向けられた背中

「長、お帰り」
 普通の主従だったら考えられないような気安さで挨拶をしたのはスヤリだ。
 黒髪を長く伸ばした、悪奴弥守付きの女中である。
 悪奴弥守よりも2~3歳年上に見える大人っぽい女で、痩身で背が高い。とびきりの別嬪と言うほど自分に手をかけていないが、まあ別嬪だ。化粧の仕方次第で映える顔をしている。悪奴弥守が知る事ではないが、わざと地味目に抑える化粧というのもあるのだ。
 性格は無口で極めて真面目……に見えて、かなり事なかれ主義者で、面倒ごとには関わりたくないという基本スタンスを崩さない。それでいて、カラムシを反動を使った投げ技で一発で投げ飛ばすという手練れであるから、悪奴弥守の女中をしていられる。

 その頃の悪奴弥守は、そのスヤリと同じぐらいの背丈かそれより低いぐらいだった。それにふさわしい、ともすれば小兵になるかもしれない骨格に引き締まった筋肉を、日々の訓練でつけて、後は気迫と気力で魔将としての威厳を保っていた。
 人間界ならば、戦国期における青年としては巨体と言って差し支えない体を持っていただろう。悪奴弥守ならずとも、那唖挫も、螺呪羅も朱天も。
 だが、ここは煩悩京。--人種も違えばルールも違い、世界も違う。


 悪奴弥守程度の身長の人間はごろごろいたし、それは必ずしも黒髪黒目とは限らなかった。紅毛碧眼の青年も、輝く髪の美少女もいた。彼らには彼らの国があり、名前があり、文化があった。ここは人間界の鏡の世界と呼ばれているが、決してうり二つの世界ではない。
 鏡のように映し出されるのは、人間界の「荒廃」や「戦争」などに限られている……と言われていた。

 それはさておき。

 要するに、悪奴弥守は、四魔将の中で一番背が低く、一番小柄で、一番俊敏で小回りがきくが、その怪力においては、血と涙の訓練と刀や武器装備のテクニックで手に入れたということだった。
 それに対して、スヤリはすらっと背が高く、面白いように、熊のような巨漢を反動オンリーでぽんぽん素手で投げるのだった。


 悪奴弥守はいつもの通り、無言で、スヤリに窮屈な正装を脱ぐのを手伝ってもらった。
 スヤリは黙々と手を動かしている。それが彼女の気質だろうが、何しろ気楽だ。無口と言うのは、不便なようだが、「余計な事は聞かない」という美徳に関しては誰にも文句はつけようがないだろう。特に、現在の悪奴弥守の心境においてはそうだった。

 螺呪羅の噂を聞いた後に、自分と同じ身長の女に出くわしたので面白くなかったのだが、相手が大人しくせっせと仕事をしていると、次第にへそを曲げる必要が感じられなくなってくる。
 スヤリは悪奴弥守の着替えを手伝い、長着に袴だけの装いにさせると、彼が床几にもたれかかるのを見て、廊下の方に出て行った。茶を入れに行こうと思ったのだろう。

「スヤリ」
「はい?」
 スヤリは悪奴弥守を振り返った。
「来月には俺は、領地に帰りたい。北方が本格的な冬を迎える前に、見ておきたい事がいくつかある」
「ふうん。そっか--ヤヅと話すといいよ」
 スヤリは相変わらずの無関心で、ろくに敬語を使いもしない。
 しかし悪奴弥守はそれを気にする事もなかった。彼女は、悪奴弥守が闇神殿に転生してくる前からここで女中頭のようなことをしていた女性で、そういう意味では先輩格に当たる。
 そのほかにも。
 あからさまな滅私奉公というよりも、今のようにあっさり突き放すところのあるスヤリとの関係は、悪奴弥守にとってはドライで居心地の良いものだった。そして深い意味はないのもいい。


 スヤリは昔ながらの仲間のヤヅカを呼びに行こうとした時、まさにそのヤヅカが廊下を小走りに走ってやってきた。
「ヤヅ?」
 ヤヅカは、アイヌの少年である。まだ、体に入れ墨を入れていない段階だが、民族衣装の厚着は常に着ている。
 実際には悪奴弥守と同い年(肉体年齢15~16歳)であるそうだが、それよりも幼く見えた。かなりの童顔だ。妖邪界でも煩悩京の辺りでは日本語が公用語になっているが、ヤヅカは頭の中ではまだアイヌ語を話して考えている。そのため、日本語を話そうとするとつっかえたりどもったりする癖があった。
 そのせいか、悪奴弥守の補佐官に当たる立場でありながら、多少人見知りしてしまうところがある。

 そのヤヅカが物怖じしないで話せる相手が、スヤリであった。

「スヤリ、毒魔将が来た。すぐ、もてなしを」
「え? --先触れもなしに? どうしたんだ」
「わからない」
 ヤヅカがわからないと言ったらわからないのだろう。
 スヤリはそれ以上は追求せず、悪奴弥守を振り返った。悪奴弥守は二人に向かって一つうなずいて、床几から身を起こした。

