桜花爛漫

 そこはまるで桜の森だった。
 頭上にどこまでも続く花の雲、花の波。午後の緩やかな煌めく光の中、しどけなく降り、舞い散る桜の花。

「凄い人だな。西鬼、大丈夫か? はぐれるのではないぞ」
 征士が西鬼の手を握ろうとしたが、西鬼は恥ずかしがって手を袖の中に隠してしまった。暑い日だったのだが、夏物の薄手のカーディガンを着せいていたのだ。
「迷子になるなよ。しっかし、凄い人……」
 そこで当麻は口ずさんだ。
「花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがにはありける」
「西行桜か」
 征士は頷き、こう続けた。
「埋もれ木の人知れぬ身と沈めども、だな」
 本当に、人混みの中に埋もれてしまったように思えたからだ。当麻が何か返そうとした時、西鬼が呟いた。

「心の花は残りけるぞや……」
「え?」
 当麻はびっくりした。その当麻のびっくりした様子に、西鬼はびっくりしたようだった。
「西鬼、その歌、知ってるのか?」
「……うん。知ってる」
 当麻は更に突っ込もうかと思ったが、西鬼が不意に視線をそらして黙り込んでしまったので、声をかけるタイミングを失った。
 そのあと、当麻と征士は、西行桜以外の能の話をしながら歩き始めた。西鬼は反応しなかった。分かっている様子も分かってない様子も見せなかった。

 最初、人混みを意識し、多すぎる人の気配に胸を悪くしていた西鬼だったが、桜の下をずっと歩いているうちに、人を意識しなくなった。
 花に酔っているようだった。

 西鬼だけではなく、当麻も、征士も、森のように広がる花の雲と、雲から降り落ちる桜花の雨、それに見入ってしまい、いつの間にか言葉をかわすこともなく、ただ、桜の花の下を歩き続けた。

「花の……」
 不意に、西鬼が呟いた。
「ん?」
 征士が西鬼の方を見た。小さな西鬼のために、自然と下を向く。
「花の匂いがする……」

 そのとき、西鬼が何を桜の匂いと思ったのかはわからない。突然、当麻と征士を振り切って、桜の森の中を走り出した。

「西鬼!?」
 ずっと寝たきりで、食べてばかりいただけなのに、西鬼は恐ろしく敏捷だった。そこらの子ども達と遜色のない、もしかしたら何倍も早い動きで、突風のように走って行く。
「西鬼! どうしたんだ!」
「待て、西鬼!」
 すかさず当麻と征士も追いかけた。

(……お父さん!)
 西鬼は、父の気配、自分の現し身の気配を確実に感じていた。
(……お父さん! どこにいるの!)
 新宿御苑。
 桜の森の奥の奥。見せられる桜の花、その限界のぎりぎりまで。
 あと一歩でも奥に踏み込めないところまで。
 そこまで、西鬼は来てしまった。

 花が降っていた。
 はらはらとしどけなく、花は降り続けていた。
 風に舞い、たゆたい、散る翳りを見せつけつつも、花は艶やかに絢爛に咲き誇り続けていた。

 桜の森の突き当たり、八重桜が数本立っている。華やかな白い雪洞のような花の群れ。枝がしなるほどに咲き乱れる桜花。
 西鬼は息を切らしながら突き当たりに立ち尽くし、その八重桜--福禄寿に向かった。

「お父さん、そこにいるの?」

 そのとき、西鬼はその樹齢100年はあろうかという、桜の大木の太い枝が、切断されていることに気がついた。
 桜のごついほどに太々とした枝の先が、ない。

 途端に、西鬼は角に激痛が走り、悲鳴を上げて頭を押さえ、その場にしゃがみこんだ。
 とても立っていられなかった。
 痛い。--痛い。切なくて涙がこみ上がってくるほど、痛い。

「西鬼、どうした!」
 駆けつけてきた当麻と、征士が、西鬼の両側に膝を突き、彼を介抱しようとした。西鬼が泣いているからだ。

「大丈夫か!」
「痛い……」
 そう言って、西鬼は呻いた。

「お父さん、どうして……? にしきを怒っているの?」

 そのとき、花が舞った。風が吹き、地面に舞い落ちた花びらが、風の小さな竜巻に乗って再び舞い上がる。
 桜吹雪--花の乱舞。
 夢のように美しい光景の中、白い光の影が揺らめいた。

 まるで亡霊のような花の光。だが、見るモノが見れば、それは--精霊だと分かるだろう。
 実際に、征士はそう悟った。

 妖魔ではない。人に害をなさず、逆に、力や加護を与える精霊だ。自然の霊気が時を経て、凝り固まり、半ば実体をなした存在だ。

「あなたは……?」
 征士は、はっきりしない人影に向かって声をかけた。当麻の方は鎧の宝珠を取り出し、いつでも武装出来るように身構えている。征士や西鬼に攻撃をされたら、即座に反撃するつもりだ。

”何故……”
 それは、人の声ではなかった。
 心に直接語りかけられる声、即ちテレパシーであった。

 そのテレパシーを聞いたのは、西鬼だけではなく、その左右にいた当麻と征士も同じだった。

”何故、人の姿をしている……何故……?”

