夜中に那唖挫の戦場レベルの大音声を聞いた瑠璃光殿。
だが、敵のスペックは螺呪羅そのもの。
一兵卒レベルの妖邪兵がかなう事があるだろうか。当たり前だが、妖邪兵が将棋の「歩」なら、魔将達は「飛車」「角行」どころか「龍王」レベルである。ましてや、どんくさい事で有名な毒魔将軍の巣窟である瑠璃光殿を、螺呪羅の偽物が痕跡を残さず脱出することなど、文字通り朝飯前だった。
だが、瑠璃光殿だって、バカではない。
当然ながら阿羅醐城にも他の御殿にも極秘のままもの凄い速さで連絡を入れた。医薬の長である毒魔将が背中から斬られて人事不省。これでは、戦も行動も何も出来ない……。
無論、捜査に出ていた一兵衛から五兵衛までが、飛んで帰ってくるのも速かった。
だが、それよりも速かった男がいた。
「那唖挫は無事か!?」
瑠璃光殿を開門させるなり開口一番そう叫んだのが、闇魔将悪奴弥守。さすがに、那唖挫を猫かわいがりにしているだけはある。その上、その機動力、行動の速さ馬の速さたるや、魔将随一なのである。
応対したのは薬師のフユであった。
凜とした厳冬の空気を思わせる美少女で、博識とスキルの高さは間違いない。那唖挫の高弟でもある。
いつもはきっぱりした正確な受け答えをするフユであったが、今回ばかりは顔を曇らせて何も言わなかった。
「どうなんだ。那唖挫はどうしている」
「なんとも言えない……状況です」
珍しく、勝ち気なフユが口ごもってそう言った。
悪奴弥守は悔しさに顔を歪めると、そのまま断りだけ入れて、瑠璃光殿の那唖挫の寝所にめがけて突き進んだ。連れてきたのはヤヅカと、ハシリバだ。使えるかどうかは分からないが、闇神殿には森の生命から採取する民間薬が伝わっている。ハシリバは獣使いなのだがそういう作業が得意で、秘伝の薬をいくつか持ってきた。
悪奴弥守が、ヤヅカとハシリバをつれて寝所に駆け込んだ時、那唖挫は止血こそ終えていたが、血なまぐさい部屋の真ん中で、真っ青な顔をして仰向けになっていた。
その周辺に、男女問わずに高弟であろう薬師達が取り囲み、手を尽くしているようだが、どいつもこいつも、那唖挫レベルに顔が青白い。
悪奴弥守はその場で固まった。
「おい。これ……毒か何かか? 那唖挫の治癒能力がきいてないんじゃないか」
悪奴弥守が、間抜けな事を言っているように聞こえる。
ところが、薬師達の数人は、視線を見交わした上でうなずいた。
「魔将、それも毒魔将の、回復や治癒力を上回る手傷なんて、そうそうない。それを押さえ込んでいるっていうなら……毒か呪詛だが、那唖挫に呪詛かけられる魔導師っていったら……どんなやつだよ」
自然の生命力を司る悪奴弥守は、致死量の傷を受けても死なずに、昏倒しただけですぐ復活するという体の秘密を持っているが、那唖挫も似たような特徴はあった。那唖挫は、快復力、免疫力が、「伸びる」のである。どういうことかというと、手傷を受けた時点で、急速に回復が始まる。呪文を唱えれば一発で全快するというような事はないが、常人の数倍の速さで快復力が高まっていき、最終的には手傷のダメージを上回っても回復する事すらあるのだ。(高リ●●ネと思った人は何も言わずにこっちに来てね)
その快復力がまるで働いていないということは、……死んでる。
しかし、悪奴弥守は知っている。この世界にいる限り、魔将は死ぬ事は出来ないと。つまりどういうことかというと、死ぬほどの苦しみを受けたまま、死ぬ事も出来ずに、青い顔で仰臥している。
意識があるかどうかは、わからない。
「ハシリバ!」
「はいっ!!」
ハシリバは、闇神殿、闇魔将軍の獣使いの中では、相当に出来る方だ。先ほども書いたように、薬品に強い。ということは、毒薬にも同じぐらい強い。
「待って。私たちが見た時は、毒であることは確かなんだけど……毒魔将である那唖挫殿の、毒抗体を超える毒なんて、あるわけが、ないの。だからみんな、手のうちようがなくって……」
フユがそのハシリバを止めた。
「何年前の話だ?」
悪奴弥守が、フユをたしなめた。
「えっ……」
「那唖挫が、この体を得たのは、何年前の話だ。俺たちは、転生してきた人間で、それぞれ自分だけの体を持っている。那唖挫は毒魔将として、あらゆる毒の抗体は持っている。だが、それは、……その時の話だろう。そのあとに、開発された毒薬だったら、どうするんだ?」
「……」
「医学が、科学が、進化すればするだけ、こういう話は出て来るだろう。俺たちは死なないが、無敵じゃない」
そう言って、悪奴弥守は、ハシリバにうなずきかけた。
ハシリバは、那唖挫の枕元にひざまずくと、自分が持ってきた細かい道具を取り出して、那唖挫の体を診始めた。
その間、薬師達は、固唾をのんで見守っていた。
「半分意識あるようです、長……毒魔将さん、頑張れば、起きられると思いますよ?」
やはり、悪奴弥守の子飼いらしく、気安い口調で言いながら、ハシリバは、丁寧で慎重な手つきで那唖挫の体を点検した。ほんのわずかな動きも見逃さないように。
ハシリバは、見かけは悪奴弥守より一つ二つ年長の青年に見える。純粋の日本人の若者らしい顔立ちをしており、よく日焼けして活動的な空気を持っており、実際明るく真面目な性格をしていた。鳥獣を深く愛し、自分の分身として操る事も出来る、その上で悩みも抱えている男である、のだが……。
