向けられた背中

 瑠璃光殿に戻ると、一兵衛が出迎えた。
 悪奴弥守の補佐官がヤヅカであるならば、那唖挫の補佐官でともに瑠璃光殿と四箇院を取り仕切るのがこの大柄な男である。

 大柄といっても、カラムシのような精悍で野性的な威圧感は持っていない。むしろ、長髪をひっつめにして後ろで一つに束ね、白っぽい着物に袴をまとい、眼鏡をかけた彼は、お人好しの権化に見えた。実際に、百姓のように薬草畑を耕したり、四箇院の女薬師たちとともに患者の世話で移送をしたりする際に、怪力を発揮する事はよくあるが、戦となると、生来の臆病で優しい性格が露呈してしまう。もっぱら毒薬や薬品の調合や使用の方に回りたがるが、かわりに非常に気が利いて優しい。患者想いで、女子供老人の意見もよく聞く性質は、四箇院に務める薬師たち全般に人気があった。そのため、押しも押されぬ「一兵衛」の名前を那唖挫からもらい、その後、実力によって、二兵衛、三兵衛、四兵衛……と続いていくのが瑠璃光殿のナンバーである。

 その一兵衛が、那唖挫がヒステリーを起こして闇神殿に突撃したので、それはもう心配して気に病んでいたところ、まんじゅう喰ってけろっとして帰ってきたので、それはもう、喜んだ。
「那唖挫殿、那唖挫殿、大神の方は、何か申されてましたか。それから、向こうでは、最近、鳥獣の病などは……」
 何やら一兵衛は細々としたことまで気を配りながら聞いてくる。
 那唖挫は鬱陶しそうに喉を鳴らしながら、一兵衛を連れて歩き、自室に入る前に療病院の院長室に入った。そして、一兵衛に、二兵衛から五兵衛までを呼ぶように言った。
 一兵衛はびっくりしたが、那唖挫の唐突な行動はいつものことだったので、特に気にせず、呼びに行った。

 那唖挫はそこで、闇神殿での悪奴弥守との話し合いを簡略して伝えた。

「--というわけで、螺呪羅の偽物を捜査するのは、当分は瑠璃光殿の役割となった。確かに、獣を使えば、闇神殿の方が素早いだろうが、悪奴弥守の闇神殿と螺呪羅の蓮華殿の対立状態は変わってない。そこに、螺呪羅が今いない。……もめ事が起こらないように収めるには、俺がやるしかない」
 那唖挫は思った。
(朱天童子がいてくれたらな……)
 本来なら、四魔将筆頭となる彼が起きていてくれたら、こんな面倒ごとはなかったかもしれないのに。


「それで、お前達に、偽物の捜索を任せたい。確かに、嗅覚や直感力なら闇神殿に負けるが、俺たちの医学や科学が太刀打ち出来ないなどと言う馬鹿な事はない。それに、病院ほど区別なく人の集まる場所もなく、人を見極める場所もない、そういうことだ。俺はうかつには動けないが、頼むぞ、お前ら」
 那唖挫がそう言って、一人一人の顔をじっくりと見つめた。

 とんでもない話を聞かされ、大役を任された、一番から五番は、背筋を伸ばして拳を握りしめ、顎を引いていた。だが、瑠璃光殿と蓮華殿の仲はというと、極めて良い。元から、戦のような場面でも、貧弱(文弱?)でどんくさい瑠璃光殿の周辺を盾で囲うように守ってくれるのが蓮華殿の忍びや戦士達なのであるし、そもそも喧嘩するような問題が発生した事がなかったのだ。

「そ、それは……もう、那唖挫殿。我々を信頼して下さるならば、最善の結果を出して見せます」
 緊張にうわずった声で、一兵衛が頭を下げると、続いて二番から五番も頭を下げた。

 捜査の主役は一兵衛になるだろうが、二~五番が、その手足となる。それで、どこから探ろうか、などの大雑把な作戦については、那唖挫が、花街を当たれと言い、自分の持っている情報を耳伝いに渡した。
 それで、一兵衛から五兵衛たちは、細かいところを詰めるために別室に移った。

