桜花爛漫

 食事を終えた後、当麻はケータイを手に取って伸にメールをしてみた。
 折り返しに伸から電話がかかってきた。
 伸の話では、西鬼は元気で、今朝も普通に食事を摂ったようだった。だが、そのあと、相変わらず桜の盆栽から離れなくなったということだ。
「なんであんなに征士の盆栽から離れたがらないのか……僕も考える事があるんだけどね」
 伸はため息交じりにそう言った。
「わかった。これからそっちにいく。征士連れて」
 当麻はそう言って電話を切り、征士の方を見た。征士はというと、退魔師としての動きやすい和服に着替え、鎧の宝珠を携えて、完璧に仕事の空気に切り替えていた。

「行くか? 征士」
「ああ」
 --などと緊張を迸らせても、所詮、マンションの隣の部屋に行くだけである。



 五分とかからず、当麻と征士は、伸達の部屋の方に来ていた。
 伸も遼も朝は忙しい。
 伸は大きな出版社に勤務しているだけあって、八時半前に出社しなければならなかったし、遼もまた、九時半には古本屋についていなければならなかった。
 その猛烈に忙しい時間帯に、西鬼に顔を洗わせて、食べさせて、面倒を見ていた訳である。
 そこに、当麻と征士が、西鬼を迎えに来た。

「ありがとう当麻! こっちから西鬼を連れて行こうと思っていたんだけど、忙しくて」
 伸は、西鬼を伴って玄関に出てきながらそう言った。
 後ろには遼がいる。

「いや、これぐらい何でもない。それより伸、今度の夜の花見の事、どうする?」
「花見?」
「遼から聞いてるだろう。西鬼連れて、花見。西鬼もそろそろ元気になってきたし、桜大好きだし」

「ああ、そのことだね。だけど、今からじゃ夜桜の時間は混むから、御苑の予約取れないんじゃない?」
「そこなんだよな」
「平日午前の時間帯の方がすいてるんじゃないかな。僕、社に頼んで、午前中だけあけてもらってもいいよ」
「いいのかよ。おい」
「大丈夫なのか、伸」
 当麻と征士は驚いて伸の顔を見た。
 この二人は、会社勤めの経験が全くないため、逆に、サラリーマンが有休をもらうということの意味がわからないのである。

「有休を全然消費していないんで、かえって心配されているんだよ。いい機会だから、休んでみる」
「本当か? それじゃ……」
 当麻は、三日後の花見の予定を伸と遼に伝えた。
「うん、大丈夫だと思う。西鬼にとっても、いい刺激になると思うし」
 それで話は決まった。
「さあ、家に帰ろう。西鬼」
 征士がそう言って、西鬼の方に視線を合わせた。西鬼は大事に征士の桜の盆栽を胸に抱え込みながら、玄関に降りて、スリッパを履いた。角があるため外に出かけられない彼は、まだ、靴は買って貰っていなかった。



 西鬼が当麻と征士の家に戻ると、征士が、盆栽を受け取り、自分の部屋の元の位置に戻した。
 そうすると、西鬼は自動的にその征士についていき、盆栽のそばにぺたっと座り込んで、まだ蕾が膨らんでいるだけの桜を眺めている。

「……西鬼は、そうしていると心地よいのか?」
「うん。……元気が出てくる」
「元気」

 そんなことではないかと思っていた征士は、それ以上は突っ込まず、そっと自分の部屋を出て、リビングでくつろいでいる当麻のところへ行った。

「当麻、西鬼の事だが……」
「うん?」
「少し、塩を使ってみようかと思う」
「やるのか、退魔師の儀礼」
 当麻が鋭い視線を投げてよこしたので、征士は黙って頷いた。

「分かった。俺も行くよ。場所は、お前の部屋でいいんだな?」
「ああ、すぐすませようと思う」

 当麻と征士は連れ立って、西鬼のいる征士の部屋に戻った。
「当麻?」
 西鬼は、部屋に入ってきた当麻に対して顔を上げ、その後またぼんやりと桜の盆栽へと視線を移した。
「西鬼、ちょっとだけ俺たちとつきあってくれるか?」
「……うん」
 当麻が声をかけると、西鬼は素直に返事をする。最初は疲れているせいもあってか、ぶっきらぼうだったが、今はそんなに反応が悪くない。