 スヤリは那唖挫をもてなす膳などを整えに走り、ヤヅカは、そのまま襖を挟んで隣の部屋に控えた。

 程なく、那唖挫は現れた。
 柳色の着物などを彼の性格らしく几帳面に着こなし、緑色の異質の髪の毛を後ろに流した色白の少年だ。歳は悪奴弥守より一つ下と言われているが、悪奴弥守の転生が四~五年早かったために、彼らとしてはそれぐらいの歳の開きがある感覚である。
 那唖挫は色々な面で悪奴弥守と対照的な存在であった。

 悪奴弥守のよく日焼けした健康的な小麦色の肌。
 那唖挫の白蛇を思わせる無毛の絖のような肌。

 強い意志を輝かせる濃い紺色の双眼。
 色素の薄い水色の三白眼。

 動きやすく短く刈った、日本人らしい黒髪。
 誰も持っていない緑色の長めの髪の毛。

 そのほかにも、闇神殿の仲間と一緒によく食べよく動きよく笑う悪奴弥守と、日の当たらぬ研究室に引きこもって動かない那唖挫は、一見まるで違うタイプであった。実際のところ、それで二人は最初の頃は意思の疎通に苦労をした。
 だが、今では、二人の間にはかけがえのない共通点がある。
 それは、”思い出”というものと、”仲間の絆”だ。それはどちらか片方だけの思い込みという事はなく。
 お互いに、秘密に思っている共通点もあった。
”俺の方があいつのことをわかっていて、想ってる”
 という想いだ。悪奴弥守は、那唖挫の事をそう感じていたし、那唖挫は悪奴弥守の事を自分ほどの理解者はいないと考えていた。螺呪羅よりも、自分の方が悪奴弥守にとって身近な存在だし、背中を預けて戦った回数だって多い。だから、自分こそが本当は悪奴弥守の背になる存在なのだ……というのが、那唖挫の本音であった。
 実際は、螺呪羅が、那唖挫を育てるために面倒見のいい悪奴弥守に任せている側面が大きいのだが、可愛い末っ子はそんなことには気づいていなかった。



 そんな螺呪羅に那唖挫が恩義を感じているかどうかというと、

「悪奴弥守! 螺呪羅の事を聞いたか!!」
 そんな怒鳴り声で始まった。

 悪奴弥守は、きょとんとして目を瞬いた。

 那唖挫が怒鳴る事が珍しいし、自分に向かって怒鳴るということは、ないわけではないのだが、開口一番、キレまくっているというのは珍しい。

「なんだ、お前」
 悪奴弥守は、床几の隣の座布団に座り直しながらそう聞いた。

「京に、螺呪羅の偽物が現れて、やりたい放題の無礼千万なのだ。お前もどこかで聞いただろうっ! 螺呪羅の、我ら魔将の偽物が現れたのだぞ!!」

 そこで悪奴弥守は合点がいった。どうやら、城で旗本が言っていた噂話を那唖挫もどこかで聞いたのだろう。そして、さすが那唖挫だ。噂話を聞いただけで、螺呪羅本人ではなく螺呪羅の偽物だと一発で分かったらしい。
 まあ--螺呪羅は勝絶で戦争中なんだから、当たり前だが。

「まあ、座れよ」
 立ったまま、畳を蹴飛ばしかねない勢いの那唖挫に、悪奴弥守はそう言った。

 那唖挫はスヤリが持ってきた座布団に座った。そして、どうしても我慢出来ないのか、薬籠から唐辛子か、何かそれそっくりの薬品を取り出してかみしめた。精神的に我慢出来ない何かがあるらしい。
 ちなみに那唖挫が超絶辛党で超偏食であるのに対して、悪奴弥守は平均的な甘党で人が食べられるものなら何でも元気によく食べる。

「スヤリ、饅頭を。甘くない奴」
「はいよ、長」

 途端に、唐辛子のためにというわけでもないのだろうが、那唖挫はむせた。辛党の人間が大概そうであるように、那唖挫は甘いものが嫌いなのだ。
「那唖挫、南蛮胡椒や変な薬ばっかりじゃ、体に悪いだろ。たまにはほうじ茶にまんじゅうでも……」
「貴様! 未だに俺の食事を指導しようというのか!」
「人が好きで食ってるもんに文句言うのはよくないが、その南蛮胡椒ってやつ、唇は腫れるし、舌は痛くなるし、本当に大丈夫なのかよ。それより、まんじゅうの方が甘いぞ」
「それはわかっているが、俺はまんじゅうを喰いに闇神殿まで来たのではないッ! 螺呪羅の話をしにきたんだ!!」