 非常に悲しげに揺れる繊細な感情を、当麻は感じ取った。西鬼は泣いていた。征士は泣いている西鬼を慰めようと、また抱き寄せている。
「どうしたのだ、西鬼。何故、泣く」
「痛い……恐い……」
 苦痛を訴えるだけではなく、西鬼は怖がっているようだった。

「花の精霊よ。何故、子どもを怯えさせる。この子が角があるからか? この子は妖魔や鬼の類いではない、花の精霊よ、あなたの聖なる結界を穢すような存在ではない! この子を、傷つけるのはやめてくれ!」
 たまらず、征士はそう叫んでいた。
「花の精霊? そうなの?」
 退魔師ではない当麻は、そのことには気づいていなかった。
 ただ、征士と西鬼を守ろうとしただけだ。

「そうだ。新宿御苑で人々を見守っているうちに、人を守り、力を与えるようになった聖なる存在だ。滅多に人前に姿を現す事はないが、現した時は相手に幸せの加護を与えると言われている。花の精霊は皆優しく繊細だが、霊力は極めて強いのだ」
「俺たちに悪い事は何もしないんだな。それじゃ、西鬼は……?」

 花吹雪が舞い踊る。風が音を立てて通り過ぎていく。

 テレパシーなのに、花吹雪の合間に見える光の翳りは、すすり泣いている事を感じさせた。花の精霊は、とてつもない悲しみに打ちひしがれているようだった。

「どうしたのです!」
 相手を精霊と思い、征士は敬語を使い始めた。自分が礼儀に則って、正しさを示せば、花の精霊も落ち着いてくれるのかと思ったのだ。

”確かに私は……100年を越える時を……この花の園で、人々を見守ってきた……最初は訳がわからなかった……何故、私が花を咲かせると大勢の人が来て……大騒ぎをして暴れるのだろうと……だから私は、人々の顔をよく見てみた……話を聞いてみた……動けない私と違って、人々はよく動き、笑って、怒って、泣いて、笑った……私の知らない話をたくさんしてくれた……私はいつのまにか……人々が大好きになっていた……そして、人々も……私を好いてくれていると……”
 またすすり泣くような気配。

”それなのに……人々は……殺した”
「殺した?」
 征士は驚いて、さえぎるようにその単語を繰り返した。
「おいおい、いくらなんでも物騒だな……」
 当麻は、思わず鎧の宝珠を強く握りしめた。場合によっては、やはり、武装のターンかも知れない。

”殺した……壊した……粉々に……私の……大事な、大事な……”

 桜の精霊は、すすり泣きながら、悲しみを強く訴える。流石に精霊だけあって、強い怨念は感じられなかったが、悲嘆にくれた姿は、本当に辛そうだった。まだ癒えていない傷口を感じさせた。

「お父さん……?」
 そのとき、痛む角を抱えて、西鬼は顔を上げ、桜の精霊の方をしっかりと見つめた。
 そして、痛みをこらえながらも声を張り上げた。

「当麻も征士も、悪い事は何もしていない。人の大事なものを壊したり、殺したりするような人じゃないです!」
”西鬼……!”
「人間の中には確かに悪いやつもいる、だけど、当麻も征士も、その仲間の人達も、人の大切な宝を壊して暴れたりしない、人間が全員そういう無礼で非道なやつなわけないんです!」

 西鬼と花の精霊は奥深い所で繋がっているようだ。征士はそう感じ取った。
 花の精霊は父親……そういうことかと、征士は半ば理解した。
 西鬼がはっきりお父さんと言い、本人がそれを否定していないのだから、本当に、西鬼は桜の精霊の子どもなのだろう。それなのに、どうして角が生えているのかは、父親がいっている、宝物が壊された、大事な仲間が殺された、という話と密接に絡まっているのだと思われる。
 西鬼は、……そうは見えなかったが……桜の精霊が、悲しみの余り、当麻と征士に狂った判断をするということを感じ取り、鋭く言い返したのであるらしい。

