それぞれが、石碑と向き合う時間だ。
ツィムは、姉の名前が刻まれた木札にそっと指を滑らせた。
「……あたし、ちゃんとやってるよ」
誰にも聞こえないくらいの声だったけれど、フィグにはわかった。
尻尾の先が、いつもより小さく揺れている。
(ツィムも、何人も落としてるんだニャ)
フィグは自分の手の中の木札と、腕に巻かれた布を見下ろした。
カムから託された布。
母のひとひらのリボン。
石碑の前に進み出ると、フィグはそっと目を閉じた。
(名前も知らない人たち)
木札に刻まれた、見知らぬ誰か。
(カム)
あの日、目を失った狩人。
(母様)
オズトロヤで剣を振るい、その先へ旅立ったサラ。
(みんな、それぞれの場所で戦って、何かを守ろうとしてたんだニャ)
胸の奥が熱くなる。
口に出さずに、心の中で言葉を紡いだ。
(あたし、まだ全然強くないニャ。でも、いつか――母様が守ろうとした世界を、あたしの番でちゃんと殴って守れるくらい強くなるニャ。だから、その時まで、見てて欲しいニャ)
目を開くと、横で小さなミスラがそわそわしていた。
両手に握った花をきゅうきゅうに握りすぎて、今にも潰れそうだ。
「あの、どうやって祈ればいいかわかんない……」
今にも泣きそうな顔で見上げてくる。
フィグはしゃがみ込み、子どもの握る花束をそっと緩めた。
「難しいこと考えなくていいニャ」
微笑んで言う。
「“元気でいてほしい”とか、“ちゃんと見てて”とか、そんなふうに思うだけでも、きっと届くニャよ」
「……それで、いいの?」
「それで、いいニャ」
子ミスラは小さくうなずき、ぎゅっと目を閉じて祈り始めた。
その姿を見て、フィグの胸にも静かな暖かさが広がる。
しばらくして、参拝の列が少しずつ散りはじめたころ、ツィムがフィグの隣に並んだ。
「……あんたさ」
ツィムは石碑から目を離さないまま言った。
「母親のこと、ちゃんと聞いてるの?」
「聞いてるニャ」
フィグは空を見上げた。
「オズトロヤで戦って、そのあと海の向こうに行ったことも。どこにいるかも、どうなったかも、まださっぱりニャ」
肩をすくめる。
「英雄なんかって、思ったことないニャ。母様も皆も、自分の出来ることをやっただけだニャ。……あたしも、そうなりたいだけニャ」
ツィムは鼻で笑った。
「英雄の娘って、大変ね」
けれど、その声には、さっきより棘が少なかった。
「あたしだって、姉ちゃんも親戚も何人もオズトロヤに取られてる。“どれが一番辛いか”なんて、もうわかんないわ」
それを聞いて、フィグはこう答えた。
「でも、“どれが一番辛いか”競うのも違うでしょ。あたしはあたしの分、殴って稼いで守る。ツィムはツィムの分、殴ればいいニャ」
「……そうね」
つられたようにツィムはうなずいた。
「辛いの、数えるもんじゃないニャ。なくした分だけ、今をちゃんと生きるしかないニャ」
そして、胸を張る。
「だからあたしは、母様が守ろうとした世界を、あたしの番でちゃんと守りたいニャ。もう一回、殴り直してやるくらいの気持ちでニャ!」
ツィムは一瞬ぽかんとしたあと、吹き出した。
「……言い回し、バカみたいに乱暴だけど」
口元を押さえながら笑う。
「嫌いじゃないわ、その意地」
「バカは余計ニャ。でも、ありがとニャ」
フィグも笑う。
その笑い声を背中で聞きながら、ゾルドフが小さく頷いた。
「よし」
ゾルドフは両手を叩き、若いミスラたちを見渡す。
「泣くのはここまでだ。明日からはまた、殴る稽古に戻るぞ。あいつらが守ったものを、今度はお前らが繋ぐ番だ」
「うん!」
「任せて!」
あちこちから力のこもった声が上がる。
帰り道、フィグはもう一度だけ石碑を振り返った。
(あたしだけが辛いんじゃないニャ)
ツィムも、あの子も、あの人も。
皆、それぞれの名前と空席を抱えて生きている。