 那唖挫は、溜息をついた。本当は自分が動きたいところだが、四箇院のトップとしての仕事は簡単に外せないし、そもそも、

(俺の偽物まで出たらどうする……)
 それが、気になった。何故、螺呪羅の偽物が出没してショバ荒らしをしているのかといえば、そんなものは、外征中の螺呪羅の背後をついて攪乱するためだろう。情報は恐らく、勝絶までいっているはずだ。そろそろ螺呪羅の耳に入っているかもしれない。

 それで、那唖挫は、現段階では、これは勝絶の魔術師か、忍びのすることと踏んでいた。だが、確定出来る訳ではないので、口には出さない。悪奴弥守にも聞いてみたかったが、もしも、勝絶でもどこでもない相手だったのにうかつな言動をとったら、後で馬鹿にされるの那唖挫である。それは嫌だった。


 とりあえず、今日も、療病院や施薬院の仕事は山積みだったし、夕方には悲田院の見廻りにもいかなければならなかったので、那唖挫は余計な事は頭から追い出し、まずは目の前の書類仕事に取り組み始めた。



 そういうわけで、那唖挫は夕方に悲田院の見廻りをして、瑠璃光殿の方に戻ってきたのは月も高く上がった後だった。
 そこで瑠璃光殿の主として、基本的な事を取り仕切り、食事を終えた後、どうしてもやりたい自分の研究の方に取りかかるため、例のモルタルの中に閉じこもった。

 その頃の那唖挫が興味を持っていたのは、妖邪界で初めて博物学の辞典を作る事であって、毎日コツコツ取り組む事が何よりも肝要であった。何しろ、那唖挫がどれだけ頭が良くても、手が早くても、当時の妖邪界にパソコンやエクセルがあるわけでも、インターネットがあるわけでもないのである。
 とにかく手作業で、辞典を作るために、絵を描いたり字を書いたり紙を整理したりという、普通の人間だったら三日で発狂しそうな事を、ネチネチと粘着質にしつこく細かくじっとりと、取り組んでいた。

 こっちはこっちで、辞典チームというべき補佐がついていたが、それも、那唖挫は一兵衛に頼っていた。
 その一兵衛は、今日は那唖挫の言った通り、日頃行った事もない花街の方に出向いている。そのため、本当に静かな晩だった。

 秋の夜の静けさ、誰にも邪魔されないことをいいことに、那唖挫は気がかりだったところを一気にやってしまい、気がついたら、月が大きく西に傾いていた。

「……」
 那唖挫は塗り籠めを出ると、そこに、番をしていた与次郎が、刀を抱えた姿勢で居眠りをしていることに気がついた、那唖挫は、肩を叩いて与次郎を起こした。

「あっ……那唖挫殿……」
「もう部屋に戻って眠れ、明日も早いだろう」
 ぞんざいにそんな言葉をかけ、那唖挫は、自室に向かう廊下へと渡っていった。与次郎は恥ずかしそうに涎を拭って、バタバタと自分の宿直室に戻っていった。



 那唖挫は自分の部屋の方へ向かった。
 以前は、瑠璃光殿は几帳や衝立の敷居しかない、プライベートがあるようなないような空間だったが、この頃は、那唖挫がどうしてもと言うので、個室が出来るようになっていた。
 少なくとも、那唖挫には、個室があった。

 瑠璃光殿の正殿の奥まった部屋で、当然ながらかなりの大きさと設えを持っている。出入り出来るのは那唖挫付きの侍女と本当に親密な数人だけだ。侍女の方は寝具を整えたらとっくに自分の部屋に戻っているだろう。那唖挫はそのつもりで気を許し、あくびをかみ殺しながら自分の部屋に入っていった。