「西鬼は自分の正体の事がよくわからないんだろう。今、俺たちが、協力してやるから、大人しくいい子にしててくれ」
「にしきの正体……?」
 すると西鬼はいくらか興味を持ったように、当麻の方に振り向いて身を乗り出してきた。
「西鬼は、何もしなくていい。ただ、これから、征士がやることに驚いたり、大声立てたり逃げたりしないでくれっていうこと。征士がお前に、悪いことしたりしないことは、分かっているだろう?」
「うん」
 そこは一緒に寝起きして信頼関係が出来ていたのか、西鬼は即答した。

「ありがたい。西鬼。……それなら、始めるぞ」
 元々征士の部屋である。
 征士は、当麻と西鬼が話しあっている間に、退魔師の基本的な儀礼の道具をそろえて、西鬼の前に向かっていた。

 清めの塩を入れた小さな壺を西鬼の前に置く。
 西鬼は怯える様子もなく、不思議そうに征士の方を見ている。
 さらに、征士は線香に火をともして、塩の壺の隣に置いた。
 かなりの略式ではあるが、手順に沿って浄めの結界を作っていく。その間、西鬼はぺったりと畳の上に座ったまま、征士の方に無邪気な視線を投げていた。

 征士は、塩と線香で超略式の浄めの結界を作ると、口の中で祝詞を唱え始めた。退魔師協会の間で伝えられている、かなり強力なものであり。魔を祓い、穢れを祓う清らかで強い祝詞を放ち、指先で九字の印を切った。

 反応は、なかった。
 西鬼は何にもしない顔で、ただぼんやりと征士の方を見ていた。
 怯えた様子さえもない。

「……はずれたか」
 征士は、言葉と裏腹に安心した様子であった。
「鬼じゃないっていうことか?」
 当麻も半ば予測していたらしく、それほど慌てはしなかった。
 征士の技術で、何の反応もないのなら、西鬼は鬼ではない。--広い意味で、妖邪でも妖魔でもないらしい。

 それなら、彼は何者なのだろう。
 そう思って、当麻と征士が顔を見合わせていると、西鬼がしきりに頭の角をなで始めた。

「どうした?」
 征士がすぐに西鬼のそばに寄っていって膝をつき、その自分によく似た顔をのぞき込んだ。

 西鬼は俯いて、両手で二本の自分の角をなでている。
「……痛い」
「痛い?」
「ここだけ、痛い。急に痛くなった。角と、頭が痛い」

「……」
 征士は険しい顔になった。角だけが、痛む。結界の中に入っている以上、もしも本当に鬼なのだったら、全身が焼けただれそうなほどの苦痛を感じるはずだった。もしくは、どうしても結界の中にはいられず、はねのけられるようにそこからどくはずだ。
 勿論、征士も、西鬼には情がある。もしも、彼が本当に鬼なのだったら、苦痛を味わわせるのは本当に一瞬だけにして、あとは悪さをしないように噛んで含め、異界にある鬼の里に帰してやるつもりだったのだ。

「なんで角だけ痛むのだ?」
 自分も知らない症例に戸惑う征士。
「珍しいのか?」
「体の一部だけ痛むという話は聞いた事がない……」
 困惑している征士に、当麻も首を傾げてしまう。

「もしも鬼なら、この退魔の結界の中にはいられないはずなのだ」
 征士はそう言い切った。それが、退魔師の間では完全に常識であるらしい。どういうことかはわからないが、西鬼が苦痛に顔を歪めて息まで切らし始めたので、征士は塩と線香を片付けた。
 西鬼はほっとしたように深呼吸をして、床の上にぱったりと伸びてしまった。

 征士は固く絞ったタオルを持ってきて、脂汗をかいている西鬼を介抱した。
 それを見て、当麻は不謹慎だが笑ってしまった。
「まるで、親子みたいだな。征士と西鬼」
「わ、私達が?」

 よく似ている金髪の美形の二人が、そうやってくっついていると、当麻の目にはそう見えるらしい。

「だけど、なんだろうな……征士の部屋というよりも、征士の盆栽に依存しているようだし、鬼じゃないけど結界の中だと角が痛む……?」
 当麻はしばらく考え込んで、こう言った。

