西鬼は、その日の午後いっぱい、征士の部屋の盆栽の棚にもたれかかりながら、窓を開けてうつらうつらとひなたぼっこと昼寝を楽しんでいた。
(そんなに、私の盆栽が気に入ったのか……おかしな子だ)
征士は、まだ満開のままの旭山桜の花と、そのそばにある金髪の少年の顔を見守りながら、不思議に思った。
本当に、よく眠る子どもで、それなら布団に入って眠ればいいのに、いつも桜の盆栽のそばで寝こけている。
「体が痛まないか、西鬼」
征士はどうしても気になってそう聞いた。
春のうららかで眩しい光に包まれて、西鬼はうとうととまどろんでいたが、征士に肩を撫でられて、ぼんやりと目を見開いた。
薄紫色の瞳で、征士のラベンダー色の瞳を見上げる。
「征士……?」
奇妙な子どもだった。子どもといっても、やはり鬼の子なので、人間の常識は通用しないのだろう。
今のところ、西鬼は、当麻の事は当麻、征士の事は征士と呼ぶ。伸も遼も呼び捨てだ。敬語を使う様子もない。だが、不思議と、無礼と思わせる印象はなかった。
それこそ、浮世離れしている。
遼と当麻が、アニメの有名キャラのようだ、と言った角が、余計にそういうイメージを抱かせるのだろう。
「いつもそこでぐっすり眠っているが、体が痛くならないのか、西鬼は?」
「全然」
西鬼は桜の方に視線をうつしながらそう言った。
「そんなに桜が気に入ったのか、何か懐かしい事でもあるのか?」
「……ここが、一番」
西鬼は、それ以上言わなかった。桜を大切そうに見つめながら。
「一番?」
西鬼は無言で頷いた。
「何が一番なんだ?」
「一番いい場所。……一番、安心出来る」
「私の盆栽が?」
征士が尋ねると、西鬼はまた無言で頷いた。
嬉しい事は嬉しいのだが、流石に征士もそこまで鈍くはない。
記憶を失う前の西鬼は、桜とどんな関係があったのだろう。何か、大変な事故でもあったのではないか--? そんなふうに、危ぶんだ。
「ここが気持ちいいのなら、ゆっくりしていてもいいが……西鬼は、一日中、部屋の中にいても大丈夫なのか?」
「大丈夫……」
西鬼は不思議そうに征士を見上げた。
何を聞かれているのかわからない、という風情だった。
「……子どもは元気に、外で遊ぶものだろう? 他にも、悪戯をしたり考えたり、何か欲しいものがあって、頑張ったりするではないか」
西鬼は西鬼なりに考えたようだった。
「外で遊んだり、欲しがったり、した方がいいのか?」
「……無理にそうしろというのではない。西鬼が、遠慮しているのではないか?」
征士は、西鬼が鬼の子だからといって、差別するつもりはない。だが、いくらかは対応に困った。
西鬼にして見れば、知らない大人ばかりの家で、記憶もなくて、頼りなくて、征士の部屋に引きこもるしかないと思って、じっとしているのではないかと思ったのだ。
西鬼はどうやら、その征士の配慮を感じ取ったようだった。
しばらく黙っていたが、不意に言った。
「餅。--が食べて見たい」
「餅?」
征士は角を隠して外で元気に遊んだりしたいだろう、と思っていたが。そこで安定の食欲が来た。明らかに西鬼の方が、自分が我が儘を言わないと征士が困ると思っているようだった。
「餅か、分かった」
征士は西鬼の金色の頭を軽く撫でてそう答えた。角が掌に軽く刺さった。
「ただいま~」
書店で買い込んだ本を両手に抱え、当麻が帰ってきた。
その途端、何とも言えず香ばしい醤油の焼ける匂いが彼の鼻を刺激した。
「なんだ?」
当麻がキッチンに続くリビングに行くと、そこでは征士がエプロンをつけて、懸命な顔で、焼いた餅を西鬼に食わせていた。
西鬼は相変わらず旺盛な食欲で、征士がホットプレートで焼いた餅を片っ端から口に突っ込んでいく。
「うまいか?」
と、征士がきくと、西鬼は口をリスのように膨らませながら大きく頷いた。
「征士、どうしたんだ、一体」
「どうしたと言われても……正月の餅が余っていたので、西鬼に食べさせているのだ」
「あ、ああ。正月の餅、大袋しか売ってなかったから、確かに余っていたけど。……? いきなり、餅?」
「きなこもあんこも、買いすぎていたから、ちょうどいい。西鬼は餅が好きらしい」
そう聞いて、当麻は口いっぱいに餅を頬張っている西鬼の顔を見た。
西鬼は相変わらず無表情に近く、笑う事も大人を怖がって泣く事もなかったが、明らかに頬の血色はよく、元気になってきていることがよくわかった。
ぐったりしていた子どもが顔色もよくなって、旺盛に好物をかっこんでいるのを見ると、当麻もなんだか嬉しくなる。だが、同時に対抗意識がわいてきた。
「俺の分はあるか?」
「ああ、勿論。当麻は、餅も甘い方がいいのか?」
そんなことを言って、征士は手際よく、きなこをまぶした餅を当麻の前に置いた。
「いただきまーすっ」
一時間以上、徒歩で歩いてきた当麻は、ちょうどいい具合に腹が減っていた。
自分も西鬼に負けずに餅をがっつくように食べ始める。
「当麻。焦って餅を食うと、喉に詰まらせるぞ。ほら」
征士が、熱い緑茶を入れた湯飲みを当麻の前に置いた。
