森の区の路地裏は、天の塔のまわりとはまるで違う匂いがした。
湿った土と、木の皮。獣脂と香辛料。
そして――時おり混ざる、何かが床に叩きつけられるような、鈍い音。
(ここだな)
シャナンディ・S・リシャールは、案内役のタルタル書記官の後ろ姿を目で追いながら、耳を澄ました。
「ほら、聞こえるのだ? ドカドカいう音。あれが【ゾルドフ道場】なのだ」
路地の突き当たり。
木で組まれた簡素な建物の入口に、拳の絵と共通語で「ゾルドフ・モンク道場」と書かれた看板がぶら下がっていた。
軒先には、干した道着と汗拭き布。
入口には靴を並べる棚と、泥落とし用の布切れ。
「ここから先は、靴を脱ぐのだ」
タルタルが当然のように言う。
「……道場の床を、汚したくないからか」
「そうなのだ。弟子たちも、最初に教わるのは挨拶と足拭きなのだ」
シャナは短く頷き、ロングブーツの留め具を外した。
サンドリアの貴族として育った彼にとって、見知らぬ家屋で靴を脱ぐ習慣は珍しいが、理屈として理解できないほどではない。
裸足で一歩踏み入れると、木の床のひんやりとした感触と、汗とスープと酒の混じった匂いが一度に押し寄せてきた。
「みゃッ、も一発ニャッ!」
「前に出すぎ。もう半歩引きなさいってば!」
道場の中央では、ミスラが二人、向かい合っていた。
一人は、茶色の髪を高い位置で束ねた、あどけない顔立ちの少女。
手足はよく日に焼け、しなやかで、無駄な肉がない。
喉元で、小さな青い石のネックレスが、跳ねるたびにきらきらと揺れていた。
もう一人は、それより少し年上に見えるミスラ。
冷静な目つきでミットを構え、少女の突きを受け止め、時おり足元を蹴ってバランスを崩そうとする。
「ワン、ツー、ロー! からの――ぐっ……!」
少女の足が滑り、ほとんど床と鼻がキスしそうになったところで、ミットのミスラが襟首を掴んで引き上げた。
「だから言ったでしょ。前に出るときは、足元も見なさいって」
「ツィムのミットが後ろに下がるからニャ! あたしの拳を避けるなニャ!」
「当てられるもんなら、当ててごらんなさいよ!」
軽口と同時に、ふたたび拳と足が交差する。
コン、コツ、と床板を叩く足音。
ワンツーからローキックへと繋ぐ動きは、ぎこちないが決して素人ではなかった。
(あれが――)
シャナは自然と、喉元の青い石のほうに視線を引き寄せられていた。
光の加減か、汗の粒か。
それとも、そこに宿る魔力か。
癒しの宝石に特徴的な、柔らかい気配が、ほんのかすかに周囲の空気を揺らしているような気がした。
(母のネックレスと、同じではない。だが、似た匂いだ)
そんな彼の観察を遮るように、背後から野太い声が飛んできた。
「おう? 珍しい影が差し込んだと思ったら、エルヴァーンじゃねぇか」
振り向くと、鍋を片手で提げたガルカが、奥の部屋からずいと現れた。
胸板は分厚く、腕は丸太のよう。白髪を前から後ろに流し、目の周りからこめかみまで黒い隈取りをしている。
そしてその黒に縁取りされた両目でしっかりと、鍋の湯気越しにこちらを冷静に測っている。
「ゾルドフ殿なのだ」
タルタルが素早く頭を下げた。
「サンドリアからの使節、シャナンディ・S・リシャール殿をお連れしたのだ」
「ああ?」
ガルカ――ゾルドフは、鍋をその場に置き、シャナの頭のてっぺんからつま先までをひととおり眺めた。
「赤いの着たひょろ長いエルヴァーン。ふむ。確かに“サンドリアの使い”って面してやがる」
「……言い方というものがあるだろう」
シャナは眉をひそめたが、声は静かだった。
「サンドリア王国、リシャール子爵家次男、シャナンディ・S・リシャールだ。好きに縮めて呼べばいい」
「じゃあシャナだな」
ゾルドフはあっさり言い切ると、道場の中央に視線を戻した。
「おい、フィグ、ツィム。客だ。床ばっか舐めてないで、挨拶しろ」
「舐めてないニャ!」
「私は違います! 今床にキスしそうになってたのはフィグです!」
軽口を叩き合いながら、二人のミスラがこちらへ歩いてくる。
汗のにおいが、木の匂いと混ざって鼻をくすぐった。
焦げ茶色の髪に琥珀色の瞳のミスラ、彼女の胸元の青い石のネックレスが、近くで見れば見事な双子石であることが、はっきりとわかる。
「森の区育ちのミスラ、フィグ・ラーヴニャ!」
茶色の髪の少女――先ほど滑りかけていたほうが、胸を張った。
シャナの目には、殆ど黒に見える茶の髪に、角度によっては金色にも見える琥珀色の瞳をした、若いミスラがいた。拳法装束に身を包んでいても、しなやかでしっかりした筋肉を持っている事は分かる。ひっきりなしに髪と同色の尻尾を振りながら、フィグはシャナに犬歯を見せて笑っていた。
思ったよりも背は低く、体は小さかったがその分機敏に動けそうだった。
「拳でよろしくニャ! あ、赤いのニャ~! 本物のサンドリアの赤魔ニャ!」
