水上紫雨みながみしう。
稲生いのう澄琉とおるはその名前を胸に刻んだ。目の前にいる女性は、二十代前半ぐらいだろうか。上品なデザインの麻のワンピースをスラリと着こなしているが、不安そうな表情を大きな紫色の瞳全体に浮かべて、じっとこちらを見ている。
眼鏡の奥からも分かる、その名の通り紫色に煙る瞳は、物言いたげだったが、彼女は澄琉の次の言葉を待って静かにしていた。泣いたり騒がれたりする事を予想していた澄琉は拍子抜けした。
嫌みの一つも言われるだろうと思っていたのに。
「怒らないんですか?」
思わず澄琉の方からそう尋ねると、紫雨は困ったように眉根を八の字に寄せた。
「それは……困った事になりましたけど……でも、稲生さんに怒っても、何の解決にもなりませんから……。先ほども、スライムの襲撃から守ってくれたのは本当ですし……」
そう言って、紫雨は唇をかみしめ、膝の上でぎゅっと自分の両手を握りしめた。
澄琉は、紫雨のその両手が、小刻みに震えている事に気がついた。
(ああ……)
てっきり怒られると思って緊張していた澄琉だったが、彼は、紫雨が、怒るより先に恐怖を感じている事に気がついた。
恐いのだ。
シューターのような戦闘力を持っている訳でもなければ、警察や軍隊ともごく無縁な一般庶民の紫雨にとっては、先刻のスライムとの戦闘だって生まれて初めて目撃した出来事だろう。
「本当に……すみません」
相当、恐い思いをさせていることについて、澄琉は重ねて謝っていた。何とも言えずに気まずい思いだ。自分が、疲弊してフラフラの状態で、大学に出勤などしなければ、紫雨にぶつかることもなかったのだろうが、彼には彼の事情があり、休む訳にもいかなかったのである。
「いえ! その! 謝らないで下さいっ……不注意って誰にでもあることですしっ……」
紫雨はびっくりしたように声を跳ね上げて、慌てて両手を体の前で振った。
「だけど……」
澄琉は更に、謝罪の言葉と、不安がらせないためにスライムの説明をしようとした。すると紫雨は引きつった笑顔を白い顔に浮かべて、立ち上がった。
「そ、その……、スライムと戦って、体動かして、お腹すいてますよね? 私、何か作ります。そこで、少し待っていて下さい。何か食べて、あたたまりましょう」
大学都市ククルカンの建物の内部は、どこも、空調が整っており、エアコンと空気清浄機が備わっているのだが、確かに、妙に空気が冷えているような気がする。恐らく、天候によるものだろうが。それとも、気まずさが物理的な気温のように感じられているのか。
紫雨はソファから立ち上がると、リビングから続いているキッチンの方に向かっていった。
「いえ、お構いなく……」
「ゆっくり食べながらでいいので……スライムのこととか、もう少し詳しく……教えていただければ」
「あ……はい」
緊張しているが逃げられない空気感が、いたたまれなかったのだろう。
紫雨の行動の意味がわかって、澄琉はため息をついた。それに、そんなに待たされる事もないだろうと思っていたのだ。
トラロックでは食事を摂るということは、どこでも、パックの弁当を電子レンジであたたためて出す事である。飲み物は大抵、缶かペットボトルに入っており、温めたい時はコップに移して温めるのだ。それらの弁当や飲料は全て他惑星からの輸入に頼っており、その技術は、植物や動物に溢れるばかりに恵まれている他惑星にだけ伝えられていた。
そういうわけで、澄琉は、パックの弁当を温めるために、2~3分、席を外すのだと思い込んでいた。ところが、紫雨は、キッチンの台のところに立ち止まり、どこからか取り出した、赤や緑や黄色のカラフルな小物(?)を取り出して、ナイフで切り刻み始めたのである。
「?」
それは、トラロックに移民が始まって300年は経った現在では、とてつもなく素っ頓狂な、奇行であった。そんなことをする人間を、澄琉は見た事はなかった。
危ない、女性が慣れないナイフを取り扱ったら手を切る……と思って止めようとしたら、紫雨は、信じられない曲芸レベルのスピードで、トトトトトト……と、緑の細長い小物を刻んでいる。
そして綺麗に刻んだ緑と薄緑の小物を、編み目のついた小物に移した。
「な、なんですか、それ?」
澄琉は思わず立ち上がって、危険な刃物を持っている女性の方に恐る恐る近付いていった。
恐怖のあまり、紫雨がパニックを起こしているのかと思ったのである。
「え?」
紫雨はきょとんと目を瞬いた。それから、またしても慌てて顔を真っ赤にした。
「す、すみません、私、料理が趣味で……」
「料理?」
繰り返すが、惑星トラロックでは、料理と言ったら弁当パックを温めてテーブルに持ってくる事を言う。
野菜を刻んだり、卵や肉をゆでたり炒めたりする人間はいないのだ。
紫雨は、サラダにしようと思った胡瓜をトントン切っただけなのだが、そんな人間滅多にいないので、……少なくともシューターよりも珍しい状態なので、澄琉にはパニックに陥った女性が刃物を振り回している(?)ように見えるため、取り押さえようと思って近付いてきている訳である。
「あ、はい。サラダと、何かチキンステーキと……」
「なんでそれがサラダになるんです? 落ち着いて。……あの、落ち着いてください」
澄琉が険しい顔で大股に近付いてくる。
「いえ、その……あの、これはサラダで……」
「サラダ?」
紫雨は自分が珍しい人間であることを知っているため、納得させようと、ざるで水切りしようとしていた、斜め薄切りにした胡瓜を直接、澄琉に見せた。
澄琉はぎょっとした。
……確かに、サラダによく盛られている、斜め薄切りの胡瓜だ。それがどうして、緑の小物を刻んだら出て来たのだ?
