カムが、少し誇らしげな顔で言う。
「ちょうどよかったじゃないか。ほら、ちゃんと挨拶おし」
「は、はいニャ!」
フィグはあわてて背筋を伸ばし、胸の前で両手を揃えた。
「お、お久しぶりですニャ、セミ様。フィグ・ラーヴです。今日も、その……お忙しい中……」
「そんなに固くならなくていいよ」
セミは口元に笑みを浮かべると、そっとフィグの頭に手を置いた。
鎧越しとは思えないくらい、温かい手だった。
「もう十六歳だろう? 最後に会ったときは、まだ母上の腰にしがみついていたのにね」
「や、やめて欲しいニャ、その話は……!」
思い出されて、耳が熱くなる。
セミとカムの前で母にべったり甘えていた自分なんて、できれば土に埋めたい過去だ。
けれど、「母上」という言葉が出た瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
サラ・ラーヴ。
南のガ・ナボ大王国、ラーヴ家の第三王女。
ウィンダスに来て、戦場を駆け、森の区のミスラと笑い合って――そして、海の向こうへ旅立った人。
(母様……)
小さく呼んだ名前は、喉の奥で消えていった。
セミは、フィグの表情の変化を見て取ったのか、少しだけ目を細めた。
けれどすぐに、いつもの柔らかい調子に戻る。
「今日は、慰霊の日の準備の手伝いでね。ついでにカムと、お前の話もしていたんだよ」
「え、あたしの?」
「そうさ。最近、拳の腕をだいぶ上げているそうじゃないか。ゾルドフから聞いたよ」
ゾルドフの名前が出て、フィグは思わず胸を張る。
「もちろんニャ! あたし、毎日ちゃんと道場に通ってるし、サルタバルタでもいっぱい殴ってるニャ!」
「……物騒な報告のしかたはやめなさいよ」
カムが苦笑し、セミもつられて笑う。
笑い声の響くこの家は、フィグにとって、森の区の匂いそのものだった。
母が旅立ってからも変わらない、温かい居場所。
だからこそ、ふとした拍子に、心のどこかで怖くなるのだ。
いつかこの場所も、自分から遠ざかってしまう日が来るんじゃないかと。
(……でも、今はまだ)
フィグはその不安を振り払うように、セミに向き直った。
「セミ様、あたし、もっと強くなるニャ。母様が守ろうとしたもの、あたしも殴って守れるくらいに」
その言葉に、セミは一瞬だけ驚いたような顔をして、それから静かにうなずいた。
「……そうか。じゃあ、なおさら話しておかなくちゃいけないね。
オズトロヤ城の戦いのことも、サラ殿下のことも」
その言葉に、カムも小さくうなずく。
森の区の小さな家に、少しだけ空気が変わる気配が走った。
ざわめく子どもたちの声の向こうで、遠くの森が風に揺れる音が聞こえる。
フィグは、ごくりと唾を飲み込んだ。
(母様の話……ちゃんと、聞かなきゃいけないニャ)
そう覚悟を決めたところで、カムが柔らかく笑って言う。
「その前に、まずはお茶だよ。話は、それからゆっくりね」
カムがウィンダスティーを運んでくるあいだ、フィグはひざの上で両手をぎゅっと握りしめていた。
湯気の立つカップが三つ、ちゃぶ台の上に並ぶ。
大福と、緑茶の匂いが部屋に広がって、さっきまで張りつめていた空気を、少しだけやわらげた。
「さ、飲みな。冷める前に」
「いただくニャ」
カップを両手で包むと、じんわりとした温かさが指先から腕に伝わってくる。
その感触に、フィグの緊張も少しだけほぐれた。
けれど、セミが静かに口を開いた瞬間、また胸の奥がきゅっとなる。
「……今日、森の区が慌ただしいのは、わかっているね」
「うん。明日が“慰霊の日”だからニャ。
オズトロヤで戦って、帰ってこなかった人たちを、みんなで偲ぶ日」
子どもの頃から何度も聞かされてきた言葉だ。
森の区のミスラも、ウィンダスのタルタルも、あの城で誰かを失っている。
カムがそっと自分の布で覆われた右目に手を触れた。
「あたしのこの目もね、あの日のお土産みたいなもんさ」
「カムの目が……やられた時、ニャ?」
「そう」
カムの声は不思議なくらい穏やかだった。
「ヤグードが押し寄せてきてね。あんたくらいの子が、牢獄で取り残されてたのさ。
ペリィ・ヴァシャイ様が前で道を開けてくれて、あたしが背中にひっつかんで走って……」
軽く笑いながら話すけれど、フィグの頭の中には、泥と血の匂いが広がるような気がした。
「矢が飛んできてね。あたしはしくじってしまった。それでこの目はお払い箱。でも、その子ミスラはちゃんと生き延びて、大きくなって、今は自分の子を育ててる。
だから、悪いことばかりじゃないのさ」
「……カム」
フィグは思わず、カムの手を握った。
カムはその手を、今度は自分から優しく握り返す。
「心配するんじゃないよ。今はあんたの顔も、セミの顔も、ちゃんと浮かぶからね」
「ええ。あの日のことを、忘れていない者は多いよ」
セミがゆっくりとうなずいた。
「私がウィンダスの守護戦士になれたのも、あの戦いがきっかけだ。オズトロヤで、多くのミスラが犠牲になり、守れなかったものが多すぎた。だから、せめてこれからは――と思ってね」
守護戦士の瞳が、一瞬だけ遠くを見た。
