那唖挫がその騒ぎを知ったのは、昼飯時直前であった。
ちなみに那唖挫は目覚めた時から悪奴弥守の蘇生の息により完全回復しており、朝っぱらから施薬院で、薬師の高弟たちとともに、薬の調合とその指示に明け暮れていた。いずれにしろ、戦争、もしくは戦闘が行われることは必須であるから、そのときのために、薬品類のチェックと追加をしておきたかったのだ。
薬師の高弟たちは、言われた通りに、薬剤をそろえていつでも運搬できる状態にしておき、那唖挫はその脇の部屋で、自分にしか作れないハイレベルの万能薬(そう名付けられたもの)をせっせと作り込んでいた。
早い時間から休みなく薬を作り込んでいたので、当然、昼前には目が回るほど腹が減っていた。だが、あと少し、もう少しと、調合を続けてしまう。毒もなのだが、薬も作っていると、自分の仕事が完璧かどうか気になって、ついつい手を加えて時間が長引いてしまう、那唖挫はそういうところがあった。
そうして、空腹をこらえながら鬼の形相で薬を作っている時に、三兵衛が飛び込んできたのである。
「那唖挫殿っ!! 闇神殿が……!!」
乱暴に開けられた扉、舞い込む風。同時に、那唖挫が苦心しながらはかっていた秤の皿がひっくり返った。
「あっ……」
三兵衛が固まってしまう。
那唖挫は、真っ白な無表情のまま、三兵衛を振り返った。こめかみには真っ青な青筋が立っていた。
那唖挫は怒ると顔面が白くなるタイプなのである。それこそ、白紙のように真っ白になることすらある。
それはさておき、那唖挫はゆっくりとした口調で三兵衛に言った。
「入室する前に戸口で一声かけろと、何度言わせるんだお前は」
「あ、は、はい……」
三兵衛はまさしく、蛇に睨まれた小動物のように首をすくめて縮こまった。大柄でお人好しの一兵衛、寡黙で何を考えているか分からない二兵衛に続いて、三兵衛は元気のいい小動物型で、いつもせわしなく動き回っているが、機転がきく方だし、何よりも話しやすいタイプなのである。
「闇神殿がどうした?」
那唖挫は秤からこぼしてしまった薬品を丁寧に布巾で掃除しながらそう尋ねると、三兵衛は、恐る恐る顔をあげた。本当に怖がっているようだった。
「どうしたと聞いている。三兵衛」
「や、闇神殿が……大路で……」
この場合の大路とは、阿羅醐城から煩悩京の南門までまっすぐに続く黄雲大路の事である。黄雲とは瑞雲の事で、妖邪界においては実際に空に浮かぶ事もあるし、実際に阿羅醐が阿羅醐城で即位した際には瑞雲が到来し、それを記念して名付けられた。
当然ながら、その広さ長さは煩悩京最大規模、名実ともにメインストリートである。
その大路に、煩悩京の北の森、いわばほぼ手つかずの自然区域を守る闇神殿が、何をしにきたのかと、那唖挫はいぶかしむ。
実際問題、那唖挫の瑠璃光殿も南の外れだが、黄雲大路に敷地が微妙にかするので、それなりに便利だ。それに対して、闇神殿は、北の森の中でだけでも狩人と獣使いのおかげで自給自足出来るんじゃないかと陰口たたかれそうな奥まった場所に住んでいた。
……その奥地に神宮、というか、煩悩京最大の神社があるのだ。
「闇神殿が、大路……」
「蓮華殿の乱波の方々と、撃ち合いをしています」
「!」
那唖挫は今度こそこめかみに青筋を立ててぷるぷると震えながら卒倒を起こして後ろに倒れそうになった。一兵衛だったら即座に抱き留めてかばったのだろうが、三兵衛はそうはいかない。泣きそうな顔で悲鳴をあげそうになっている。
部下のその顔を見て、那唖挫はかろうじて踏みとどまった。
ここで自分が卒倒を起こしたら、誰がこの騒ぎを止めるのだ。蓮華殿と闇神殿が撃ち合い。それも煩悩京のメインストリート、ということは、一番人が見ている場所で。人手の多い場所で。