「あーまー……そりゃそうだろうけど……」

 悪奴弥守は結局ごまかされてしまった。

「お前は城下で偽物が何をしているのか知っているのか?」
 那唖挫が総毛立つような視線を斜めから送り、悪奴弥守は那唖挫の本気の怒りを知って、軽く笑った。悪奴弥守自身、機嫌が悪かったのは、螺呪羅の聞きたくない話を聞いたからだ。

「言わせるなよ」
「それなら俺が言ってやろう!」
 そして、那唖挫は、およそ人として信じがたいような螺呪羅とされる人間の振る舞いを列挙した。
 何しろ阿羅醐城の真ん中で金の問題を取り沙汰されるような状態である。金というものがどれだけ信用問題に関わるかということを考えれば、螺呪羅がどんな言われっぷりであるかは想像がつく。ついていたが--それにしても酷いものだった。
 悪奴弥守は途中で、本気で耳を塞ぎたくなったが耐えた。可愛い那唖挫が一心に話している事にそんな態度が取れる訳がない。

「そういう訳で、お前は知っていながらどうして平然としていられるんだ、悪奴弥守」

「そんなに、簡単に、人ってだませるものなのか? 螺呪羅のように歴戦の乱波だっていうんなら、変化も変身も思いのままだろうけど……俺は関係ないが」
「人の話を聞いていたのか」
 那唖挫は盛大な溜息をついた。
「花街での行状を話しただろう」
「ああ」
「懇ろにしていた花魁が見分けがつかなかったんだ。本当に本人だと思い込んで、保証したらしい」

「……懇意の玄人が、見分けつかなかった?」

「そういうことまで、我ら魔将の名前を勝手に使って、派手に暴れ回っているのだぞ!?」
 プライドの高い那唖挫はそのことを考えただけで腹の虫が逆流してきて口の中で暴れ回りそうであるらしい。実際、それで、怒り狂っているとしか思えない。

「ショバ荒らしとしても、こりゃすげえ……」
 悪奴弥守は、そう言ったきり、絶句した。

 那唖挫は散々、言うべき事は言うだけ言ったので、疲れ果ててしまい、悪奴弥守の方に向かい直った。
 そして、利口にも、スヤリがおいていった甘さ控えめのまんじゅうを一つ二つ、口の中に放り込み、適温のほうじ茶で流し込んで見せた。お茶の効果とは大したもので、それで那唖挫はだいぶ落ち着いた。

「俺はもうこれは、魔将のメンツをかけても叩き潰さなければならないゴミだと思うのだが、お前はどうなんだ、悪奴弥守。お前の考えを聞かせてみろ」

 悪奴弥守はしばらく黙っていた。何しろ彼は、最初から、何故そんなに大勢が、螺呪羅の事を勘違いするのかわからなかった。花魁まで、螺呪羅の事を間違えるなどということがあるのだろうか。それが信じられなくて、困惑していた。

「俺はこの件を、徹底的に捜査して、螺呪羅の偽物を探し出す。その上で、毒魔将を怒らせた事を思い知ってもらう--」

「大袈裟な言い方はやめろ、逆になめられるぞ」
 悪奴弥守は肩をすくめてそう言った。

「悪奴弥守、お前は螺呪羅の事が大嫌いだからそういうことを言うが、螺呪羅はお前の事を想ってだ--」
「言うな!」
 途端に悪奴弥守が声を張り上げたので、那唖挫は口をつぐんだ。
 この手の話に、悪奴弥守は本気で敏感だ。見れば、いつもは強気で元気な瞳に、何か悲劇的な色合いが浮かび、目尻が潤んでいるのがわかる。悪奴弥守の霊力暴走の気配を感じ、那唖挫は息を潜めた。

「偽物のことを捜査するのはいいと思う。やるなら手を抜くなよ」
 ところが悪奴弥守は、呼吸二つあとに、魔将としてあまりに当たり前の事を言った。

「そんなにみんな、偽物なんかとの区別がつかねえなんて不思議だが、どうしても収拾つかなくなったら、俺に言え。俺が偽物を一発ぶっ飛ばしてやる」
 闊達な笑顔でそう言う悪奴弥守。

 那唖挫はげっそりして溜息をついた。

「そうだな、悪奴弥守。お前だったら、そういうだろうな……」
 そうとしか言いようがない。
 捜査するのは言い出しっぺの那唖挫ということだ。
 どうしようもなくなったら、悪奴弥守がやる。

 適材適所で言うならば、巫女の霊感や、狩人や獣使いの卓抜したレーダー能力のある闇神殿が最初から出ればいいようなものだが……。
 何故に、医薬のプロフェッショナルが……やって出来ない事ではないが……。

 何故といったら、末っ子の那唖挫は、悪奴弥守が大好きな事と同じように、螺呪羅の事も大好きで、螺呪羅の事を侮辱されたり評判落とされたりするようなことは感情的に許せないのであった。
 医者や武将が感情論に走ったら最後なのだが、実際問題、将軍の顔や名前を勝手に使われて、黙っている将軍本人とその仲間なんて、あっていいわけないだろう……。



wavebox


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