森の区――と、タルタル役人が口にしたとき、シャナンディ・S・リシャールは、ほんのわずか眉を動かした。
「森の、区?」
「そうなのだ。ミスラたちの居住区であり、自治区でもあるのだ」
元老院での会談がひと段落し、簡素な茶菓子が片づけられたあと。
今後の滞在日程について、書記官タルタルと確認している最中のことだった。
「森の区には【サンドリア領事館】もあるのだ。なのでリシャール殿には、そこで一度、顔を出して欲しいのだ」
「……我が国の領事館が、ミスラの自治区の中にあるのか?」
「あるのだ」
タルタルは当たり前のように頷いた。
「森の区は、“大戦の恩賞”みたいな場所なのだ。クリスタル戦争のとき、ミスラの傭兵たちが連邦のために戦ったご褒美として、百年の居住と自治を約束された区画なのだ」
「百年」
シャナはその数字を反芻した。
(戦功に対する報いとして、土地と自治権を与える、か。サンドリアでは……少なくとも、ミスラに対してそんなことはしないだろうな)
王が土地を与えることはある。
だが、それはほとんどの場合、エルヴァーン貴族の家であり、臣従関係の上に成り立っている。
「自治区」という形で、異種族にまとめて任せる発想は、サンドリアのそれとはずいぶん離れていた。
「森の区は北と南でちょっと雰囲気が違うのだ」
タルタル役人は、ひょいと卓上の紙切れに簡単な地図を描きながら続ける。
「北側は静かなミスラの居住区で、族長もいるのだ。南側は【ボミンゴ広場】を中心に、ギルドや競売所があって賑やかな商業地区なのだ」
「その南側に――」
シャナは紙の一点を指で軽く叩いた。
「例の拳道場があるのだったな?」
「よく覚えているのだ。そう、そのあたりにガルカの【ゾルドフ】がやっている道場があるのだ」
役人はにやりと笑う。
「森の区で“まともに殴れる”奴らは、だいたい一度はあそこを通るのだ」
「護衛候補として、信頼できるのか?」
「豪快で酒飲みだが、弱い者いじめは嫌いなのだ。森の子どもたちにも慕われているし、悪い噂は聞かないのだ」
ならば、とシャナは頷いた。
「近郊視察の護衛は、その道場から出してもらうのがよさそうだ」
「話が早くて助かるのだ。では、三日目の【東サルタバルタ】視察の予定に、“ゾルドフ道場訪問”を入れておくのだ」
(拳道場。ミスラの自治区。傭兵への恩賞としての土地――)
シャナは、ひとつひとつ頭の中で整理しながら、森の区へ向かう準備を始めた。
◇
森の区に足を踏み入れる前に、まずはサンドリア領事館へ立ち寄ることになっていた。
天の塔のある水の区から橋を渡り、ぐるりと回り込むように歩いていくと、木々の匂いが少しずつ濃くなっていく。
「ここから先が、“森の区”なのだ」
案内役のタルタルが指さした先。
石畳の道は少し狭くなり、家々の造りもまた変わってくる。
丸みのあるタルタルの家々に混じって、木材を多用した、どこか獣の巣を思わせる住居が増えていく。
そのあいだを、しなやかな足取りのミスラたちが行き交っていた。
(匂いが違う)
シャナは無意識に肩を張った。
湿った土と草。獣の毛皮の匂い。
料理の香りに混じって、獣脂と火薬のようなにおいもする。
人の眼差しも、さっきまでとは違っていた。
タルタルたちの好奇心たっぷりの視線とは別種の、“狩り場に入ってきた異物”を見る目。
(ここはもう、“ウィンダス連邦”というより、ミスラの国の一部か)
しなやかな尻尾と鋭い耳を持つ女たちが、木陰や高い足場からこちらを眺め、そのまますっと姿を消していく。
やがて、小さな石造りの建物が見えてきた。
「あれが、サンドリア領事館なのだ」
タルタルが胸を張る。
シャナは深紅のロングコートの合わせを直し、帽子のつばをごくわずかに下げて、中へ入った。
領事館の中は、サンドリアの空気がわずかに残っていた。
壁にはリシャール家もよく知る紋章が掲げられ、エルヴァーンの領事官がシャナを見て安堵の表情を浮かべる。
「よくお越しくださいました、リシャール殿。森の区が中心の滞在と伺って、内心少々心配しておりました」