「お父さん、にしきは……」
 沈黙している桜の精霊に対して、西鬼は更に何か言いつのろうとした。

 そのとき、その聖なる結界全体がたたき壊されそうな勢いで、風が鳴った。
 突風というよりも、竜巻だった。
 竜巻が地面の花弁を、花枝の花弁を、巻き上げて舞い踊らせる。余りに勢いの強い風に、当麻でさえが息を詰まらせる。

”帰るがいい……ここにお前の居場所はない……”
 強い恨みを感じさせるテレパシーだった。

”帰るがいい……自分の安らぎの場所へ……私の魂の安らぎは……最早、ないのだから……”

 ぐるぐると桜が乱舞する。花吹雪というよりも、花の竜巻。それに囲まれて、意識を失ったのは、全員だった。

 気がつくと、当麻達は、追いかけてきた伸と遼に助けられていた。いつまでたっても、帰ってこないので、探しに来たと言われた。
 全員、花のじゅうたんの上に突っ伏して、気持ちよく寝こけていたらしい……。



 花見を終えて、家に帰ると、トルーパー達は全員で、今日の出来事を話し合った。
 いずれ、新宿御苑での花見は、予約していた時間いっぱいを使い切ってしまったのだから仕方がない。
 泣いて疲れ切ってしまった西鬼を布団の中に入れてやり、枕元に桜の盆栽を置いて、征士は当麻、伸、遼に自分の意見を述べる事にした。

「皆、気づいていると思うが……新宿御苑の福禄寿は、桜の枝を大きく切断したあとがあった。あれが、手がかりであると思う」
「なるほど」
 遼が相づちを打つ。
「俺もテレビで見たが、新宿御苑の桜に落雷が落ちて、枝が真っ二つになったっていうニュースがあったな。それじゃないか?」
「……だろうね」
 伸も当麻に相づちを打った。

「福禄寿は、枝を植え付ける事で増やす。栽培の方法が、種や苗を使うんじゃなくて、元の桜の枝を地面に埋めて育てていくんだ。そう考えると、枝が雷で真っ二つになったのは、子どもが生まれたのと同じような事になるんじゃないか……と俺は思うんだが。そうだとすると、西鬼が桜の精霊の子どもであるのは辻褄が合う。だが、訳がわからんのが、その精霊の子が、なんですっぽんぽんで、征士の部屋に現れて、角を生やして飯食って寝てるのかということなんだよ」
 当麻の言い方に、遼は思わず噴き出した。
 征士も口元に笑みを含んでいる。

「お前ら、笑い事だと思ってるのかよ」
「そうだよ、遼。西鬼にしてみればとんだ災難があった可能性があるんだし、今でも角が痛かったり悲しい思いをしたりしているんだ。それに、ずっと、ここに置いておく訳にもいかないんだし、お父さんがいるのなら、そこに帰してあげないと」
 伸もやや怒ったような口調で遼を叱った。

「俺は、西鬼が悲しい思いをするのは嫌だけど、……別に、西鬼が俺たちのところにいてもいいと思ってる。勿論、西鬼次第だけどな。今なら四人で生活していく上で、子ども一人ぐらい養えるだろう」
 遼はそんなことを言い出した。
「養う事は出来るよ。それは楽しいだろうね。嫌みじゃなくって、そう思う。子どもがいる生活は、いいよ。だけど--戸籍はどうするの? 人間の世間で暮らしていく上で」
「こ、戸籍?」
「それに、西鬼は見た目は就学年齢なんだよ。いつまでも、男四人の同性愛世帯に、学校に行ってない、綺麗な可愛い子供がいるのを見たら、世間がどういう想像をするか分かってるのかい? 今だって、結構スレスレなんだよ」

「そう。伸が言うこと、俺も考えていた……同性愛に対する偏見はこの十年で随分なくなったけど、それは俺たちが大人だからだ。子どもが入ってくると、また世間は言いたい事が違ってくるだろう」
「当麻」
「征士、わかってるって。俺だって、西鬼が嫌いな訳じゃない。ただ、そういう世間の目にさらされたら、西鬼だって可哀相だろ。子どもが可哀相な想いをして暮らすのは俺だって嫌なんだよ」
「……」
 それについては征士も同意だったので、そこは押し黙ってしまった。

「まあそういうわけでだ。……なんで、桜の精霊が、征士の盆栽にくっついてるんだろうな。そりゃ旭山桜は征士が本気で育てている可愛い盆栽だけどな」
「枝はどこにいったのだ?」
 当麻の言葉に、征士が質問した。
「枝?」
 遼が尋ねる。
「……雷に真っ二つにされた枝だ。それはどこに運ばれて……どんな想いをしているのだ?」
 征士が遼に話しかけた。
「ま、そうだろうな。誰だって気づくか」
 当麻は、肩をすくめた。そして、ケータイを操作し、インターネットで新宿区のゴミ処理場を探し出した。思ったよりも、自分たちの家の近所だった。
 そのケータイの画面を周りに見せる。