「ありがとう、征士。だけど、餅を食べきりたいんだろ?」
「……まあ、これ以上とっておくとカビさせてしまいそうだからな。食べ物を無駄にするのはよくない」
「そうだよなあ」
などと、当麻は満面の笑み。
「西鬼、お前……俺の胃袋に勝てると思うか?」
突然、当麻はそんなことを言い出した。悪い笑みを浮かべながら、流し目で西鬼を見る。
西鬼は不意に食べるのを中断し、じっと当麻の方を見返した。
「西鬼。お前がどれだけ食いしん坊だろうと所詮は子ども--この甘くて美味しい征士の餅は、みんな俺のものだっ」
「!」
西鬼は明らかに、当麻の勢いから何かを感じ取った。
「と、当麻。お前、一体……」
征士が咄嗟に、当麻の悪巧みを止めようと、間に入ろうとしたが、間に合わなかった。
当麻は、大人げなく、西鬼と餅の大食い勝負を挑み、どこまでも大人げなく張りあう戦いをおっぱじめたのだった。
小一時間後--。
「当麻、……」
征士は呆れてそれ以上の声が出ない。
征士もいくらかの餅は食ったものの、彼は常識の範囲内で礼儀正しく食っただけ。
ちなみに、正月の餅は、大袋で自分たちでも買うのだが、羽柴と伊達の双方の実家から、毎年送ってくる伝統の餅もあり、それは毎年、春以降までかけて食べていた。何故、大袋を自分たちで購入してしまうのかというと、何となくとしか言いようがない。
ここ2~3年の餅も、当然あった。その、伝統的に残りがちな正月の餅数年分、当麻と西鬼は小一時間でほぼ食らい尽くした。
2~3個の大きな餅のきれを残したのは、当麻だった。愕然とした表情の征士が、そんなに餅を食っていなかった事への配慮である。
「きゅう……」
そんな音を口から出して、西鬼は倒れている。文字通り、床に倒れている。お腹ぽっこりさせながら。
当麻の方はまだまだ余裕の笑みで、立ち上がってダブルピースをしている。
「ま! 西鬼が俺に勝とうなんて10年早いってことだ!!」
「きゅう……」
そんなふうに勝ち誇られても、普通の鬼っ子の西鬼にはどうすることも出来ない。
「当麻」
大人が何をやっているんだというような様子で征士が窘める。
「だって……」
すると当麻は、子どものようにすねた表情を見せた。頬がかすかに赤い。
「お前があんまり、優しい顔で、西鬼に餅を焼いているからさ。俺も、餅を焼いたんだよ」
こういうことを言う時の当麻は、征士からみると、呆れてしまうのだが、それでもやっぱり、可愛いし、胸がときめいてしまうのは致し方ない事であった。
「……やれやれ」
征士はその場で、残った餅の一つを、ホットプレートでこんがり焼いた。それから、砂糖醤油をつけて甘くして、当麻の口元に運んでいった。
そういうことは元からたまにあったので、当麻は餅をなにげなく食べた。
「?」
その上で、不思議そうに首を傾げる。
「私の焼いた餅はおいしいか?」
征士は素直な気持ちでそう言った。
「当麻が西鬼とばかり遊んでいたら、私だって辛いぞ」
「…………!!!!」
そういうわけであった。
当麻は恐ろしい勢いで砂糖醤油の餅を食い切った。そして、菩薩のように優しい笑顔で当麻を見ている征士の腕を掴んだ。
何がなんだか分からないうちに、征士は、キッチンから当麻の部屋に続く廊下の暗がりに連れ込まれた。
そして、非常に甘ったるくて甘ったるくて、別の意味でも甘いキスを味わった。
砂糖醤油味のキスは熱い餅のようにねっとりと濃厚であった。
「と、当麻っ、……んっ……待てっ……」
「待てない。征士。もう大好き!!」
そんなことを言って、二度目のキス。
がっつくような、それでいて優しいキスに、征士は脳まで痺れて動けなくなる。
「……」
しばらくの間、当麻と征士は、二人の世界にどっぷり浸って、その視線に気がつかなかった。
数分後、ふと気がつくと、当麻と征士のすぐ隣に、西鬼が立っていた。じっと、子どもの目で、子どもの表情で、当麻と征士の抱擁を見ている。
「…………西鬼っ!」
征士は思わず悲鳴のように叫んだ。
一方、当麻は、ヤベエという感情を顔に出しただけで何も言わない。
「こ、子どもが見るものではないっ、部屋に帰りなさいっ」
「え、なんで?」
西鬼は珍しく、口答えをした。
「なんで、見てはだめなんだ?」
「こういうのは秘め事といって、子どもが見るものではないし、大人同士でも見せ合うものではないんだ!」
征士はきっぱりとそう言って、まだ何か尋ねたそうな西鬼の手を握り、手を引いて、自分の部屋の方に連れて行った。
そこから先は、一問一答。
12歳ぐらいの子どものそういう質問に、長々と付き合わされた征士だった。
だが、征士も負けてはいなかった。
「子どもが見てはだめなもの」
について、彼の倫理観に従って、みっちり教え込んだのだった。
そのはずだった。
そのはずだったのだ。
考えても見よう。育ち盛りの12歳が、間近でじっくりとっくり、当麻と征士の濃密キスを見た後に、数時間一問一答と説教を受けたぐらいで、めげるだろうか?
そんなわけがない。
あるわきゃなかったのだ。