「そうか?」
シャナは首を傾げる。
「森の区は、ミスラの方々に百年の自治が約された地です。我々エルヴァーンが、そこに“客人”として入れてもらっている立場だということを、お忘れなく」
領事官は、声を少し落として続けた。
「北側の居住区には、族長と、かつて名の知れた盗賊。そして“盲目の長”と呼ばれる古い戦士がいると聞きますが……我々ですら、その全貌をつかみきれてはいません」
(盲目の……)
シャナの脳裏に、戦史の記録にあった一文がよぎる。
オズトロヤ城の戦いで、片眼や片腕を失った者たちの話。
領事官は、そこでひとつ咳払いをした。
「ともあれ、森の区の南側――ボミンゴ広場周辺は、冒険者とミスラたちの生活の場。 治安も、少なくとも昼間は悪くありません。ただし、彼らの“縄張り意識”には、多少配慮を」
「心得た」
短く答え、シャナは再び外へ出た。
森の区の中心部――【ボミンゴ広場】は、噴水の水音と、人々の声で満ちていた。
広場の真ん中では、石造りの噴水が静かに水を噴き上げ、その縁に腰かけたタルタルやミスラが、釣竿を垂れている。
水面には、小さな魚影がちらちらと揺れていた。
「こんなところで釣りを?」
シャナが思わず漏らすと、隣のタルタルが当然のように頷いた。
「【堀ブナ】や【ザリガニ】が釣れるのだ。今日の晩ごはんになるのだ」
「街のど真ん中で、か」
「街のど真ん中で釣れたら、足が楽でいいのだ」
理屈としては間違っていない。
だが王都の噴水で釣竿を出したものがどう扱われるかを想像して、シャナは苦笑したくなった。
噴水の周りでは、冒険者たちが【リンクシェル】の仲間を募集していた。
「レベル○○以上限定なのだー!」
「白魔募集中ニャ!」
木箱の上に立って叫ぶ者。
地面に板を立てて、細い字で募集条件を書き出している者。
周辺には【バザー】のための敷物もいくつも敷かれ、ポーション、草、装飾品、怪しげな骨や布切れが雑多に並んでいる。
「ここが、森の区の“心臓”なのだ」
案内役のタルタルが胸を張る。
「ギルドにも近いし、【チョコボ厩舎】もあるし、手の院も割とすぐそこなのだ。何か探し物があるなら、とりあえずここで聞けば、誰かが知っているのだ」
「探し物、か」
シャナの視線が、自然とアクセサリーの並ぶバザーへ向かった。
銀鎖の首飾り、骨細工のペンダント、色とりどりのガラス玉。
中には、ほんのわずかに魔力の揺らぎを感じるものもあった。
「見てもいいか?」
「どうぞどうぞなのだ」
床に座りこんでいたミスラの露店主が、尻尾をゆるく揺らしながら微笑む。
「癒し系が欲しいなら、このあたりニャね。ポーションの効果がちょっとだけ上がる、と言われてるニャ」
差し出された首飾りを手に取り、シャナはそっと魔力の流れを探った。
(弱い)
たしかに、わずかにケアル系の気配はある。
だが、それは「雰囲気程度」のものだ。
母が持っていたネックレスの、あのはっきりとした光とは比べものにならない。
「本当に効くやつは、ここまで回ってこないニャ」
ミスラが、ひょいと肩をすくめる。
「そういう“当たり石”は、大きい商会か、裏の連中がすぐに押さえちゃうニャ。あたしらが触れる頃には、もう力が抜けてるのばっかりニャ」
「裏の連中?」
「ニャはは。お客さん、そういう話が好きそうニャね」
ミスラは冗談めかして笑い、声を落とした。
「宝石で本気で儲けたいなら、【ナナー・ミーゴ】の鼻を使うのが一番早いニャ。あのミスラ、森の区だけじゃなくウィンダス中を、財布のにおいだけで走り回ってるニャ」
「ナナー・ミーゴ……」
シャナは、その名を心の中で繰り返した。
「どんな女だ?」
「小さくて、耳がよくて、根性が悪いニャ。でも仕事は早いニャよ。お金さえ積めば、どこからでも“掘り出し物”を嗅ぎつけてくるニャ」
尻尾が、おもしろがるように揺れる。
「ただし、情報料もニオイもキツいニャ。本気で騙されたら、あたしらでも見抜けないニャ」