「どういうことなんだ!!」
「そ、そこまではわかりませんっ、ただ、弱った民の皆さんが瑠璃光殿に飛び込んできて……」
「当たり前だ、市井の民は瑠璃光殿に入れてかばえ! お前達の中で、腕に覚えがある者……そうだ、三兵衛、お前から十兵衛まで、俺についてこい!! フユやハルたちに避難の誘導をさせろ!!」
那唖挫はそういうふうに指示を出した。
なんで、そんな大騒ぎになったのかなどと、いちいち考えるのも面倒くさい。自分が転生してくる前々からの螺呪羅と悪奴弥守の争いなど、詳細は知らないも同然なのである。そこまで責任は負いきれないが、最低限、臣民だけは守らなければならないだろう。
そして、自分が止めねば。
那唖挫は白衣を脱ぎ捨て刀を佩いて、廊下に飛び出た。三兵衛はそれに続いた。那唖挫は走りながら、悌の宝珠を懐の中で探っていた。最悪、武装することになるかもしれない。
その後ろを、三兵衛に呼び集められた薬師達が、背負い子を背中にくくりつけて駆け寄ってくる。いくらどんくさいとはいえ、こういう時は本人達は必死の面持ちで最大限機敏に動こうとしているようだ。
それからわずかに遅れて、同じく襷掛けになって長髪も鉢巻きでとめたフユたち瑠璃光殿自慢の美女薬師軍団が出てきて、追いかけてくるが、男の足にはかなわない。
那唖挫達が大路についた時には辺りはもう、どこの戦場かと言う状態だった。
東方で本物以外のなんでもない戦争真っ最中の螺呪羅に言わせれば笑わせるなとしか言えない状態でも、主力と主力がぶつかり合ったわけでなくても、とにかく、蓮華殿の乱波と闇神殿の狩人が真正面からぶつかりあったのだ。それに、その場にいた無辜の民が巻き込まれた。
那唖挫はその事実だけで怒鳴り散らしそうだったが、ここでブチギレたら自分の負けである。
とにかく状況を確認しようと、見知った顔はないか素早くチェックする。
そして、恐ろしい事に気がついた。
そこにいたのは……ヤヅカだった。
ヤヅカの顔に青白い傷が浮かんでいる。どこかで見た事があると思ったら、アイヌの烙印に近いものだ。いつもは冷静で計算高い苦労人のヤヅカが、弓を張ったと思ったら、天空に向けてうちはなった。
その矢は、落下する瞬間に、五本の光の矢に分裂して、その場で戦闘中の乱波へと追撃する。さすが狩猟民族アイヌ、一本が五本に分裂するなんて、なんてそんな訳がない。ヤヅカもまがりなりにも妖邪兵、ブチギレ起こして戦場でしか使わない技を大路でぶっぱしまくっているようなのだ。
それに対する乱波はと言えば、必死に、幻影による変わり身を駆使して逃げようとしているようなのだが、かなりの手傷を負っていた。そこにいたのは、案の定、暗号男の弥助なのだが、色子の黒兵衛もいた。
そして他の数人の妖邪兵の乱波……那唖挫は顔ぐらいしか知らないが、螺呪羅や小次郎と一緒にいるところを見かけた事があるので、いずれも上忍レベルだろう。
「ヤヅカさん、気を落ち着けてください、俺たちはね、何も喧嘩がしたい訳じゃなくってですね……」
黒兵衛が幻影の印を切り、自分の分身体を表しながらそう叫ぶが、ヤヅカの返答は、アイヌ語だったので、毒魔将にも何を言っているのかわからなかった。
続いて、ヤヅカの左右に脇士のように突っ立っている双子のアイヌ少年が、掌底のように両手を突き出したかと思うと、まっすぐに何かの光線がほとばしり、片っ端から幻影を突き破っていった。
困った事に同じ顔で同じ衣装。悪奴弥守の側近中の側近、ヤヅカのそのまた側近(おそらくは前世で親族)ハギとハズである。那唖挫は一応、悪奴弥守が区別のためにハギが右耳、ハズが左耳にピアスをつけている事は知っているが、戦闘中になると同じ容姿のままもの凄いスピードで転がり回るように走り回り、戦場を攪乱するため、誰にも区別がつかない。
