花散らすケダモノ 光の知識 闇の智慧
鳥の声が聞こえる。
高音と低音が混ざり合い、間延びした長い声と忙しないさえずりが混ざり合う。
それに不自然さを感じ、征士はうっすらと目を開けた。
(いくら山奥とはいえ……?)
野生の鳥が、人家にここまで集まるのは珍しい。
そう思い身を起こすと、悪奴弥守の姿はなかった。気配を感じさせないまま、ベッドから出てしまったらしい。
簡単に着替えて悪奴弥守を探すと、彼は二階にいた。
(鳥……?)
金赤に輝く東の空に面したベランダに、悪奴弥守は立っていた。
そしてその異様な光景に征士は息を飲む。
彼に区別がついたのは、まずヒヨドリだった。
灰色で尾が長いその小さな鳥は、全国の林や市街地で見かける事が出来る。だから彼もそれは知っていた。
そのヒヨドリが鳥獣を司る悪奴弥守の肩に止まっている。そこまでは分かる。
そして仙台市内で何度か見かけたヤマセミ。
その白と黒のやはり小さな姿には見覚えがある。
後は征士の知らない無数の鳥が、悪奴弥守の周りに群がっていた。
アユタカ、ノビタキ、ケリ、そして近くに水田があるためか、タマシギとオオジシギ。
烏と雀も、無論いる。そしてひっきりなしに鳴いているのだから、征士が目を覚ましたのも無理はなかった。
「起きたか。」
呆然としている征士の方を、悪奴弥守は振り返った。
「ああ、おはよう。」
征士は何とか自然を取り繕う。
「うむ。」
悪奴弥守は頷いて自分のうでに降りて来た鳥の羽を撫でた。
「その鳥は?」
「この山と、山の間の田のものだ。」
「一体、何故? 米粒でも取りにきたのか?」
「そういうわけではない、単に俺がいるから来ただけだ。」
「……は?」
五年間のつきあいだが、悪奴弥守がいるからといって鳥が無差別に彼に群がっているところなど見た事がない。
「悪奴弥守が呼んだのか、鳥を?」
「いや。俺はそういう事はしたくない。」
訳がわからずに征士は首を傾げながら悪奴弥守の方へと近づいた。
開け放たれたガラス戸を通り抜け、隣に立つ。鳥は征士に怯えることもなく鳴きながら飛び交い続けている。
「したくない、という事は、出来るのか? 鳥や獣を呼び寄せたり、集めたり。」
「呼ぶのとは違うが、そういうふうにすることも出来る。」
「どういう事だ?」
全然意味が分からないという気持ちを顔に露にした征士に、悪奴弥守は苦笑した。
「俺は黙っていると犬や鳥が寄って来る体質なんだ。人間界にいた頃から。呼ぶのではなくて、逆だ。普段は気を張って鳥が寄り付かないようにしている。」
「……気付かなかった。」
悪奴弥守がずっとそうやって気を張っていたなど、思いも寄らなかった。どうやらかれが眠っている間に気が緩んだのだため、鳥が勝手に寄ってきたらしい。
「鳥がうるさいか?」
「そんなことはない。」
征士は鳥に興味を覚え、手を伸ばしかけたが、やめた。
鳥が興味があるのはあくまで悪奴弥守だし、こうした悪奴弥守の普通ではない能力を珍しがっているように取られたくなかった。
「人間界にいた頃と言ったな、悪奴弥守。」
「ああ。」
その話を二人の間でしたことはなかった。悪奴弥守がそれを避けていたし、征士はそういう事を、悪奴弥守から無理強いに聞き出すのは無礼だと思っていた。
「戦国の世で、お前は一体どんな侍だったんだ?」
率直に、征士はそう聞いた。
「俺は侍だった事はないぞ。侍は殺したが。」
「何?」
あっさりとそう答えて来た悪奴弥守に、征士は驚く。
「侍ではないのに、侍を、殺した―――?」
戦国の世における“侍”の立場がどんなものか、征士は正確には知らない。だから、それを殺す力のあるものが当時の東北にいたかどうか見当がつかなかった。
「一体、どうやって。何のために?」
「当時の俺は山神の仔と呼ばれて山を守って狩りをしていた。山神に与えられた力に溺れて目立ちすぎて、侍に目をつけられた。侍になれといわれたが、山の掟でそれは出来ない。そのうち騒動が起こって、俺は山で侍、人を殺すという禁忌を犯した。そして追われて、捕らえられて殺された。」