「あ、あの……私、変に見えるっていうか……変人の方に入ると思いますが……弁当のパックの中身を、作る方の、料理が出来るんです。その、農場と契約を結んで……研究材料っていうことで、植物や肉や卵を、定期的に卸して貰っているんです」
「なんで?」
いつかトラロックを、食糧で他国に依存しないような、緑の星に変えたい澄琉。
ところが彼は、その食糧がどのように変型して作られるのかをまるで知らなかったのだった。
心の底から、「なんで?」と聞いてしまう。
「さ、砂糖……」
「砂糖」
それは聞いた事がある。研究者だ、いくらなんでも聞いた事があるが、見た事はない。
「私、甘味料の研究するのに、砂糖って見た事がなかったので、農場から取り寄せて……その……」
「俺も、見た事がない。砂糖?」
「はい。これです」
紫雨は、トラロック以外の星ではどこにでもある、スプーン付きの小物入れに入れた、薄茶色のべったりした粉を澄琉に見せてみた。
「……砂糖?」
「はい。これが、砂糖です。どうぞ、これで」
紫雨は新しいスプーンを用意して、砂糖をすくいとり、澄琉の方に手渡した。澄琉はすりきりいっぱいの砂糖を渡されて、何とも言えない奇妙な表情になったが、紫雨が頷いたので、スプーンをそのまま口の中にくわえこんだ。
「……ッツ!!!!!」
激しく、甘い。
激烈に、甘い。
口の中が焼けただれるような甘さであった。
思わず咳き込みそうになって口元を抑える澄琉。
「そうなんです。私も、初めて、砂糖を見た時、どうやってこれを使うのかわからなくて、食べて見たんですけど……悶絶してしまって。それで、こんな激しい物体が、ケーキやクッキーやチョコレートのような上品な甘さになるのか、全然わからなかったんです」
「な、なるほど……」
やっとのことで、澄琉は声を出した。紫雨は親切にも、コップに水をくんでくれて、澄琉に渡してくれた。水を飲んで、澄琉はやっと落ち着く。
「それで、自分なりに調べてみて……歴史とか技術とか……ケーキやクッキーを試行錯誤して自分で作ったんです。納得いくところまでなんとか」
甘味料の研究者が納得いくまで、砂糖をいじりたおしてケーキやクッキーを作った……それは、誉められる事なのだろうが、一体どんな試行錯誤があったのだろうと澄琉は凄く気になった。
「そうしているうちに、小麦や人参や苺などの野菜や、桃やメロンなどの果物も取り寄せるようになって、最初はおやつばかり作っていたんですけど、楽しくなってきたのでごはんもつくるようになったんです。最初は、どうしても、地球にあったっていう砂糖を見てみたいだけだったんですけど、なんだか、つい……」
普通の可愛い女の子に見える紫雨だが、確かに学者なんだろう。
甘味料を作りたい研究者なら、「そもそも砂糖とはどんなものか」一目見たいと思っても無理はない。
そして、砂糖を見たら喰って見た。……まあ、わからんでもない。
その砂糖が彼女にとっては意外な味で、びっくりしたため、自力で、甘味料として使ってケーキやクッキーなどのお菓子を作っていたら、自然と、トラロックでは極めて珍しい料理上手になってしまったということらしい。
疑問点を持ったら、実験と考察を繰り返し、何回でもトライ&エラーをして、思うような結果を出す。そこだけは、それらしいと思えた。
「つい……いや、わかるけどね……」
一体、料理として何が出てくるんだろうと、こちらはこちらで恐怖を感じる澄琉であった。