 入る瞬間、予想通り、侍女が用意しておいただろう、那唖挫のための羽毛布団が見えた。



 何が起こったのか、那唖挫にはすぐにはわからなかった。



 何か強い力に突き飛ばされた……そう思った次の瞬間、体がふわりと浮き上がり、……気がついたら羽毛布団の上にいた。

「? ?」
 呆然としている那唖挫の上に、強い力で何かがのしかかってきた。那唖挫は咄嗟に、のしかかってきた相手の脚と思わしき辺りに蹴りを入れようとした。反射的に、四肢を押さえ込まれると思い込み、手足で振り払いをかけた。

 だが、相手はその那唖挫の腕をつかみあげたかと思うと、敷布の上にねじ伏せた。那唖挫は何がなんだかわからないが、人を呼ぶ事はしなかった。

 相手は、男だった。那唖挫よりも体が大きく、腕力もある。長髪のようだが……。同性に布団の上でこの状態であるのを、余人に知られるのはプライドが許さない。その分怒りが燃え上がり、那唖挫は、まだ自由になる脚で必死の抵抗を試みようとした。

「全く、つれないことよな、那唖挫。せっかく通ってきたのに……」
 その耳元に、聞き慣れた甘い囁きが落ちてくる。
 かすかな吐息。

 那唖挫は驚きに目を見開き、すぐそばにある顔をよく見てみた。

 青みがかった灰色の髪、蒼そのものの隻眼。黒い眼帯。
 片目が損なわれているからこそ映える、妖邪界一とまで詠われた、妖美を誇る顔。

 螺呪羅、だった。


「に、偽物っ!」
 思わず那唖挫はそう叫んだ。よりにもよって、いきなり自分の寝所に螺呪羅の偽物が現れるとは。

「偽?」
 螺呪羅の顔をして、その男は笑った。余裕のある笑い方だった。窓の外、月光を受けた螺呪羅の笑みは、総毛立つほど美しかった。
「お前は本当に可愛い事を言う……那唖挫よ、何故、俺を偽物だと思う?」
「ち、違うとでも言うのか!」

 あまりにも、螺呪羅に似過ぎていた。こんな美しい男が二人といるはずがない。螺呪羅は、帝国一の手練れの乱波であると同時に、優れた容姿と頭脳、そして卓抜した文芸方面のセンスをもってして、一番目の魔将と民に認められた男だ。
 偽物のはずの螺呪羅からはそれが感じられた。那唖挫は、螺呪羅と組み討ちをしたことが何度かあるので、わかるのだが、螺呪羅の押さえ込み方と酷似していたあし、螺呪羅の持つ美しさや、知性を感じさせる表情、言葉選びの癖などが、あんまりにも似ていたのだった。



 螺呪羅は、近接戦ならば、那唖挫よりも圧倒的に強い。
 刀を持たせれば、那唖挫もいいセンまで行くのだが、懐に入りこまれたら終わりだ。那唖挫は、体術ではなく剣術と、魔道の武将なのである。つまり、寝込みを襲われたら終わりだったのだ。昔から。


 それに対して、螺呪羅は、近接戦と中距離戦を制覇する戦い方をする人間で、特に、素手で痕跡を残さない仕事をさせたら本当にもうプロフェッショナル。
 那唖挫の首がちりちりと焦げ付き始めた。

(暗殺(や)られる!!)
 何故かは分からないが、相手は、螺呪羅と同じ戦闘力を持っていると考えて間違いない。
 だとしたら、素手で首をねじ切られるか、あるいはもっとえげつない方法で、那唖挫はこの場で殺される。そのための、攪乱騒ぎだ。当たり前だろう。

 螺呪羅の偽物に化けて、するべきことが、魔将か「その上」の暗殺じゃなくてなんだと言うのだ。

 そんなのは悪奴弥守だってわかりきっているだろう。言わずもがな。



 那唖挫はとにかく無我夢中で暴れて、螺呪羅の体の下から逃げだそうとした。手練れの忍び、音もなく暗殺し、証拠も残さない事が本業の忍び、その男に組み伏せられているんだから、がむしゃらに暴れるのも当たり前だろう。

 冷静になれば、黒、白、問わず、魔道をぶっぱすることも出来るだろうが、その魔道を詠唱している間、近接にいる敵の乱波がのんびり待っていてくれるだろうか。そんなわけがない。