悪奴弥守は自分を特定されないようにあえて言葉を選んでいる。それに気付いて、征士はそこを問い詰めはしなかった。かわりに重用な点を聞く。
「そして妖邪になったのか?」
悪奴弥守は黙って頷いた。
征士には山神や山の掟の事は具体的には何も分からなかった。ただ、悪奴弥守が人間として生きた四百年前、山においては神や掟が巨大な力をふるっていただろうという事だけは漠然と理解した。
「悪奴弥守は、まだ、山を恋しいと思っているのか?」
山を恋しいと言って欲しかった。人間界への執着が、まだ悪奴弥守の中に残っているのなら、彼は長く征士の側に留まってくれるかもしれない。
「そうだな。」
そして悪奴弥守は恋しいという気持ちは肯定した。
「その山に行きたいと思わないか?」
悪奴弥守は目に力をこめて眉の間に皺を寄せた。そんな顔で、上ってくる太陽を睨む。
彼が征士の前でそんな顔をするのは初めてで、征士は戸惑った。
「悪奴弥守の故郷の山は、まだこの世にあるはずだ。」
「故郷。」
悪奴弥守は吐き捨てた。
「そんなもの、……空気を嗅げば分かるわ!」
そのわずかな言葉に入っていた悪奴弥守の激烈な負の感情は、征士を打ち据えた。
そして理解する。悪奴弥守は現代の日本に礼の戦士として生きる征士の前で、その感情を見せたくなかったのだ。だから、常にその話題を避けていたのだろう。
「悪奴弥守の生まれた山は、どこなんだ?」
征士はそれでも食い下がった。
戦国時代の自然がそのまま現代に残っているということは、いくら東北の片田舎でもありえない。だが、古代のブナの原生林がそのまま残っているといわれ一部の山地が世界遺産に指定されたのは最近の話だった。(1993白神山地)
出来たらその山が、悪奴弥守の恋しい山であって欲しいと征士は願う。
「ウソリ」
しかし悪奴弥守が言った言葉は、征士の知らない言葉だった。
「ウソリ……?」
何を思い出しているのか、悪奴弥守は眉間を寄せたまま日の出を睨んで口を噤んでいる。
「漢字でどう書くんだ?」
「知らない。」
すげなく悪奴弥守はそう言った。征士はいぶかしむ。悪奴弥守は最近の仮名交じりの文体には弱いが、大抵の文字は難なく読みこなせるし、教えればアルファベットもある程度は覚えられた。頭がいいとは言わないが、記憶力が極端に悪いわけではない。
その彼が、どうして故郷の山の名を知らないのだろう。
「……話しすぎた。」
悪奴弥守はそう言って、腕を振った。それが合図だったらしく、鳥はいっせいに空に向かって羽ばたき、思い思いの方角に飛び立っていった。
そのまま悪奴弥守は悔いるような表情で征士の隣で背を向け、二階の部屋へと入っていった。そのまま階段の方へ歩いていく。
戦国の世を見てきたわけではない征士には、その時、人々がどんな思いで生きてきたか詳しくは分からない。分かろうとする方が傲慢なのだろう。しかし妖邪界と人間界が近づくほどに人心は荒み、醜い世界だったはずだ。だがそれでも山も海も森も、今よりもはるかに豊かに、そして見事に息づいていたのだろう。
そして四百年の時が流れ、異世界から戻ってきた悪奴弥守の五感は、当時と今の自然を比べずにいられない。そして自然に対する人間の態度も。自然に向ける人の心に、悪奴弥守はとても敏感だ。だからこそ、妖邪界においては自然を司り、自然界の神霊を鎮める闇神殿の主となったのだろう。
(山を恋しく思いながらも、山へ行きたいとは思わない。)
生まれた故郷へ帰りたいと悪奴弥守は思えなくなってしまっているのだ。
それはきっと、初めて新宿の空気を嗅いだ時に。
悪奴弥守が知っていた時代からあまりにも変わり果てた現代の状況が全て征士のせいではない。だが、やはり息が詰まる。胸が、苦しい。
鳥が散っていく空はちょうど太陽が勢いよく上ってくるところだった。
遥か一千年の昔から変わらないものはそれだろうと征士は思う。
そしてそれが自分の司る力であることに気付き、征士はベランダにもたれて自嘲した。
千年変わらず悪奴弥守を愛したいと思っても、彼にはそんな寿命はない。
千年の恋は、悪奴弥守にこそある可能性だ。
朝食を取って一休みした頃、悪奴弥守の体調に変化が出た。