「桜というよりも、桜の”気”か、その類いに反応しているのかもしれないな?」
「なんでそう思う?」
「桜の事、誉めないじゃないか。何の感想も言わない。だけど、そこにいると安心するとか、そういうことは言う。まあ、子どもだからな。自分でも分かってないのかもしれない」
 当麻はそう言って、自分も征士と西鬼の側にひざまずいた。
 西鬼はまだ苦しそうに、荒い息を繰り返していた。

「しばらくベッドで休ませよう。起きたら俺も聞きたい事がいくつかある」

 そういうわけで、西鬼は征士のベッドに寝かされ、そこで暫く休息を取ることになった。その間に、当麻と征士は、西鬼の正体と今後の事について、左見右見、様々な角度から話し合っていた。

 二時間ほど経った。
 珍しく、西鬼が、征士の部屋から出てきたので、征士達は軽く驚いた。
「西鬼、どうした?」
 西鬼は暗い表情だった。黙り込んで俯いたまま、征士の隣のソファに座り込んだ。

「まだ角が痛むのか?」
 ちょうど向かいに座っている当麻が、西鬼の顔をのぞき込んだ。

「角は平気。……雷が近い」
 西鬼が途切れ途切れに言ったので、征士はリビングの窓の外を振り返った。
 どんよりと濁った空が広がっている。
 確かに、一雨来そうだった。

「雷がどうかしたのか? 西鬼は雷が、恐いのか?」
 征士は再びそう尋ねた。
 西鬼は自分からは滅多に話そうとしない傾向にある。彼に口をきかせるためには、はっきりと具体的な質問を繰り返す事が大事だった。
 西鬼は首を左右に振って、珍しく桜から離れたソファで、征士の方を見上げた。

「……雷が嫌いか?」
「嫌いじゃない。雷は、恐いけど、好きだ」
 意外にはっきりと西鬼は自分の意志を見せた。
 雷光斬で戦う征士は、思わず微笑んだ。
 西鬼は本当に雷を怖がっているのか、ぶるりと身を震わせている。

「なんだ。寒いのか? 今日は暑いぐらいだけど」
 今度は当麻が西鬼にそう聞いて見た。
 西鬼は俯いて少しの間震えていたが、征士が背中を撫でてやると、落ち着いて、ゆっくりと話し出した。

「雷の夢を見た……から」
「雷の夢?」
 西鬼はそろえられた自分のつま先を見下ろしている。だが、当麻と征士が戸惑っている気配を感じたのか、また話し始めた。

「雷が落ちて、なんだか凄く、焼け焦げた匂いがした。焼けた匂いにびっくりしていたら、声がした。にしきを呼んでるようだった」

「西鬼を呼んでいる声?」
「うん。その人も凄く驚いて、呼んでいた。にしきのことを--ずっと呼んでいるようだった……」

 征士は固唾を飲んで西鬼を見守った。西鬼が、ふわふわとした口調で、”桜のたくさんあるところにいた”事を話した事は、2~3回ある。まるで桜の桃源郷のような美しい光景を見た事があるらしい。

「それはいつのことだから分かるか?」
 当麻が、真剣な面持ちで西鬼に尋ねた。西鬼は困ったように美しい眉を寄せた。

「……わからない。そのとき、にしきは……寝ていたと思うから」

「なるほど」
 当麻は自分の顎を撫でながら考え込んだ。考えるまでもない問題に思えたが、ほとんどは憶測で、実証がない。憶測で口に出して、征士や西鬼を驚かせたり悲しませたりするのは好ましくはなかった。

「西鬼、それなら、今度桜を見に行こう。花見」
 当麻は話題を切り替えた。
「はなみ?」
 西鬼はよくわかっていないような口調で繰り返した。
「そう。花見。桜の花のたくさんあるところで、西鬼の記憶を探そう」

「……うん」
 恐怖を感じて震えていた西鬼だったが、花見の話を聞いて元気が出てきたようだった。そのとき、雷が鳴った。程なく、激しい雨が降り始めた。西鬼は、また体を震わせて不安そうに窓の方を見た。征士が、西鬼の小さく細い背中をまた撫でていた。
 西鬼が、落ち着くまで。
 征士は、西鬼が角が痛くて苦しむきっかけを作った事を、後悔しているようだった。



 雷は夜半には鳴り止み、翌朝は相変わらずいい天気だった。
 当麻と征士は、昨日の夕方、雷雨で買い物に行きそびれたため、今朝も、コンビニに食料の買い出しに出ることにした。