「何故、悪あがきをする……かわいがってやるというのに。俺とお前の仲ではないか、那唖挫?」
 甘ったるく囁きかけながら、螺呪羅の偽物は、那唖挫の着物の中に手を差し込んできた。そして粟立つ肌をいとおしそうになで始めた。

「ふざけるな!」
 螺呪羅そっくりの男。
 その手つきが確かに似ていた。指の動きまで……。そこに嫌悪感と、ならされてきた感度があって、那唖挫は怒鳴り、条件反射で螺呪羅を思いきり突き飛ばした。

 考えなしの動きが予測出来なかったのか。一瞬、螺呪羅の体が離れ、そこを逃さじと那唖挫は四つん這いになって螺呪羅の体の下から一気に飛び出ようとした。格好などかまってられない。そこに、那唖挫の愛刀がある。
 ここまでされたらすべきことは一つ。那唖挫自ら螺呪羅を切り捨てる。

 そこでいきなり、螺呪羅の偽物が、立ち上がって窓を閉めた。

「何」

 窓が何故、開いていたのか、考えてみなかった。--途端に視力がなくなる。--何もわからなくなる。--那唖挫は、闇の中でも生き物の場所は分かる。だが、夜目がきく人間ではない。
 --夜目がきくのは、螺呪羅と悪奴弥守だけだ。特に、悪奴弥守にはどんな暗黒もきかない。

 那唖挫は、螺呪羅の偽物の位置は分かったが、刀の位置は瞬間的にわからなくなり、刀をつかもうとして空間をかいた。

 螺呪羅の偽物は、那唖挫の殺意を理解した。愛刀の方に飛びついたということは、そうだろう。
 そして、刀の方に歩み寄ってきた、那唖挫の背後に回った。敏捷としか言い様のない乱波の動き。

 既に、得物は螺呪羅の手中にあった。那唖挫の刀を持ってして、螺呪羅の偽物は、着物の乱れた那唖挫を背中から斬りつけた。容赦なく。急所を狙って--


「がはっ……」


 那唖挫は血を吐いて倒れた。
 どういうことかは、那唖挫の第三眼のレーダーが捕らえて分かっていた。
 蛇神の化身でもある那唖挫は眉間の間に、蛇と同じ第三の目を持っている。それは、動くもの、体温をもっているものならば、相当な範囲内まで識別し、闇の中でも那唖挫を導くのだが、逆に。
「動かない、静物」の方は見る事が出来ないのだ。

(何故知ってる……この偽物……ッ、螺呪羅と悪奴弥守、それに阿羅醐様以外知らない……俺の情報をっ……!!)

 流血、激痛、疑問。
 何故と言われても答える下手人がいるわけがない。
 那唖挫は最早、なりふりかまっていられなかった。

「曲者!!」

 残された渾身の力を振り絞って、那唖挫は夜中に雄叫びを上げた。

「曲者、曲者ォッ!! であえ----ッツツ!!!!」


 途端に、那唖挫は再び斬りつけられた。黙らせるためだろう。容赦なく着られ、血を吐きながら布団の上に倒れて、さらに踏みにじられた。そして、螺呪羅の偽物は、音もなく寝所から飛び出て行った。那唖挫は次第に薄らいでいく意識の中で、必死に、螺呪羅の偽物の生体反応を追った。

(似ている……何故、そこまで似ている……?)
 その、那唖挫にしか識別出来ない「生体反応」まで似ている。
 だから戸惑った。隙が出来た。あまりにも、愛する螺呪羅に似ていた。大好きな長兄そのものだった。

「らじゅ……ら……」
 だがもちろん、螺呪羅が、那唖挫の螺呪羅が、こんなことをするわけがない。帝国を裏切る訳もなく、自分を裏切る訳もない。そんなことはわかりきっている。那唖挫は、無様に斬りつけられ倒れ伏した姿で、螺呪羅の事を思い浮かべた。

「ぶじ……で……」



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