金の雨 銀の雨

 墨を溶かしたように黒い雲が流れる夜、大粒の雨がククルカンの屋根をことごとく強く激しく叩いている。
 豪雨。
 激しい水飛沫を上げて車道を車が往き来し、澄琉はその自ら紫雨を庇うように車道側に立って、彼女と一緒に歩いていた。
 足を怪我している彼女を庇って歩く事30分、恐らく怪我がない状態なら15分ぐらいだろう……そこに、ククルカンにならどこにでもあるような、三階建てのアパートがあり、その二階の東の隅の角部屋。
 そこが、紫雨の部屋だった。

「あ、ありがとうございます……その……」
 自分を庇って歩いて、さすがに雨に濡れている澄琉を紫雨は見上げた。
「ん?」
「部屋に入って、温まって行ってください。お茶ぐらいなら、お出ししますので」

 スライムから自分を守ってくれた上に、家まで無事に保護してくれた事に対して、お礼をしたくなったのだろう。紫雨は、おずおずとした低姿勢で澄琉にそう申し出た。

「ああ、うん……」
 歯切れの悪い澄琉の口調。
(俺も、話したい事があったんだよな……)
 しかし、迂闊にそういう事を言えば、下心があると思って相手を傷つけ警戒させるかもしれない。
 澄琉はそう思い直し、作り笑いを浮かべた。
「いいの?」

「は、はい。このままじゃ風邪引いちゃうかもしれないし……」
「うん。ありがとう。それじゃ、お邪魔させてもらおうか」

 澄琉は辞退はしなかった。
 紫雨が部屋のパスワードキーを開けて、先に中に入った。
 いくら雨の星といっても、今夜、ククルカンに降り注ぐ雨は、近年あり得なかったほどの激しさで、家の中に入った途端に紫雨は、大きく深呼吸をしていた。文字通り、やっと一息つける。先ほどまでは、雨の中を歩いているだけで溺れそうだと思っていたのだ。
 傘を畳んで傘立てに入れる。それから、澄琉の方を振り返って、彼を玄関の中に招き入れた。

 澄琉は、モスカーキと黒の衣服だったために余計に濡れ鼠のようにぐっしょり濡れていたため、玄関に入る前に、自分の服の裾を掴んで、両手で絞って水を振り落とした。
 それぐらいに、雨に濡れていた。

「大変! 今、シャワーを準備しますね」
「え?」
「だって、そのままじゃ風邪を引いちゃいますよ。シューターの人だって、人間なんでしょう?」
「……」
 澄琉は流石に呆気に取られた。
 紫雨は適齢期の娘として、非常識な事を言っている自覚はあるのだろうか?

 それを彼が聞く前に、紫雨はアパートの部屋の中にパタパタと駆け込んでいった。
 澄琉は恐る恐るアパートの床を踏みしめた。紫雨の水滴が点々と落ちている。
 彼女自身も濡れそぼっているのだ。体をあたためたいところだろう。

 短い廊下から入ってすぐの部屋はリビングのようだった。
 若い娘らしい小綺麗で清潔な空間だが、ソファの上に自分も購読している科学雑誌が無造作に置いてある。可愛くても研究者なんだな、と妙に感慨深かった。

 紫雨は自分も首からタオルを下げながら、奥の部屋からすぐに出てきた。
 手に渋い色合いの衣類を抱えている。
「あの……これ、父の服なんですけど、サイズ合いますか? シャワーの後の、着替え」
 紫雨の言葉に澄琉はびっくりした。
「そこまでしなくていいよ」
「そういうわけにもいきません。着替え、どうするんですか。こんなに濡れて」

 強いて重ねて紫雨が風呂であたたまるように言った。澄琉はきっぱり断るのも気が引けた。実際に、鍛えているとはいえ、雨に濡れた事により体温が低くなっている事は本当だったし、明日の仕事に差し支えが出るかもしれなかった。何より、紫雨の好意を無駄にするのも気が引けた。

「わかった。だけど、あなたも濡れているし、先にシャワー浴びて下さい」
「私なら平気です」
 何を根拠にしているのか、紫雨は平然と口答えをした。

「あなたが先に、シャワーを浴びた方がいい。俺は服を乾かして待っているから」
 きっぱりとした口調で澄琉に言われ、紫雨は赤くなった。急に、この局面でそういう台詞を言う事の意味が、理解出来てきたようだった。だがもう、言ってしまった言葉は引っ込める事が出来ない。