肘の裏一体に蕁麻疹が出て、顔が赤くなった。体温計で熱を測れば、三十七度を軽く越している。
詰問すれば、軽い腹痛と吐き気も訴えた。
「……そういえば、鳥を追い払う事が出来ていなかったな、今朝。」
征士が苦々しく言うと、悪奴弥守はまるで怒られたようにうつむいた。
それぐらい気が緩む程度に、その時点で悪奴弥守は弱っていたのだ。自分で気がつかないはずはないのに黙っていた事を、征士が怒らないはずがない。
「一体、何を食べたから具合が悪くなったかは分からないが、熱だけは下げておこう。とりあえず街に薬を買いに行ってくる。」
「……すまない。」
「分かっていると思うが、私が今、怒らないのはお前の体調が崩れているからだ。それを覚えておけ、悪奴弥守。」
怒りを押し殺しながら征士がそう言うと、悪奴弥守はうなだれた。まるで耳を垂れて尻尾を丸めている秋田犬のような闇魔将の姿に、征士は可愛いと思う反面、よけいに怒りを覚える。
何度言っても、悪奴弥守は体調が悪くなってきた時点で気づいているくせに征士にバレるまで黙っているのだ。そのため、何を食べると蕁麻疹が出るのか征士はいまだに把握しきれない。それゆえに征士は怒るのだが、悪奴弥守はどうも何が悪いのか分かっていない節がある。怒られると思ってうなだれるぐらいなら食品の危険性を早く理解して欲しいものである。
「ついでに、食糧や必要品を買ってくるが、悪奴弥守、何か欲しいものはあるか?」
「ん?」
悪奴弥守は奇妙な間を取った。
そして恐る恐る征士を見上げて言う。
「マグロ。」
「マグロ?」
何でいきなりその魚の名前が出てくるのか分からず、征士は聞き返す。
「悪奴弥守は川魚の方が好きじゃなかったか?」
「え?……あ、うん……」
「食べたいのなら買ってくるが、どういうものが欲しい?刺身か?」
「……いや、やっぱりいい。気にしないでくれ。」
そう言って悪奴弥守は征士からあからさまに目をそらした。
「?」
訳がわからないが、悪奴弥守が聞かれたくなさそうなので征士はそれ以上の追求は止めた。
「おとなしく寝ていろと言っても、起きたばかりではそれも出来まい。こっちの部屋が、父上の書斎だ。」
征士はソファとテレビのある居間の隣のドアを開けた。かび臭い匂いが放たれ、壁全面を埋める本棚とそこにぎっしり詰まった本の背表紙が見える。
「テレビに飽きたら、好きに読むといい。私も自由に読んでいい許可は得ているし、ほとんどが地元の歴史と文学だ。悪奴弥守も興味はあるだろう。」
「ほう。」
悪奴弥守は書斎の方に顔を向けた。
「お前を信用して、この書斎を開けた。……意味が分かるな、悪奴弥守。勝手にこの家から出ようなどと思わないでくれ。」
そう釘をさすと、悪奴弥守は困ったようにまた目を伏せる。
父親の書斎を赤の他人に無許可で開放するなどと、どう理屈をつけても礼儀に反する事には変わりない。
それを征士にさせているのだから、悪奴弥守もそれなりの誠意を見せなければならないだろう。
「分かった。この家からは出ない。」
案の定、律儀な悪奴弥守はそう返事をした。
「それでは、出かけてくる。」
出来たら一緒に薬局まで連れて行って、症状を見せた方がいいのだろうが、嘔吐感もある以上、自動車に乗せるわけにはいかなかった。
征士は不安を抱えたまま別荘を後にした。
そして正午を僅かに過ぎた頃。
征士が玄関から買い出してきた荷物を運び込むと、家の中から悪奴弥守の声が響いた。
「手伝う事はあるか?」
「いや、いい。悪奴弥守は休んでいてくれ。」
そう大きく返事をすると、征士は冷蔵庫に買って来た食品を詰め、グラスに水を注いで熱さましを手に居間へと戻った。
悪奴弥守の姿が見えないので、ガラステーブルに水と薬を置くと書斎へと入る。
悪奴弥守はデスクに向かって雑誌を読んでいた。
「悪奴弥守、薬を―――」
「ああ、発疹なら、一時間ぐらい前に消えたし、熱ももう下がったようだ。」
そう言って、悪奴弥守は雑誌を持ったまま椅子ごと征士を振り返った。回転式のチェアだったのである。
「!!!」
驚愕してその場に固まる征士を見て、悪奴弥守はいつもの癖で頭を右に傾ける。
「どうした光輪?」