さらに困ったことに、ハギは闇魔将軍らしく、冷気攻撃を得意とするが、ハズはその正反対で熱気や火炎攻撃を得意とするため、正反対の属性の攻撃をぶち食らわせて相手を翻弄するのだ。
見かけは十四歳から十五歳程度の少年だが、悪奴弥守が戦場で使いやすいと褒めるレベルである。
ヤヅカがその秘蔵っ子レベルの火力(冷力)を持つアイヌ双子つれて、ここまで出てきてキレにキレてアイヌ語で何か怒鳴っている。
それに対して、乱波たちはヒキの一手だったらしいが、何しろ、かわしきれない。これはかわしきれない。攪乱戦術だったら、乱波たちも得意技なのだが、ハギとハズが超スピードで展開しながら四方八方から、熱気ビームと冷気ビームをかわるがわる当ててきて、幻影の鎧を剥ぎまくる。とても手数も忍具も追いつかない。
そこに、本気で起こった追撃の矢が天空から降り注いでくるんだから、一体どうしろというのだ。
「何をそんなに怒っているんですかー!!」
暗号など使わずに、弥助がそう叫んでみた。
そして返事が超絶キレキレアイヌ語だった。何を言っているのかは分からないが、とにかく怒っている事は口調や形相でよく分かる。ヒアリングは出来るがトーキングは日本語で出来ないらしい。今の心理状態だと。
「あーもうまだるっこしい!!」
ついにヒキの一手をやめた黒兵衛が、懐から忍具の縄を取り出した。そして、乱波らしい予備動作も感じさせない流れるような動きでヤヅカの間合いへと接近、その少年の体に向けて縄を解き放つ。
ヤヅカは両手に弓矢を携えているため、一瞬、ひるんだ。かろうじて、縄に捕まるのだけは避けたが、蓮華殿だったバカではない。肉体ではなく頭脳大事は蓮華殿だ。ヤヅカの視覚に回り込んだ上忍が、ヤヅカの背後からさらに縄を飛ばした。
相手は闇神殿の悪奴弥守が最もかわいがっている統括者、血を見る争いは避けるべき、という最低限の『マナー』が働くのが蓮華殿の魅力でありイヤなところでもある。
途端に、ヤヅカの全身から……白い霜柱と氷柱が飛び散った。ヤヅカは悪奴弥守ほどではないが冷気攻撃のプロフェッショナルで、自分の体とその至近距離にならば、自由自在に霜や氷を飛ばす事が出来るのである。霜柱が縄からヤヅカ本体をガードし、氷柱が縄を分断してしまう。
「さっすがあ!」
黒兵衛は思わずそう言ってしまった。
「感心してる場合か! どうすんだよコレ、お前が手を出すから……」
弥助が黒兵衛に抗議する。すると黒兵衛は遠い目になってしまった。
アイヌ双子のハギとハズが軽くタップダンスを踏みながらアイヌ語でまた怒鳴り始めた。何やら激しくこちらを詰っているらしいが、アイヌ語ではどうしようもない。
「何でこんなに怒ってるんですか?」
名もない上忍の一人、恐らく戦忍なのだろうが、おいていかれるレベルの一人が、弥助に向かって素直にそう尋ねた。
「聞いてどうするの、あれ、他の国の言葉だよ」
黒兵衛が肩をすくめて笑って言った。
「あーうん、あれは」
ところが、弥助はこう言った。
「”うちの長と俺たちを守りたいというならば、俺よりも強い事を証明しろ、クソバカ××野郎ども!!”と言っているっぽいな……」
一瞬、なんとも言えない「場」が軽やかに通り抜けていった。
「え、なんでわかるの?」
黒兵衛がぎょっとして尋ねた。
「え、だって。弥助さん、暗号班の班長でしょ。こういうの得意かなと思って、語学関連といいますか……記号関連といいますか……」
名もない上忍がそう言った。
