(おなかすいた)
会議に遅刻してしまった午前中。
紫雨は周囲に平謝りに謝った。会議は15分ほど遅れたが、そのほかは滞りなく進み、小一時間ほどで終わった。
紫雨はその後、強化紫陽花のビニールハウスで朝のルーチンワークをこなそうとしたが、何しろ挫いた足が痛い。普段よりも随分時間がかかってしまった。
しかも、寝坊した訳だから朝食を食べていない。踏んだり蹴ったりである。
そういうわけで、紫雨は、年に何回もあるような事ではないのだが、大学の食堂に向かった。
日頃、彼女は自分で弁当を作って、研究室で食べているのだが、今日ばかりは違ったのである。紫雨は、現代のトラロック人としては非常に珍しく、料理が出来るのである。
楊芳が付き添ってくれようとしたのだが、ちょうどそのとき、楊芳が教授に何かの用事で呼ばれてしまい、時間がかかりそうだったので、紫雨は傘を杖がわりに突いて、どうにかこうにか大学食堂まで来たのである。
大学食堂には、西側の壁一面に弁当パック用の自動販売機と、飲み物の自動販売機が並んでいる。弁当パックは和洋中の定番、それから日替わり弁当など、様々なものがあり、大体栄養バランスは取れているはずだった。
紫雨は、毎朝中身を取り替えられる、日替わり弁当のAランチを選び、それと飲み物はカフェオレにして、どうにかこうにか(現代で言うところの)電子レンジの方に向かった。冷凍されている弁当を解凍すると、そのまま近くのテーブルによろめきながら座る。
それがたまたま、澄琉のテーブルのごく近い位置だった。
紫雨は澄琉には気がついていない。
紫雨は物珍しげに、妙に手間取った様子で弁当のパックを開けると、中の食品をしげしげと観察した。……実際に珍しいのである。日頃、弁当を食べないから。
(えー、みんなこういうの食べているんだ。彩りが綺麗で美味しそう~~、そりゃそうよね。何百年も研究を重ねて作られているお弁当だもんね。私も同じの、作れるかしら。まず食べて見よう)
割り箸を割って、品の良いおっとりとした仕草で、紫雨は弁当を食べ始めた。その表情からいって、まずまず満足のようである。
朝から空腹だったこともあり、紫雨はゆっくりと味わいながら食事を楽しんだ。日頃は楊芳とおしゃべりをしながら食べるのだが、一人でいるため誰とも話す事などない。テーブルに出している端末を時折触って、画面を眺めながら、時間をかけて食事をしている。
周りの学生達は、広い食堂に三々五々、固まって座っており、非常に賑やかな会話をひっきりなしにしているが、紫雨の周りだけ不思議な穏やかさで静かな様子だった。
澄琉は見るともなしに、紫雨の様子を見ていた。自分でも紫雨の方だけ見ていると気がつかないぐらいだった。
澄琉も食事はすっかり終えて、弁当パックはゴミ箱に片付けた後だったのだが、食後のコーヒーを飲みながらくつろいでいた。
やがて紫雨は一人だけの静かな食事を終え、弁当のパックを片付けるために立ち上がろうとした。
(大丈夫か?)
紫雨が足を挫いている事を知っている澄琉は思わず観察してしまう。
案の定、紫雨は、パンプスの足に苦労しているらしく、やや不格好に挫いた足を庇いながら、傘を杖代わりにして、何とか離れた位置にあるゴミ箱まで歩こうとした。
そして数歩歩いたところで、足が巧く動かずに転びそうになる。
「危ない」
そのとき澄琉は、既に、紫雨のすぐ隣に回り込み、彼女が転ばないように腕を取って体を支えていた。
「えっ……あ、あのっ……」
突然の事に紫雨は戸惑っている。
そして澄琉の顔を見て、今朝の事を思い出したようだった。
「大丈夫ですか?」
澄琉も紫雨の顔をのぞき込む。
朝、気がついた通り、綺麗な娘だった。艶やかな長い黒髪はルーズに一つに束ねている。銀縁眼鏡の下からもわかる聡明そうな紫色の瞳、すっと通った鼻筋、流行のルージュに彩られた唇。健康そうなベーシックな化粧をして、身だしなみに気を遣っている様子がうかがえる。
澄琉に顔を見られ、紫雨は緊張していた。紫雨は午前中の内に、彼の噂話を楊芳から聞いていた。シューターになった理由は勿論、トラロックで一番最初に、スモークツリーの栽培に成功したチームがアメーバの襲撃にあった、その際の生き残りということも知ってしまったのである。
(凄い! 私がやりたいことの一つを、やりとげた人だって言うの!)