 西鬼はまだ桜の足下で眠っている。昨日からやや調子が悪いため、何か彼が元気を出しそうなものも買ってやりたかった。
 そんな話をしながら、当麻と征士は連れ立って、笑いながら歩いていた。
 当麻は征士といる時はいつだって機嫌がいい。

「あ」
 マンションからコンビニに行く途中の、すぐの角だった。
 そこで、征士が、着物の老人を再び見かけた。薄花桜の長着に灰桜の羽織。この暑いのにしっかり着物を着込み、高そうな草履を履いて、舗道を行き交う人々の顔をしきりに見比べている。

「当麻、この間の老人だ」
「ん?」
「あのときは私の言葉を聞かれて、驚かせてしまった……気をつけなければ」
「ああ、あの朝のか。そうだな。老人を驚かせるのはよくないな」

 老人は手入れのされた長い白髪に皺の深い顔だった。だが、上品で優しそうな雰囲気がつきまとっている。そして、何やら困っている様子で、行き交う人々に何か質問したいのではないかと、当麻は見ていてすぐ気がついた。
 だが朝早くの都会人達は、とてもそんな余裕はないらしく、老人を無視してどんどん先に歩いて行く。

 実際、当麻と征士も忙しいと言えば忙しい。だが、二人は、老人の前を通る時、わざと歩調を緩めてあえて、声をかけやすいようにゆっくり歩いた。

「あ……」
 案の定、老人は、身ぎれいでゆったりとした様子の青年二人に声をかけてきた。
「桜を……知らんかね」
 かすれた声で聞き取りにくい。だが、征士の地獄耳はその声を拾った。

「桜?」
 当麻もその単語は聞き取れた。そのあとはなんと言っているのかよくわからなかった。
「桜がどうかしましたか?」
 丁寧な物腰で二人は老人を振り返り、手助けしようという意味の笑みを顔に浮かべた。

「はい。私の家にも桜の盆栽ならありますが」
 征士の方は、”桜を知らないか”という質問がちゃんと聞こえていたので、素直にそう答えた。何故、桜の話をしたいのだろうかと怪訝に思いながらも、彼らしく礼儀正しくはっきりした発音で言ったつもりだった。

「あ、……ぁ」
 しかし、老人は、不意に喉をおさえたかと思うと、その年齢とは思えない物凄い速さで、その場所から駆け去った。当麻も征士も止める暇もなかった。

「え? あれ?」
 老人が凄い勢いで走って行くので、当麻は止めようかと思ったが、それも相手のプライバシーや無礼に当たるかと思い、何も出来なかった。

 残された二人は顔を見合わせた。

 老人の名前……仮に"フクロウ”とする。
 フクロウは、何故フクロウと言うのかというと、福禄寿の精霊だからである。
 八重桜の福禄寿だ。
 人間の世界の降りる時、かりそめの人間の姿を取ったのだが、そのときに、人間達に何度か名を尋ねられた。
 だが、人と話した事のない、福禄寿は、ろくに口を動かす事も出来なかった。
 どうにかこうにか、「私は福禄寿です」と伝えたつもりなのだが、どうしても、相手にははっきりと聞き取れず、「フクロウ?」と聞こえてしまうらしい。

 それで、フクロウ、というのが自分の名前になってしまうのだろうかと、不安がっていた。
 たとえ、フクロウという名前でもいいが、自分は人間達に攻撃され、笑われていないだろうか、笑われてしまうかもしれないと、常に気になっていた。

 彼は理由があって、異界、それも桜の精霊だけがすまう桜の里から、人間界に移動してきていたが、同時に人間不信でもあった。前は人間を愛し、見守り、人の行く末に精霊の加護を与えていたのだが、今は到底そういう気にはなれない。
 すぐにでも、福禄寿の大木ごと、異界の桜の里にかえって、そこで仲間の桜たちとだけ優しく楽しく過ごしたかった。

 だが、そういうわけにもいかなかった。
 彼には探しているものがあった。
 桜。
 桜を探し出さなければ……。彼は、桜の里に帰る事さえできない。

 そういう理由で、フクロウ老人は征士の前から逃げ出して、それでも、やはり悔いが残って、辺りを見回しては桜の花を探していた。新宿にも桜はいくつも咲いていた。だが、それはフクロウ老人の探している花ではなかった。




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