(それぞれの分を、それぞれが守るニャ)
腕の布をぎゅっと握る。
(来年の慰霊の日、今より絶対強くなってここに来るニャ。ツィムにもゾルドフにも、負けてられないニャ。母様にも――『ちゃんとやってるニャ!』って胸張って言えるように)
森の区の夕暮れが、少しずつ色を濃くしていく。
風が枝を揺らし、遠くで子どもたちの笑い声が聞こえた。
フィグは拳を握りしめ、まっすぐ前を向いて歩き出した。
ウィンダス港に打ち寄せる波は、サンドリアのそれよりいくぶん柔らかく、
塩の匂いよりも、湿った土と草の匂いのほうが強かった。
深紅のロングコートの裾が、風に揺れる。
細身のエルヴァーンの青年が、ゆっくりとタラップを降りていた。
胸元には黒と金の装飾が走り、腰には銀色に光る細身の剣。
頭には、白い羽根を飾った赤い三角帽子――赤魔道士の象徴とも言える装束。
シャナンディ・S・リシャール。
サンドリア王国子爵家、リシャール家の次男にして赤魔道士。
(……空気が軽いな)
足裏に伝わる桟橋の感触と、湿った風の重さ。
どこか頼りないようでいて、剣と鎧のきしむ音が支配するサンドリアとは、根本から違う。
彼の後ろには、小さな一隊が続いていた。
軽装のエルヴァーン騎士が二名、書類の束を抱えたタルタルの書記官が一名、それから荷物持ちの従者たち。
「リシャール殿、足元にお気をつけくださいなのだ」
書記官のタルタルが、ちょこちょこと隣を歩きながら見上げてくる。
「わかっている」
シャナは短く答え、視線を前に向けた。
港の向こうには、背の低い建物と、のたうつように伸びた木々の緑。
そのあいだを、小柄なタルタルとしなやかなミスラたちが行き交っている。
(森の区は、あの先か)
ウィンダス連邦。
魔法と緑の国。
王都サンドリアの石造りの塔とは違う、低い屋根の家々が続く。
高い尖塔の代わりに、ここでは緑の木々だけが空を切り取っていた。
シャナは、無意識に左胸の内側へ手をやりかけて――やめた。
そこにあるのは、母のネックレスではない。
代わりに、兄ドゥルマイユから託された小さな紋章と、王命の文書。
(あの宝は、とうの昔に手を離れた。今さら胸を探っても、出てくるはずがない)
自嘲気味に息を吐き、コートの合わせを整える。
港の入口近くで、ウィンダス側の役人らしきタルタルが、ぱたぱたと手を振っていた。
「ようこそようこそなのだー! サンドリアのご一行様、ウィンダス連邦へ!」
書記官タルタルが前に出て、慣れた調子で挨拶の言葉を交わし始める。
シャナは半歩下がって、そのやり取りを静かに見守った。
形式張った挨拶など、嫌いではない。
むしろ、その枠組みの中にいるほうが楽だとすら思う。
名乗り、地位を示し、目的を述べる。
それは、剣を交える前の構えのようなものだ。
「こちらが、今回の“使節の代表”なのだ」
ウィンダス側のタルタル役人の視線が、シャナに向けられる。
シャナは一歩前に出た。
「サンドリア王国、リシャール子爵家次男、シャナンディ・S・リシャールだ。王命により、魔法・文化交流ならびに諸案件の協議のため、貴国に滞在する」
短く、必要な言葉だけを並べる。
ウィンダス側のタルタルが「ほほう」と目を細めてうなずいた。
「硬いのだー。でも、わかりやすくていいのだ。森の区のミスラたちにも、そのくらい簡単な自己紹介をお願いしたいのだ」
「……善処しよう」
口元だけ、わずかに緩める。
タルタル役人は満足げに頷き、紙束を取り出した。
「では、早速なのだが、日程の説明をさせてほしいのだ。今日は港の宿舎に入ってもらって、明日、元老院と魔法学校でご挨拶。そのあと――」
紙束の端を指で押さえながら、ちいさな指がぴこぴこと動く。
「三日目には“森の区”の視察と、ミスラ自治区との顔合わせ。その際、治安と魔物の調査もかねて、近郊のフィールドを一部同行してほしい、とのことなのだ」