「言いたくないが、こういうことだ。恐らく、御苑の係員達が、植え付けをするんじゃなく、粉砕したんだろう。桜の枝を」
「……!」
 他の三人は息をのんだ。
「だがそのとき、桜の精霊は既に二分割して、親子関係のようになっていたんだと思う。生まれたばかりの子どもの精霊は、訳がわからない、苦痛と恐怖に襲われて、記憶もおかしくなってしまった。そのまま、命からがら、新宿を、本体の桜を失ったままで移動して、鎧戦士である征士の桜の盆栽に気がついた。本能的に、征士の純粋で綺麗な”気”に癒されたんだろう。しかも盆栽とは言え桜。桜の盆栽にとりつくことで、実体化する事に成功した。もとは精霊で霊力の塊だけど、征士の”気”をたっぷりすうことで、人間の体を持ってしまったんだと思う」
「それじゃ、西鬼は……」
 伸でさえが、呆気に取られて、かすれた声を立てている。
「……精霊。そうとしか言えない。人間の本体は、本来持っていない。持ちたくても、征士の気を食うために盆栽にとりついているか、大量の飯を食うかが必要なんだと思う。しょっちゅうエネルギー切れで寝ているのも、それが理由だ」

「西鬼が征士にやたらに似ているのは、そういうことだったのか……」
 遼が妙に感心したような声で言ったが、そもそも、当麻の話に衝撃を受けているので、それ以上言葉は続かなかった。

「角が生えたのは、もしかしたら……父親の精霊の悲しみのせい?」
「そうだろうな……生まれたての自分の子どもが……どんな目にあったか。さっきの様子だと、桜としての根っこは同じだから、意識や感覚が共通している可能性が高い。自分の体の一部を、機械で粉々に粉砕されて、目の前で子どもを取り上げられて殺されかけた……ぐらいの衝撃があったはずだ。そりゃ、いくら慈愛に満ちた花の精でも、限度があるだろう。悲しみで角ぐらい生やすよ、親子共々」
 当麻はそこまで言って、冷めたコーヒーを一口飲み、喉を潤した。

「じゃあ、なんで西鬼を拒むの?」
 伸が当麻にそう聞いた。
「会いたくてたまらないはずじゃないか。せっかくの自分の子どもなんだから」
 遼もそう言った。二人とも、お父さんにやっと会えたはずの西鬼が、何故、泣くはめになったのか分からないし、とても残念だったのだ。

「そこは俺も、よくわからんが、人間が嫌いになったんだろうな。父親の桜は。それなのに、西鬼は俺たちの味方して、父親に意見するような事を言っていた。それで、子どもにも裏切られたような気持ちになって、傷ついているのかもしれない……。まあ、西鬼もだけど、父親の桜にとっても、踏んだり蹴ったりの話だろう。元は、花見の時期に大暴れする人間達にびっくりしていたのに、そのうち人間好きになって、人間に加護を与える精霊だったのになあ」
 やれやれ、と当麻はつけくわえた。

「なんで、せっかくの福禄寿の枝を、粉砕しようなんて考えたんだよ!」
 遼が激しい憤りを見せている。
「俺に怒られたって困る。俺が御苑の係員だったわけじゃないんだから。だけど、御苑側には御苑側の、大人の都合があったんだと思うぞ」

 そう言われると、伸も遼も弱い。社会に出て働いて、既に三十代半ばだ。世の中決してきれい事だけではないし、大人の事情や大人の都合で、様々なイベントをくぐり抜けてきた。自分たちが常に清廉潔白で、人に優しいだけだったとは言いがたかった。

「大人の事情があったんだろうとは推察出来るが、……。それは、桜の精霊には通用しないだろう」
 そこで、征士が重々しい声で言った。
「何故なら、桜の精霊は、人間ではないからだ。人間の社会が理解出来ない。つまり、大人の事情ですみませんでしたと言っても、相手にはちんぷんかんぷんだ。むしろ怒りや悲しみを誘う可能性がある。さて、どうするか……」
「……そりゃ、人間社会になじんでいるとは言いがたいもんな……花見の時期に、場所取りして大暴れする人間の愚痴や噂話聞いたからって……社会を知ってるということにはならんよな……」
 征士のツッコミを聞いて、当麻は盛大なため息をついたのだった。

「どうすれば、西鬼と俺たちにとって、一番いい話にまとまるか……?」

「そこだよね」
 既に西鬼に情が移っているのは伸も同じだった。当麻が飲み終わってしまったマグカップにまたコーヒーを入れてやりながら、伸もまた考え込む顔になった。

 

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