「……長」
「なんだ」
「さっきの取り消します……これ、恐らく、平調の毒蜃の猛毒です……」
「平調!?」
ハシリバは、無意識に呟いていた。既に意識せぬまま、汗がじっとりと額に浮かんでいた。
「よく生きているな」
悪奴弥守は愕然として、ほんの数秒の間、声が出なかった。蜃気楼を生み出す化け物、蜃。その変種である毒蜃が、平調の国にはいる。伝説的な存在だが、実際にいる。確認されている。
何故知っているのか。平調が、悪奴弥守配下の--彼の「領地」で、攻め滅ぼした王国だからだ。
蜃には様々な異説があって、その中には、蜃を香りとして炊くとその香の中に蜃気楼が現れるとか言うものもある。そういう不思議な生物なのだが、毒蜃となると、その香りの中で人間は際限ない悪夢の中にあえぐ言う話である。
「毒蜃の吐く猛毒を基にして、平調の伝統の毒薬を混ぜて強力にした奴ですね。何で、平調の忍びが今、こっちに来ているのかは分かりませんが……これ、俺にも解毒出来るかどうかちょっと自信が……」
「何、気弱な事を言ってやがる。お前に出来なかったら、闇神殿(うち))の誰が解毒出来るんだ!?」
「そうですが……普通の平調の薬だったら、俺もすぐに出来ますが、毒蜃の毒は、毒蜃の抗体がないと解毒出来ないというのが基本で、それは、毒蜃からとってくるしかないんです」
「平調まで行けってのか!?」
世界の中心にある煩悩京から、空の海を越え、雲の海を越え、果てない北の蒼穹にある大陸の、「蜃気楼を吐く事が趣味のハマグリ」「毒吐くのも好きなハマグリ」狩ってこいという話なのか。
何故、ハシリバがそんなことを知っているのかというと、獣に限らずモンスターなら何にでも興味を持つ癖のある青年で、そういう意味では変わり者だからだ。恐らく、毒蜃を平調で狩った事があるのだろう。抗体はその場で消費したのか。
「平調……」
薬師達も絶句している。平調まで行って帰ってくるのは、空を飛ぶ獣や舟の力を借りたとしても、一ヶ月はかかるだろう。
悪奴弥守は頭をかきむしった。
本当に、なんでこんなことになるのか、訳がわからなかった。
「分かりました。私が行きます!」
そこで、フユと一緒にいた女薬師達が示し合わせて立ち上がった。
「一ヶ月なんてかけません。私たちが、全力で、那唖挫殿のために毒蜃の抗体を手に入れます。那唖挫殿をこのままにしておけません! 平調がなんだっていうんですか!」
「ちょっと待て」
悪奴弥守は、瞬間的に、かっとなった。
「平調は、俺の領地だ。滅ぼしたのは、俺と那唖挫だけどな。--そして、那唖挫と同じ魔将は俺だ」
「大神の方、でも!」
フユはさらに何か言いつのろうとした。
だが、悪奴弥守はそれ以上は言わせなかった。
自分も何も言わなかったが。
「長っ……!」
気配を察したヤヅカが止めるよりも早く。
悪奴弥守は、那唖挫に、”蘇生の息”を使った。
悪奴弥守は、那唖挫に深いくちづけを行った。
唇を吸い上げて、自らの生命力を深々と那唖挫の口腔に吹き込む。
その動きに一切のためらいはない。皆の前だというような意識もない。あるのは、那唖挫を蘇生させるという強い意志と責任感だけだった。
「ギャー!」
フユの隣に立っていたナツが叫んだ。
蘇生の息の原理を知っているからである。
蘇生の息を使えば、那唖挫は確かに復活する。だが、那唖挫の傷が深ければ深いほど、生命力が失われていれば失われているほど、そのダメージは悪奴弥守にいく。
そのダメージを悪奴弥守はどうやって回復するのかというと、眠る。
その場で眠ってしまう。一回眠ったが最後、全快するまで起きられない。
つまり、那唖挫のかわりに悪奴弥守が寝込んでしまって、いつ起きるかもわからなくなったということだ。
煩悩京が、魔将が受けたダメージは、どっこいどっこい。那唖挫が死の毒の床につき続けるよりはいいかもしれないが……。
「心配、しなくていい。俺たち、長、連れて帰るから」
文字通りその場でぶっ倒れそうになった悪奴弥守を、寸前のところでヤヅカが抱き留めた。脳内ベースがアイヌ語の彼は、たどたどしい日本語でそう言うと、悪奴弥守の事を大切そうに抱きしめた。
「で、でも……」
不安そうな表情を隠さない、フユたち女薬師。見た目が若く美しい娘達だけに、いたわしい風情であった。
「心配しないで下さい。俺たちの長は、そう簡単にくたばったりしないんで。闇神殿は瑠璃光殿さんに比べれば、何事も荒っぽくてむさ苦しいけれど、こういうときこそ強いんです。それよりも、瑠璃光殿で何か弱るような事があったら、何でも言ってください」
ハシリバは明るい笑顔でそう言って、ヤヅカと一緒に眠り込んでいる悪奴弥守を脇から抱え込んだ。
「……はい」
薬師の男女達は、そういうしかなかった。
一応、知識では知っている。魔将は死なない。--特に、妖邪界の自然の生命力を司る闇魔将悪奴弥守は、決して、死なない、滅びないということを。
自分たちの毒魔将那唖挫こそが、薬師であり導き手であることと、同じぐらいそれは本当の物語なのだということを。