「近郊のフィールド、というと?」
「東サルタバルタ周辺なのだ。最近、魔力の流れがちょっと妙なので。ヤグードの動きとも関係があるのか、森番たちが気にしているのだ」
(魔力の乱れ、か)
シャナの眉が、ほんのわずかに動いた。
魔力が乱れれば、精霊が荒ぶる。
精霊が荒ぶれば、魔物も、森も、人も、均衡を崩しかねない。
(家の事情などとは別に、“赤魔道士”として見過ごせない問題だな)
タルタル役人が続ける。
「その護衛と案内を、森の区の“拳道場”に頼んであるのだ。ゾルドフというガルカがやっている道場でね。腕のいいミスラが何人かいるのだ」
「拳……道場?」
騎士の家系に生まれ、赤魔道士として育ったシャナには、あまり馴染みのない言葉の組み合わせだった。
素手で戦うこと自体は珍しくない。だが、道場として体系立てているとなると話は別だ。
「ゾルドフ・モンク道場なのだ。森の区ではちょっとした有名人なのだよ。料理も拳も豪快で、子どもたちに大人気なのだ」
「そうか」
シャナは、紙束に目を落とした。
そこには、三日目の予定が細かく書かれている。
――森の区ゾルドフ道場にて、護衛候補と顔合わせ。
――同日、サルタバルタへの出立準備。
(その“腕のいいミスラ”とやらが、今回の鍵になりそうだな)
森の区。
拳。
魔力の乱れ。
どれも、今のシャナにとっては未知の領分だ。
だからこそ、行く価値がある。
「了解した。日程に異存はない。元老院との会談内容は、今夜のうちに書記官と詰めておく」
「助かるのだ。では、港の宿舎まで案内するのだ」
タルタルがくるりと向きを変える。
シャナはそのあとに続いた。
港から少し離れると、視界をしめる緑の量が増えていく。
木々の陰から、好奇心いっぱいのタルタルやミスラの子どもたちがひょこひょこと顔を出しては、すぐに隠れた。
(……視線が多いな)
ロングコートの裾をひるがえしながら歩きつつ、内心で苦笑する。
サンドリアでも、赤魔道士の装束は目立つ。
だが、それは「騎士団の誰か」としての視線であって、ここまであからさまな好奇心ではない。
(まぁ、物珍しいのはこちらも同じか)
森の匂い。
建物の形。
歩く人々のリズム。
そのどれもが、シャナにとっては新鮮だった。
けれど、胸の奥では別の感情も息を潜めている。
(オズトロヤの慰霊の日、か)
出発前、サンドリアで交わされた話を思い出す。
オズトロヤ城の戦いから、まだ二十年あまり。
ここウィンダスでは、その傷が今なお毎年の行事として息づいている。
そしてもうひとつ。
紛失した母のネックレス――ケアルの力を増幅する、澄んだ光の宝石。
(戦後の混乱の中で、どこかへ流れた“癒しの宝”。それを追っていけば、家の恥も、母の涙も、少しは拭えるかもしれない)
その行き先が、オズトロヤ、あるいはその周辺の“闇ルート”に紛れていても、不思議はない。
ウィンダス。
ヤグード。
ガ・ナボの名を持つ王女サラ・ラーヴ。
報告書の中でだけ見ていた文字が、今、目の前の世界と繋がり始めている。
(世界は、こんがらがっている)
父レオンか、兄ドゥルマイユか、誰かがそう漏らしたことがあった。
シャナは苦笑する。
(それでも──解きようがない結び目ではないはずだ)
サンドリアとウィンダス。
王城と天の塔。
過去と今。
そのどこかに、必ず「橋」になれる場所がある。
赤いコートの裾と白い羽根を揺らしながら歩きつつ、シャナは静かに息を吸った。
(国のために。家のために。……そして、俺自身のために)
そうして彼は、ウィンダスの空の下へと足を踏み入れていく。
数日後、自分が森の区の拳道場で、とんでもなく騒がしいミスラと出会うことなど、
このときのシャナは、まだ知らない。