今、気がついたというように、ヤヅカは大きく息をのみ、そのあと、真っ赤になって、口をパクパク開けてはしめた。まだ子供のハギとハズは、アイヌ語で鋭く抗議した。どうやらズルイズルイと言っているようだった。
「あ、うん……」
弥助は、ヤヅカに向かって悲しそうな目配せをした。
「俺にアイヌ語は通じないだろうと思って、色々暴露ったんだろうけど、途中から、なんていう意味かとかわりと分かっていて、言っちゃいけないんだろうなあと思って、ね……うん、ごめんね。犬神さんの私生活とか、うちの御頭とのほにゃららとかね……言いたいこと、たまっていたんで、アイヌ語で怒鳴りつけたんだね、うん。俺も、叱られて当たり前の事ばっかりで、困るんだけど……」
最後に弥助は、ぼそっと言った。
「それ、うちの御頭に言うことであって、往来で、俺たちにいっても仕方ないじゃん……」
「言わずとも、お前の御頭には、俺は、百回以上射かけてる!」
「言いかけてる?」
「違う、射かけてる!!」
はっきりと言いやがった。ヤヅカは蓮華殿の上忍に、螺呪羅を百回矢で射ようとしたと。
同じく、弟分であるらしい、ハギとハズもはしゃぎながら御頭バーカ!とか言い出した。
那唖挫はもう聞いていられなかった。市井の民に申し訳なくてならなかった。後で、弥助に付け届けをして、一体何を聞いたのか、確認しようとも思った。螺呪羅は日頃、悪奴弥守に何をやっているのだ。ヤヅカにこれだけ怒られるなんて。
「ちょっと待てよ。それ、俺たちのせいじゃないだろ。こっちは、頭下げながら、連携してくださいって頼んでるのに……」
さすがに不満そうに、黒兵衛がヤヅカにそう物言いをつけた。
するとヤヅカは、軽く無視した--ように見せかけて、鋭く何か言い放った。
黒兵衛も、まるきりのバカではない。単語の意味はわからなくとも、言葉の意味合いとして通じたものがあったらしい。
いきなり、短刀を抜いて、身構えた。
「いい加減にしろっ!!」
那唖挫が怒鳴ったのはそのときだった。
途端に、彼の周辺に純白にきらめく風が通り過ぎていった。風は螺旋を描きながら展開し、その場に倒れ伏していた、煩悩京の民も、乱波達も、瞬間的に完全回復した。
同時に那唖挫は、ヤヅカや双子達の負っていた傷も、回復していた。
生命力が非常に高い闇神殿のハイレベルである。軽い手傷などものにもしない……のだが、やはりその全身には忍具やその毒などが降り注いだ傷痕がある。それを全て取り除き、体が軽快に動くように回復をかけた。
通り全体から感嘆の溜息と声が上がった。
実に鮮やかな回復の芸当であった。
乱闘騒ぎで吹っ飛ばされていた家屋からも人が出てきて、那唖挫の回復”魔道”に惜しみない賞賛の声を送った。
「あ、ありがとうございます、蛇神さんっ!!」
「さすが蛇神さん!!」
黒兵衛と弥助が喜びを明らかにして礼を言う。
「あ、ありがとう……うん……」
妙に覇気が無い声でヤヅカは那唖挫に礼を言った。
ハギとハズの方ははしゃいで歓声をあげ、蛇神の方に飛び跳ねながら手を振った。実はこの二人は、まだ、日本語に関してヤヅカ以上にカタコトなので、それを気にしているのである。
そこで残酷な蛇神はこう告げた。
「次の戦には、毒魔将軍は不参加」
また、妙な「間」が過ぎていった。皆が耳を疑った。戦をするのが魔将の仕事のはずである。
まして今の鮮やかで正確無比、そして瞬間的な快復力を、戦で生かさないでどうするんだろう。確かに、治療の仕事は職場に事欠かないだろうが……。
「蓮華殿、闇神殿、お前達の我が儘にこれ以上つきあってられるか!! 市井の民まで巻き込んで、馬鹿馬鹿しい!!」
今度は那唖挫の方がそう怒鳴り散らした。