フィグはその横顔を、じっと見つめる。
そして、耐えきれずに口を開いた。
「……母様も、その戦いにいたんだよね」
フィグはそのことが知りたくて身を乗り出した。
母の事は、森の区の誰もが“サラ様”“殿下”と呼んで慕っていたそうだが……。
セミはフィグのほうへ視線を戻し、静かにうなずいた。
「ああ。サラ殿下も、いた。
ガ・ナボから送られてきた傭兵団の一員――という名目だったけれど、本当はもっと大きな意味を持っていた」
「大きな、意味?」
「世界が一度、あそこで揺らいだからさ」
セミの言葉は、少し難しかった。
けれど、その声の重さで、ただ事ではないとわかる。
「戦争が終わったあとね、本当なら殿下はガ・ナボに戻るはずだった。王女なんだから。国にも、家族にも、役目があったはずだ」
そこでカムが、くすりと笑った。
「でもサラ様は、こっちを選んだのさ。“南の国”じゃなくて、雨の多いこの森と、ウィンダスの空と、あたしたちをね」
フィグの胸が、どくん、と大きく鳴った。
「……あたしを、産んだから?」
「それもある」
セミが言い、カムが続ける。
フィグは少し考え込んだ。年代が、合わない。戦争終結は20年前。フィグは今、16歳だ。
「戦いのあと、森の区で一緒に酒を飲んで、泣いて、笑ってね。
『ここで見つけた絆は、ガ・ナボにも引けを取らない』って、サラ様はよく言ってたよ」
カムは目を細めて、遠い日を見るように言葉を紡ぐ。
「あんたがお腹にいるってわかったとき、サラ様の顔は、それはもう幸せそうでね。
“この子は森の子であり、ガ・ナボの子でもある。
いつか海を越えて、二つの場所を繋ぐ橋になるかもしれない”って」
橋。
その難解な言葉が、なぜだかフィグの耳に残った。
「だから殿下は、しばらくガ・ナボに戻らず、ここに残った。オズトロヤの後始末、森の区に限らず、ウィンダスの復興、ヤグードとの睨み合い……そのどれもに、サラ殿下は深く関わっていたよ」
セミの声には、尊敬と、少しの懐かしさが混じっていた。
「母様、何でもやりすぎニャ……」
思わずぼそっとこぼすと、二人とも少し笑った。
だけど、その笑いは長くは続かない。
セミが、ふっと真顔に戻る。
「――そして、もう一度、世界が揺らぎそうになった」
部屋の空気が、わずかに重くなる。
「南の海のずっと向こう。オルジリア大陸の沖合で、妙な“気配”が見つかった。海の底に、眠っているはずのものが、目を覚ましかけている……そんな報告が、ウィンダスにも届いた」
フィグは息を呑んだ。
「眠ってる……“何か”?」
「詳しいことは、私も知らない。ただ、ウィンダスの賢人たちと、ガ・ナボの巫女たちの間で、“このままでは良くない”という話になったらしい」
セミは、手の中のカップを見つめながら続けた。
「サラ殿下は、その話を聞いて、自分から手を挙げた。“海の向こうへ行ってくる。私には、その責任がある”と」
「責任……?」
「ガ・ナボの王女として。オズトロヤで杖を振るった魔道士として。そして、ここで家族を持った者として」
カムが、そっと言葉を足した。
「サラ様はね、あんたを抱いて言ったんだよ。『この子を連れていくわけにはいかない。
でも、この子が生きる世界を、ちゃんと残しておきたい』って」
フィグは何も言えなかった。
自分の中で何度も繰り返した疑問が、音もなく崩れていく。
どうして、何も言わずに行ったのか。
どうして、自分を置いていったのか。
その答えが、少しだけ見えた気がした。
「……母様は、その“何か”と戦いに行ったのかニャ」
やっと絞り出した声は、ひどくかすれていた。
セミは、すぐには答えなかった。
代わりに、フィグの目をまっすぐ見つめる。
「確認できているのは、そこまでだ。“海の向こうへ向かった”ということと、“それっきり帰ってこない”という事実だけ」
「だから、明日の慰霊の日にはね」
カムがそっと微笑む。
「オズトロヤで倒れた仲間たちと一緒に、海の向こうへ旅立ったサラ様のことも、あたしたちは祈るのさ。『どうか、無事でいてくれますように』ってね」
フィグはきゅっと歯を食いしばった。
無事かどうかなんて、わからない。
生きているのか、もうこの世にいないのかも。
でも――
(あたしが生きてるってことは、母様が守った世界が、まだ続いてるってことニャ)
胸の奥で、何か熱いものがじわりと広がる。
「……あたし、もっと強くなるニャ」
気づけば、その言葉が口からこぼれていた。
「母様が行った海の向こうに、いつか届くくらい。あたしの拳で、ちゃんとこの世界を守れるくらい」
セミは驚いたように一瞬目を見開き、それから、静かに微笑んだ。
「その時が来たら――フィグ。きっと、サラ殿下もお前に会いたがるだろうね」
カムも、そっとフィグの背中を撫でた。
「そのためにも、まずは足下から、だよ。この森、この町、この家。今、あんたの目の前にあるものを守るところから、始めなきゃね」
「……うんニャ」
フィグは強くうなずいた。
窓の外、森を渡る風が少し強く吹いた。
揺れる木々の向こう、どこまでも続く空の先に、見えない“海の向こう”がある気がした。