「にゃ~にゃ~うるさいわねー!」
隣のミスラ――ツィムが、フィグの額を小突く。
フィグの目には、エルヴァーンとしては中肉中背だが、ミスラからは随分背の高い男がいたことだろう。オレンジ色の髪の毛をフェザーヘアにして、ワーロックアーマーを着た、青い瞳の青年。子爵家らしい威厳が出ていればいいと思った。
「最初の一言が『赤いのニャ』ってどうなのよ。相手は使節よ?」
ツィムが突っ込むと、フィグは口答えをする。
「だって赤いニャ。帽子でかいニャ。羽根ついてるニャ。オズトロヤのヤグよりでかいニャ」
「ヤ、ヤグってあんた……」
ツィムが盛大なため息をつきながらも、こちらに向き直る。
「あたしはツィム。ここの道場の弟子で、真面目で優秀な方でございます」
拳法着姿ながらも優雅な貴婦人のように一礼をしてみせるツィム。
「真面目じゃないほう担当が、フィグってこと?」
シャナが口元をわずかに首を傾げると、フィグがむっと頬を膨らませた。
「ちゃんと真面目ニャ! 拳のことになると、誰より真面目ニャ!」
「他は?」
「他は……他は、拳のオマケニャ!」
「ほら、そういうところ! 真面目じゃないでしょ!」
ツィムのツッコミに、道場の隅で見ていた他のミスラたちがどっと笑う。
笑い声と木の軋む音。
森の区の空気が、そのまま道場の中に凝縮されているようだった。
(ラーヴ、か)
シャナは、少女の名を心の中で反芻した。
戦史資料の余白に書き込まれていた文字。
ガ・ナボ大王国第三王女、サラ・ラーヴ。
森の区に身を寄せ、その後の行方は不明――。
それと同じ綴りの姓を持つミスラが、目の前で笑っている。
(偶然にしては、少し出来すぎているが……)
今はまだ、確信には程遠い。
シャナは考えを胸の奥に押し戻し、ゾルドフに向き直った。
「今日は、君の弟子たちの拳を見せてもらいたい」
簡潔に用件を告げる。
「東サルタバルタで、魔力の乱れとヤグードの動きを調査する任務がある。地理と実戦に慣れた者を、護衛兼案内として数名、同行させたい」
「なるほどな」
ゾルドフは鼻を鳴らした。
「“殴れて、走れて、道を知ってる奴”が欲しいってことだ。なら話は早ぇ」
彼はフィグとツィムを親指で指し示した。
「こいつらは、ここじゃ上のほうだ。まずは拳を見てから決めな」
「了解」
シャナが頷くと、ゾルドフは手を叩いた。
「さっきの続きだ。フィグ、ツィム。今度はスパーだ。軽くでいいが、実戦のつもりでやれ」
「了解ニャ!」
「了解」
二人は再び向かい合った。
今度はミットではなく、素手と素手だ。
「頭は狙うな。内臓も本気で打つな。寸止めを忘れたら、あとで床掃除追加だぞ」
「うわ、それは痛いニャ……」
ゾルドフの半分冗談じみた脅しに、フィグが肩をすくめる。
しかし構えた瞬間、その表情からふざけた色はすっと消えた。
軽く膝を曲げ、重心を落とす。
尻尾が地面と水平になる位置で止まり、耳が相手に向いてピンと立つ。
「……始め!」
ツィムの声と同時に、床板を叩く音が跳ねた。
フィグが前に出る。
ジャブ、ジャブ。
ツィムが最小限の動きでそれをいなす。
続くストレートをスウェーで外し、足払いのフェイントでフィグの重心を揺らす。
「そこニャ!」
揺れた瞬間に、フィグの右足が低く回り込む。
ツィムの脛にかすめる寸前――ぎりぎりのところで止まる。
そのまま体をひねり、反対側の拳がボディの位置に伸びた。
わざと数ミリ、空気を残して止める。
ツィムも負けじと、一歩踏み込みながら膝を持ち上げる。
顎へ向かう軌道――で、やはり寸前で制止した。
「そこまで!」
ゾルドフの声が飛ぶ。
空気には、確かに「当たる」予感があった。
だが、どちらもあえて当てなかった。
(殺し合いではない、か)
シャナは静かに息を吐いた。
(動きは荒いが、“止める”ことを身体が覚えている。仲間を壊さない拳だ。護衛としては、これ以上なく好ましい)
サンドリアの訓練場では、こうはいかない。
騎士志願の若者たちは、“当てる”ことに夢中になり、肋骨を折り、歯を飛ばし合う。
それも戦場に出す前の“ふるい”ではあるが、護衛任務に向く拳とは言い難い。
「どうだ、赤魔」
ゾルドフが問いかける。
「森の拳は、サンドリアの騎士様に比べて見劣りするか?」
「むしろ逆だな」
シャナはあっさり言い切った。
「攻めも守りも粗はあるが、余計な殺しをしない。護衛に必要なのは、“守るべきものを壊さない”ことだ。そういう意味で、十分以上だ」
「ほ、褒められたニャ?」
フィグの耳がぴくりと跳ねる。
尻尾が、わかりやすく左右にぶんぶん揺れ始めた。
「ま、あたしの拳は世界一ニャから、そのくらい当然ニャ!」
「自分で言ってりゃ、世話ないわ」
ツィムが呆れたように肩をすくめる。女の子同士は、難しいらしい。