(盗品屋、というより“仲介屋”か)
シャナは、首飾りを元の場所に戻した。
まだここで深入りするのは早い。
ネックレスの手掛かりも、白き書の動きも、今はただの断片だ。
(まずは正面から、森の区の顔を見ておくべきだな)
視線を広場の外れへ移すと、骨工ギルドや織工ギルドの看板が見えた。
その向こうには、チョコボ厩舎の柵も覗いている。
「ゾルドフの道場は、どのあたりだ?」
シャナは、通りすがりのミスラに声をかけた。
「ゾルの親父んところニャ?」
荷物を肩に担いだミスラが、ひょいと顎で指し示す。
「ボミンゴの噴水から、あっちニャ。骨工ギルドとチョコボ厩舎のちょうど真ん中くらいニャ。道の奥で、毎日ドカドカ音がしてたらそこニャ」
「腕は確かか?」
「確かニャよ。あたしも昔、何度か床に沈められたことあるニャ」
ミスラは苦笑して、さらに付け足した。
「ゾルのところで殴られて育ったミスラは、みんなそこそこ使えるニャ。今の主力はツィム達とか……あと、フィグニャね」
「フィグ」
シャナの口から、その名が自然に漏れた。
さきほど、役人の口からも出た名前。
戦史資料の余白にも、確かそんな名前が走り書きされていた。
「いつも喉元に青い石ぶら下げてる、うるさい奴ニャよ。でも拳の筋はいいニャ。森の子どもたちにも人気ニャし」
ミスラの眉が、少しだけやわらぐ。
「この前も、慰霊の日に子どもたちの花束を直してやってたニャ。ああ見えて、面倒見は悪くないニャ」
「そうか」
シャナは短く応じた。
(ガ・ナボの王女が、かつて身を寄せたという森の区。そのどこかで育ったのかもしれない娘。そして、癒しの宝石と似た“青い石のネックレス”を下げた拳の使い手――)
線と線が、まだぼんやりとではあるが、頭の中で繋がり始める。
「書記官」
シャナは、隣でメモを取っていたタルタルに声をかけた。
「サルタバルタ視察の護衛と案内役は、森の区のゾルドフ道場から選びたい。日程に“道場訪問と実技確認”を入れてくれ」
「了解なのだ。元老院も、ミスラ族長も、それなら文句は言わないはずなのだ」
タルタルは満足そうに頷き、手帳にさらさらと書き加える。
その夜、シャナは森の区にほど近い宿の一室で、ランプの灯りを頼りに日誌を広げていた。
ペン先が、紙の上を滑る。
――森の区
ミスラ傭兵への恩賞として与えられた自治区。百年の自治権。
北部:居住区。族長・盗賊・盲目の長の噂。
南部:ボミンゴ広場を中心とした商業エリア。
――ボミンゴ広場
噴水を中心に、冒険者のバザー・リンクシェル募集・簡易釣場。
付近に骨工ギルド・織工ギルド・ミスラの薬屋・チョコボ厩舎・手の院。
――宝石と裏流通
ケアル効果を増幅する“当たり石”は、市場まで滅多に降りてこない。
高額品は、大商会か“裏の連中”が押さえる。
森の区では、ナナー・ミーゴというミスラが有力な情報源。
ただし、今はまだ接触は保留。白き書・禁書絡みの動きが見えるまで待機。
――ゾルドフ・モンク道場
森の区南部。ミスラたちの実戦訓練の場。子どもにも人気。
拳の筋がいい門下生として、ツィム、フィグ、他数名の名が挙がる。
サルタバルタ視察の護衛候補として、実技確認予定。
最後の行まで書き終えると、シャナはペンを置いた。
(森の区は、ウィンダスの“もう一つの顔”だ)
天の塔と五院が支える、学術都市としての顔。
そして、森の区とミスラたちが支える、拳と狩りの顔。
そのどちらにも、戦後の傷跡と、今の生活が色濃く刻まれている。
(ゾルドフ。ミスラ。フィグ……)
窓を開けると、夜の森の匂いが流れ込んできた。
遠くで、猫のような笑い声と、どこかの家の鍋の蓋が鳴る音がする。
ボミンゴ広場の噴水は、夜でもかすかな水音を立てているのだろう。
「明日が、少し楽しみだな」
誰に聞かせるでもなく呟き、シャナは帽子を椅子の背に掛けた。
森の区の奥。
ゾルドフの道場。
そして――喉元に青い石をぶら下げた、騒がしいミスラ。
まだ見ぬそれらの姿が、彼の脳裏にぼんやりと形を取り始めていた。