「……はい」
 どうやら紫雨は、ずぶ濡れになった澄琉を見て慌ててしまっただけらしい。
 それは紫雨の赤くなって狼狽える様子でよくわかった。澄琉は思わず笑いそうになったが我慢した。

「わ、私……すぐにすませますね」
 紫雨はそれだけ言って、浴室のある方にパタパタと小走りに去って行った。
 澄琉は、何しろ服を絞れるほど濡れていたため、迂闊に紫雨の部屋の家具に触る事も出来ず、その場に立ち尽くす事となった。とりあえず、彼女の父親のものだという着替えに着替える事にした。確かに、濡れたままでは体に良くない。

 紫雨は浴室で熱いシャワーを浴びて冷え切った体を温めた。髪も体も軽く洗い、自分の雑念を流し去ろうとした。どうしたわけか、胸の動悸が高鳴って、澄琉のことが妙に意識されて止まらない。だが、相手は自分を守ってくれたシューターなだけだし、年上の尊敬出来る研究者だ。それだけなのだ。自分にそう言い聞かせ、何か勘違いしているように思われないように振る舞おうと思った。
 体を洗って温めた後、紫雨はざっと浴室全体にシャワーをかけ直して綺麗に洗った。

 浴室の外には、温かくて清潔な部屋着を用意してあった。紫雨はそれを着て居間に戻った。居間では、父の服に着替えた澄琉がソファに座り、濡れた衣服は部屋の隅にまとめてビニール袋に入れて部屋を汚さないようにしてくれていた。

「あ。ありがとうございます。お風呂先にいただきました。次、どうぞ」
「ああ、うん。服借りてるけど……ありがとうね」

 父の好む、群青色の上下の定番を着ている澄琉は、先ほどよりも余裕のある男らしさを感じさせていた。
 澄琉は、紫雨に促されて、彼女の部屋の浴室に進んだ。

 適温よりもやや熱いお湯をシャワーで浴びると、ほっとした。確かに、体は冷えてこわばっていたため、お湯が当たった場所からじんわりと筋肉がほぐれていくことがわかる。石けんのいい匂いのする温かい浴室で、澄琉は体が温まるまでシャワーを浴びた。
 浴室を出ると手早く髪と体を拭き、着替えをすませた。乾いた清潔な服を温まった体に身につけると、それだけで安定感と自信が蘇ってくるようだ。

 居間に戻ると、紫雨が熱いコーヒーを準備して待っていた。
 そのときになって、澄琉は、居間と続いているキッチンが、やたらに大きい事に気がついた。
 トラロックでは、普通の家庭では、キッチンには宅配パックを温める電子レンジと、お湯を沸かす設備ぐらいしかない。他の惑星で作られたインスタントや冷凍食品を、レンジで温めて、飲み物もお湯で溶かして作るのが普通だ。

(なんだろう?)
 澄琉が不思議に思うような設備がキッチンに見える。だが、紫雨はそれに気づかず、コーヒーを入れたマグカップを澄琉の座っていたソファの手前のテーブルに置いた。

「熱すぎるかもしれないけれど……どうぞ。飲んでいって下さい」
 紫雨は、恐る恐るといった様子でそう言った。何を緊張しているのだろう、と澄琉は思った。妙な事も想像した。だが、今のところそのつもりはない。同じ大学の同業者で変な噂になるのは避けたかった。
 紫雨の方はもちろん、澄琉のシューターとしての実力よりも気になる事がある。
 トラロックにおける強化植物の栽培。
 その技術をヒントでいいから知りたいのである。最初はただの善意のお礼だったが、澄琉が風呂に入っている間に、彼女の研究者としての好奇心と根性が首をもたげてきたのであった。

(ちょ、ちょっと……質問するぐらいいいわよね? せっかくなんだし……私だって、栽培に成功してみたい。一体どうやったのかしら)
 色々と薬剤や、土壌の事を考えこむ紫雨。
 腹に変な力が入っているが、目をキラキラさせながら紫雨は頬を紅潮させている。尊敬している研究者の両親も出来なかったトラロックにおける栽培。それを成功させた唯一の生き残りが目の前でコーヒーを飲んでいるのだ。

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