(う、うん……あんた、知らなかったの?)
(私その頃、まだチャクで、卒業論文書くのに必死だったの。あんまり他の学園都市の事まで、気が回らなかった)
(そ、そう……)
そうはいっても、スモークツリーの話は全然聞いた事がないわけではない。彼の研究について多くの論文もあって、目を通したものもいくつかある。だが、その際に澄琉の名前は、Thor.Iと署名されており、てっきり、西洋系の人間だと思っていたのだ。
それが同じ学園都市にいる日本系だったため、驚いたのである。
「謝らなくていいですよ。不注意だったのは俺も同じですから。それより、歩けますか?」
「ゆっくりなら歩けます。大丈夫」
作り笑いを浮かべ、澄琉から距離を置こうとする紫雨。だがそのとき、パンプスの足がまたぐらついて、体のバランスを崩しそうになった。
「……。研究室まで、送ります」
「え……でも」
「屋外は雨が激しくてびしょ濡れですよ。また転んだら大変」
澄琉は紫雨の肩を支えながらパックのゴミを取り、すぐ側のゴミ箱に捨てた。それから、紫雨の体の向きを変えさせた。
異性に密着されて紫雨は自然と赤くなる。だが、実際に、天気は豪雨だったし、食堂のある建物からは紫雨の働く研究棟は離れていて、100メートル近く歩かなければならなかった。
雨が穏やかな時なら……というよりも、足を挫いていなければ、気にしない距離なのだが。
「すみません……お願いします」
紫雨はごく素直にそう言った。楊芳がいたらよかったのにと、少しは思った。
澄琉は、紫雨を食堂から連れ出した。
自分も大きな傘を持っていた。紫雨が傘を差そうとすると止め、自分が片手で器用にジャンプ傘を差すと、紫雨の体を横から支えて、ゆっくりと歩き始めた。
紫雨は自分の方からも彼の体に捕まるしかなかった。
「研究棟はどちら?」
「中央の2棟」
「意外と距離あるね……滑らないようにゆっくり行こう」
紫雨が濡れるのは嫌だったが、何より彼女の足をこれ以上痛めてはよくない。
澄琉はそう判断して、紫雨の歩調に合わせて静かな足取りで歩き始めた。
紫雨は彼に頼る事に戸惑いながら、思わずその横顔を見つめた。
シューターと言う先入観があるからだろうか。
穏やかで優しい口調に似合わない、精悍で決断力のありそうな顔立ちをしていた。短い黒髪、濃い青の瞳。研究職なのに、黒っぽいサマーセーターに汚れの目立たないカーキのカーディガンを重ねていて、随分カジュアルな服装をしている。それもやはり、活動量の激しい戦争屋を兼業とする関係からだろう。
「? どうかした?」
紫雨の視線に気がついて、澄琉がそう尋ねた。
「いえ……稲生さんて、想像していたより若くてらっしゃるから」
「若い? ……ああ」
自分の名前を知っている事で、澄琉は、自分についての噂話が紫雨に回っている事に気がついたようだった。
「そんなことはないよ。君も、この大学で職に就いている人としては、若い方に入るんじゃない?」
「若いって言うか……私は大学出たてのペーペーですから。まだ何も出来ないし、皆のやっている事のお手伝いがやっとで」
それは謙遜ではなくそうだった。
自分のビニールハウスも持っているが、それで何か結果を出した訳ではない。今のところは、情けないが母の研究のコピーと言われても仕方がない。
「俺もそうだったよ。誰だって最初はそう。そこで甘えないで努力する事が大事」
「はい……そうですよね」
栽培を成功させたチームの人間も、澄琉も、誰だって「最初」はあったのだ。自分だってそう。寝坊して会議に遅刻して怒られている場合じゃない。紫雨は改めてそう思った。