どこか遠くを見ていたセミの眼差しが、ふっと現実に戻ってくる。
「……と、少し重たい話をしすぎたかな」
「そうだねぇ。フィグの頭から湯気が出そうだよ」
カムが冗談めかして笑うと、フィグも思わず「ぷしゅー」と口で変な音を立ててみせた。
「頭からじゃなくて、胸のあたりが熱いニャ……いろいろ考えることが多すぎるニャ」
「考えることがあるのは、いいことだよ」
セミはカップを飲み干してから、姿勢を少しだけ崩した。
さっきまでの守護戦士の顔ではなく、森の区の“お姉さん”の顔だ。
「でも、考えるだけじゃ世界は守れない。拳も、脚も、ちゃんと動かさないとね」
「そりゃもちろんニャ!」
そこだけは迷いなく、フィグは胸を叩いた。
「ちゃんと動かしてるニャ。毎朝ゾルドフの道場でボコボコにされて、
そのあと東サルタに出て、ララブやマンドラ叩いて、クロウラーのねばねばを集めて――」
「物騒な上にねばねばだねぇ、あんたの日課は」
カムが苦笑し、セミも肩を揺らす。
「ゾルドフも、“看板娘はなかなか筋がいい”と褒めていたよ」
「か、看板娘は余計ニャ!」
耳がまた熱くなり、フィグはじたばたと足をばたつかせた。
「でも、嬉しいくせに」
「……ちょっとだけニャ」
小さく白状すると、カムが「素直でよろしい」とうなずく。
「東サルタの方は、どうだい? 危ない目には遭ってないかい」
「大丈夫ニャ。マンドラとミミズとウサギとトカゲくらいニャ。
たまに道に迷ったタルタルを送っていったり、財布落とした人に拾ってあげたりするくらいニャ」
「財布といえば」
セミがわざとらしく咳払いした。
「さっき、門のところでナナー・ミーゴを見かけたんだけれど――」
「うっ」
フィグの動きが止まる。
カムも、ぴくりと耳を動かした。
「もしかして、今日もなにか“授業料”を取られそうになってたんじゃないかい?」
「……スターオニオンズ団が助けてくれたからセーフニャ」
観念したように言うと、セミが「やれやれ」と肩をすくめた。
「初心者向けの“ウィンダス講座・千ギル”かい?」
「なんで知ってるニャ!?」
「被害者は一人や二人じゃないからね」
守護戦士の口元に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「ナナーは情報を売るのが仕事みたいなものだから、完全な悪人とは言えないけど……
あの子に本気で相手したら、財布も秘密も、全部丸裸にされるよ」
「だから嘘をついたのさ」
フィグは頬をぷくっとふくらませる。
「“今日ウィンダスに来たばっかりの初心者です”って。
森の区生まれ森の区育ちってバレたら、絶対もっといろいろ聞き出されるニャ」
「よく我慢したじゃないか」
カムが感心したように笑う。
「小さいころのあんたなら、売られた喧嘩をその場で買って、門の前でナナーと取っ組み合いしてたよ」
「今は違うニャ。あたしも大人になったニャ」
「その割には、“千ギル!? ララブの尾何本ニャ!?”って顔してたよ」
「見てたニャ!?」
セミの真似をするように声を上げると、セミ本人がくすくす笑った。
「見てはいなかったけれど、想像はつくさ。
ラーヴ家の娘は、どれだけ血筋が立派でも、財布の中身は正直だからね」
「うぐ」
痛いところを突かれ、フィグはうつむいた。
「……でも、千ギルあったら、道場の会費払って、ボンボンの修理して、
カムにお菓子買って、ちょっといいグローブも見られるニャ……」
「はいはい、わかってるよ」
カムがくすりと笑い、フィグの頭をぽんと叩く。
「だからこそ、なおさら、ちゃんと稼いで、ちゃんと守っていかないとね。
ナナー相手に財布を守れたのは、いい前兆だよ」
「前兆?」
「明日からも、もっと忙しくなるってことさ」
意味ありげに言われて、フィグは首をかしげた。
「忙しく?」
「慰霊の日が終わるとね、各国から人が動くのさ。
サンドリアからも、バストゥークからも。
森の区にも、きっと顔を出す“偉いさん”がいるだろうさ」
カムの言葉に、セミがうなずく。
「ウィンダスとサンドリアの間で、新しい話も進んでいる。
その“橋渡し”をする者たちが、近いうちにこの町に来るよ」
「橋、か」
さっき聞いた言葉が、また胸の奥で光る。
母が言ったという、“二つの場所を繋ぐ橋”。
自分にはまだ、その意味がうまく掴めない。
けれど――
「だったら、あたしもちゃんと準備しなきゃニャ」
フィグは拳を握りしめた。
「ナナーにも財布にも負けないくらい、強くて賢い“森の区の冒険者”になってやるニャ。
母様が守った世界を、今度はあたしが守れるように」
「その意気だよ」
セミが満足げにうなずく。
「明日も朝からゾルドフのところに行くんだろう?
