所を狙う。
懐に入られたら、悪奴弥守だって不利である。攻撃力だけ言ったら悪奴弥守は魔将最強だし、機動力においてもなかなかのものだ。
だが、純粋な「速度」……「俊敏さ」と「回避力」においては、本職の忍び、乱波にかなう訳がないのである。
小器用に、悪奴弥守の死角に回り込もうとするのを察して、悪奴弥守も闇の中、足を機敏に動かし体の向きを変える。
短刀が鋭く斬りつけてくるのを、刀でなんとか打ち返した。
その刹那……
縄。螺呪羅が袖の中に隠し持っていた縄が、悪奴弥守の手に絡みついてきた。
絡んだ瞬間、そのまま大きく自分の方に引き寄せる。
条件反射で悪奴弥守は、縄を振りほどこうとして、逆に手首に巻き付けてたぐり寄せようとした。一瞬、縄が極限までビンと張る。
ところで、刀とは両手で持つものである。
何も考えずにそんなことをしたらどうなるか。
片手でかろうじて持っていた刀の方に短刀の重い一撃が入り、刀が遠くの畳まで吹っ飛んで突き刺さった。
得物がなくなった。
片手は絡め取られている。
「こ、このっ…………!!」
悪奴弥守は怒りのあまりそれ以上、声が出なかった。
すると『螺呪羅』は、まるで螺呪羅のような事をした。短刀を放り投げた。そこの、悪奴弥守が寝ていた布団に。
「?」
自分から武器を放り投げるという唐突な行動に飲まれて、悪奴弥守が目を疑う。その途端に、『螺呪羅』は、縄を握りしめて悪奴弥守との距離を詰めたと思うと、ほんの数秒のうちに、悪奴弥守の事を布団の上に押し倒した。
「悪奴弥守よ……虚勢を張るのはやめろ。お前の本心を知らぬものはいない……」
実に甘ったるくそんなことを囁きながら、『螺呪羅』は悪奴弥守の体をまさぐり、その頬の十字傷をなめ回そうとした。
切れるも切れないもあったもんじゃない。
散々挑発された末に、螺呪羅そっくりの『螺呪羅』にそんなことをされたもんだから、悪奴弥守は、全身から血の気が全て引くほど怖気だち、次の瞬間、脳天から逆流した血が全て噴出するかと思うほど怒り狂った。
そして、『螺呪羅』の目的が悪奴弥守殺害だということも気がついていた。
だから--
「うるさい、バカ野郎!!」
悪奴弥守は、螺呪羅の額に向かって自分の額を力いっぱい打ち付けた。そのまま起き上がる勢いで打ち付けた。
融通が利かない石頭で有名な悪奴弥守の頭突きがどれほどの威力があったかはわからない。しかし、『螺呪羅』は減らず口も聞けずに後ろにのけぞった。
悪奴弥守は素早く体を横に転がして起き上がり、体を半ば起こしてよろめいている『螺呪羅』に、握りしめた拳で殴りかかった。
専門の修行僧や拳士には劣るのだろうが、悪奴弥守は魔剣士であると同時に戦士でもある。格闘の基礎は出来ている。
『螺呪羅』の事を殴り倒す事には成功した。
少なくとも、『螺呪羅』は勢い余って戸口の障子を突き破り、廊下の方へと転がっていった。あるいは、吹っ飛んだふりをして、回避したのかもしれない。
廊下では、戦々恐々としていたヤヅカが、目を点にして転がってきた『螺呪羅』を見ていた。
悪奴弥守は、ヤヅカとスヤリが着せた寝間着のまま堂々と廊下に出てきて、素手を自分の腰に当てて仁王立ちになった。
「人の顔と名前で勝手な事しやがるんじゃねえ!! まして、俺を口説こうなんて一億年早いわ!! どこの誰か名乗りやがれ!! 名乗らねえなら、名乗りたくなるまでぶちのめす!!」
「お、長っ……」
ヤヅカは、タイミングよく復活した悪奴弥守に向かって、目を潤ませて感激した。
ヤヅカは、悪奴弥守が、『螺呪羅』が螺呪羅本人の顔をしているから怒っている事を理解した。その上、口説いたと言う事も聞いてすぐに理解した。そうでなければ、悪奴弥守の腹心は勤まらない。
そしてその上で。
(そうだ、長!! 幻魔将という幻魔将は許してはならんのだ!! この幻魔将をぶちのめす勢いで、本物の幻魔将もぶちのめせ!! 殺してしまえ、長!!)
心の中で力一杯応援した。ヤヅカは、基本的には闇魔将軍のトップクラスとして、闇魔将軍のために働くが、闇神殿内部でははっきりとした、「毒魔将派」である。彼の過去を考えれば当たり前だが、幻魔将なんか大っ嫌い!
と、言うよりも……闇神殿に、現時点で、幻魔将派がいるのか? というと、かなりの疑問点が残る。
大体が、戦に同道してくれるし、怪我や病気をしたらすぐ治療してくれるし、規則正しい生活の基本も教えてくれるし、気が利いて優しい瑠璃光殿が大好きだった。
その性質を、後年、螺呪羅は「頭が犬っぽい」と表現したが、もっと簡単に言うと「ガキだから」……と言えるかもしれない。