「冗談じゃない。お前達の痴話喧嘩など、もうまっぴらごめんだ。三兵衛、それから十兵衛まで、まだけが人がいたり、困っている者たちがいたら、手当てをしてやって、瑠璃光殿までつれてこい。民には罪はないからな。妖邪兵は別だ、馬鹿者!!」
カンカンに怒ってしまった那唖挫はそう言い切って、さっさと自分が瑠璃光殿に向かって歩き出してしまった。
言うことを言われてしまった蓮華殿と闇神殿は( ゚д゚ )ポカーン←こんな顔をして固まってしまった。基本的に、兄貴分達が大好きで、逆らわない那唖挫であるのだが、部下に対してはそうではなかったということか。
しかしそこはなんと言っても薬師の鎧を着る男、自分の職分は忘れず、民への回復やねぎらいは忘れないというところが彼らしかったのだった。
「や、それは、蛇神さん、やめてくださいよ蛇神さん!!」
まずは黒兵衛がそう叫んで那唖挫に泣きついた。
アイヌの双子のハギとハズがちょろちょろ走り回って、那唖挫の左右から、おずおずと手を伸ばしてきた。まだ子供らしい仕草で、那唖挫を、すまなそうに見上げ、何やら思いとどまって欲しいというような身振り手振りをしている。
そこで、那唖挫は、瑠璃光殿へ向かう足を止め、鋭く全員を振り返った。
「”ご免なさい”は!?」
結局、那唖挫も激しく甘いところのある男なのだった。
そういうわけで、蓮華殿と闇神殿、さらに瑠璃光殿がそれぞれ顔をつきあわせてこう言った。
「「「ごめんなさい」」」
那唖挫は、何故、瑠璃光殿の三兵衛たちまで、ごめんなさいしているのか、よくわからなかったが、おかげで、その場はおさまったので、それはそれでよしとした。
そんなもの、この場で、一番の我が儘を言ったのが那唖挫だったからに決まってるのに。
毒魔将軍が戦不参加なんて言われたら、もう謝るしかないだろうし、そんな荒技を魔将が言い出したら、部下が謝るしかないだろう……。
それを見て、黄雲大路の民達が笑い出した。
最初はびっくりしたし、確かに怒ったかもしれない民たちだったが、お互いに三者三様頭を下げている様子を見て、おかしそうに、楽しそうに笑っていた。
本当に苦しかったらそうはいかないだろう。那唖挫はそのことに少しだけほっとした。
知らない間に、自分以外の魔将が動けない状態であることを、気負っていたのかもしれない。
笑っている民達に三兵衛達が近づいていき、那唖挫は大路全体を見渡して、被害のほどを点検しようとした。そのことは、破壊魔の闇神殿も気がついたらしく、ハズが熱気攻撃をぶち当てて焦がした露天に弁償に行った。
馬が走り寄ってきたのはそのときだった。
見るからに引き締まった胴を持つ青毛の汗馬が、凄い勢いで大路を走り抜けようとした時--緑色の長髪を持つ那唖挫の姿が視界をかすめたようだった。
騎乗していた男が馬を止めるなり、飛び降りて、那唖挫の方に駆け寄ってきた。
「蛇神様!」
その名の呼び方は、蓮華殿の通例である。誰が言い出したのか知らないが、蓮華殿だけが、那唖挫を蛇神、悪奴弥守を犬神という。
那唖挫は駆け寄ってきた傷だらけの小兵を、乱波とみてとると、うなずきかけた。
(早馬……?)
そういうことだろう。顔には見覚えがないが、蓮華殿が、顔を覚えられるような伝令を使う訳がない。
那唖挫は三兵衛達に目配せをして、大路から少し奥まった小路に素早く移動した。心得たもので、顔の分からない伝令が、那唖挫の後をついてくる。
人影のない小路で、那唖挫は第三の目を使い、彼だけのレーダーで誰も聞いていない事を確認し、伝令に向かってうなずきかけた。
「なんだ。勝絶で、何かあったか」
すると、伝令は、那唖挫に向かって声まで潤ませてこう言った。
「勝ちました」
実に簡潔な言い方だった。
「御頭は、犬神様と蛇神様のために、勝ちました。もう、帰ってこられます」