あのガルカが泣き言を言うくらい、しっかり稽古をつけてもらうといい」
「ゾルドフが泣き言なんて言うわけないニャ。
あいつ、あたしが倒れても“まだ十回は殴れる”とか言うニャよ?」
「頼もしいじゃないか」
守護戦士と元狩人が顔を見合わせて笑う。
その笑い声に包まれて、フィグの胸の中のざわつきも、少しずつ形を変えていった。
不安や寂しさだけじゃない。
期待と、覚悟と、明日へのわくわくが混ざり合った、名前のつけにくい感情。
(明日もちゃんと拳を振るうニャ。
ゾルドフの道場で、東サルタで。
いつか海の向こうに届くくらい、でっかく)
カップの底に残った最後の一口を飲み干しながら、フィグはそっと目を閉じた。
セミ・ラフィーナは天の塔で暮らしているが、ウィンダスのミスラ族長であるペリィ・ヴァシャイとは距離が近い。今度のミスラの慰霊祭について、ペリイ・ヴァシャイの旧友であるカムと話し合う事があったらしい。
フィグは大人の話し合いには参加せず、自分の部屋に戻った。
その日の夕方は、いつもより少しだけ静かだった。
保育園代わりのこの家から、子どもたちがひとり、またひとりと帰っていく。
最後の子を送り出したあと、カムは「片付けはあたしがやっておくから」と言って、台所に引っ込んだ。
フィグは、そっと外に出る。
家の脇の細い梯子をのぼると、低い屋根の上に出られた。
森の区の家はどれも背が低いから、ここに立つだけで、木々の上に顔を出したみたいな気分になれる。
夕焼けが、黄昏に溶けていく時間。
風が枝を揺らし、遠くで鳥が鳴く。
(……落ち着くニャ)
フィグは腰を下ろし、足を投げ出した。
耳にひっかけている小さなピアスに、そっと触れる。
淡い石が二つ。
母とお揃いの、双子石のピアス。
「この子が、二つの場所を繋ぐ橋になるかもしれない」
さっきカムが語った、サラの言葉が胸の中で繰り返される。
(橋、ねぇ)
森の区とガ・ナボ。
ウィンダスと、海の向こう。
自分には、そんな大層なものになれる気がまるでしない。
ララブを追いかけて転んで、マンドラに頭を殴られて、ナナーに財布を狙われて――
そんな一日を繰り返している、自分だ。
(でも、母様は本気だったんだニャ)
オズトロヤの戦い。
ガ・ナボの王女。
“海の向こう”へ向かった理由。
今までぼんやりとしか知らなかった断片が、少しずつ形を取り始めている。
それは同時に、胸の奥に重さを生む。
(あたし、何も知らなかったニャ。母様がどんな顔で、どんな気持ちで、あたしを置いて行ったのか)
夕闇が、少しずつ濃くなっていく。
森の向こうに広がる空は、どこまでも続いていて、その先には本当に“海”があるのだと思わせる。
「……あたしも、行かなきゃいけないのかニャ」
ぽつりと漏れた言葉は、風にさらわれて消えていった。
今すぐじゃない。
明日、道場をサボって船に乗る――なんて軽い話じゃない。
でも、いつか。
拳がもっと強くなって、心も、足も、今よりずっと遠くまで行けるようになったら。
(その時は、ちゃんと自分の足で行きたいニャ。母様が見た海の向こう。母様が殴ろうとした“何か”のところまで)
両拳を握りしめると、古い布の感触が指に触れた。
小さく裂けた、母の腰巻きの欠片。
旅立つ前の夜、サラが千切って、フィグの腕に結んでくれたものだ。
『フィグ。世界は、きっとこんがらがっている。でも、あんたは真っ直ぐでいておくれ』
ずっと昔に聞いた声が、風に乗ってよみがえる。
「真っ直ぐ、ニャ……」
泣きたくなるような、笑いたくなるような気持ちが、胸の中でごちゃ混ぜになった。
「だったら、真っ直ぐ殴るしかないニャ。母様が守ろうとした世界を、あたしも全力で殴って守る。それで“橋”になれるなら、安いもんニャ」
自分で言って、少しだけ吹き出す。
世界を殴る橋、なんて変な言葉だ。
でも、フィグらしい、とも思った。
空に一番星が瞬き始める。
(明日は、朝からゾルドフのところニャ)
ゾルドフの拳。
東サルタバルタの風。
ララブとマンドラと、ねばねばしたクロウラー。
その全部が、きっとどこかで“海の向こう”に繋がっていると信じて。
「よーし。明日も絶対、手加減なしニャ。ゾルドフが“やりすぎだ”って言うくらい、殴って殴られて――」
フィグはぐっと伸びをして立ち上がった。
屋根の上に寝転がって星を数えるのは、また今度でいい。
今は、明日に備えてちゃんと寝て、ちゃんと食べて、ちゃんと拳を振るうこと。
梯子を降りながら、フィグはひとつ大きなあくびをした。
(ナナー、セミ様、カム……みんな、うるさくて優しいニャ。この森も、この家も、ちゃんと守らなきゃ)
戸を開けると、カムが湯気の立つスープを用意して待っていた。
セミの姿はもうなく、代わりにちゃぶ台の上に、小さな包みが置かれている。
「セミが置いていったよ。『頑張り屋のラーヴ家の娘へ』だってさ」
「……かっこつけニャ」
そう言いながら、口元はゆるんでしまう。
包みの中身は、厚手の草布で丁寧に作られた手甲だった。
「明日から、それを装備していけばいい」
カムの言葉に、フィグは力いっぱいうなずいた。
「うんニャ。明日から、もっと殴るニャ!」
スープを飲み干し、眠りにつきながら、フィグはぼんやりと天井を見上げる。
森の区の夜は、静かで、少しだけざわざわしていて、どこか懐かしい匂いがする。
(明日も、いつも通り――)
そう思いながら目を閉じた、その翌日。
ウィンダスの港に、細身の剣を振るうサンドリアの青年が降り立つことを、このときのフィグはまだ知らない。