女が強い家に入った婿であり、警官である父親の逃げ場としての別荘の書斎。
そこにあった雑誌。
そして妖邪である悪奴弥守は現代文にあまり慣れていないし、元々が男だ。
暇つぶしになら細かい現代文を読むよりは、写真が大きく取られているものの方が読みやすいに決まっているのである。で、元々が男だ。
「あ、悪奴弥守―――それは、一体……」
震える指でその雑誌の表紙を指差す征士。
よく分からないというように悪奴弥守はまた首を傾げ、何をどう判断したのか雑誌を裏返して読んでいた(眺めていた)ページを征士に向けて差し出した。
「は、はれ……ふら……あ……あぬ!」
「?」
一体、自分でも何を言おうとしているのか征士には分からなかった。
とにかく、その破廉恥で不埒な格好をしている女優を指差したまま、突き出した人差し指を上下に動かす。
「一体、どうしたんだ光輪?」
奇異なものでも見るように悪奴弥守は眉をひそめる。
彼にしてみれば、若い女の裸を見た瞬間の男の反応として征士のそれは大幅にズレがあったのである。
「な、何でそんなものを読んでいる?悪奴弥守!」
今にも脳が酸欠で壊死しそうだと思いながら征士がそう怒鳴る。
「……? そこにあったから?」
征士の激情をあからさまにいぶかしみながら悪奴弥守が聞く。
「駄目だ! そんなものを読んでは! それは悪奴弥守が読んでいいものじゃない!!」
「……え?」
「それは悪奴弥守のような男が読む本ではない!!」
悪奴弥守はやはり意味が分からなかったため、雑誌のページを自分の方へ持ち替えて写真を見直した。
「何で?」
どう見ても、それは悪奴弥守にとっては、「男しか読まない」本なのだ。
何故なら女なら嫌がるであろう本だからである。女から「そんなもん読むな」と言われたら悪奴弥守は大人しく従っただろう。そこで逆らったりすると面倒くさい事になるのは経験上知っている。そもそもその場に女がいたら悪奴弥守だって対処を選ぶ。
しかし、征士は女ではない。故に、悪奴弥守は頭の中で辻褄が合わずに写真を見直し、何か不都合があるのかとページをパラパラめくった。
「だから読むなー!!」
征士がキレて怒鳴る。
「だから、何で?」
「何故、読みたがる?!」
「見て楽しい。」
それしかないため、悪奴弥守はそう答えた。
別にタメになるとか賢くなれると思って読んでいる本ではない。
その発言に征士は痙攣を起こしながら喘ぎ、後ろに倒れそうになった。
「……光輪?」
そこで悪奴弥守は二、三度、濃紺の眼を瞬いたあと、一回、息を吐いた。
そしてさりげなさを装っていると分かる声で言った。
「まさかと思うがお前、この手の本を読んだ事がないのか?」
「あるかー!!! そんなもの私は絶対に読まない!!!」
「……………」
征士が読まないと言った。
そして読んでないらしい発言をした。
つまり、これは真実、生まれてから一回も読んだ事がないしこの先も読むつもりがないのだ。
二十歳の男がエロ本を……。
「それは、自分の手で買った事がないという意味だな? 仲間同士では借りて読んだりした事はあるんだな?」
念を押すように悪奴弥守が聞く。
「ない!」
「……………」
悪奴弥守は額を右手で押さえてうつむいた。
狐に憑かれる以前に、征士は大きな問題を抱えていて、それにも悪奴弥守は気付いていなかったという事になる。
好きな異性の問題は別にしても、征士がその方面の話題を悪奴弥守の前に出さないのは、年上の人間に対する礼儀や恥の問題だとてっきり思い込んでいた悪奴弥守だった。
「文の方はどうだ? 今の時代、書物はどこにでも溢れ返っている。絵で見るのは駄目でも、文なら生々しさが減るのではないか?」
あまり生々しいものは好まない男もいる。そこは生理的な問題だ。
「読まない! そんなものは読んだ事はない!」
「借りたりは?」
「そんないやらしい友人は私にはいない!!」
「……何?」
流石に悪奴弥守は身震いした。
「……光輪? ちょっと待て?」
「何だ悪奴弥守! 一体私がどんな男だと……」
「するとお前、……男同士で、こういう本の話や、……この手の女に関する話……したことがないのか?」
悪奴弥守が嫌な意味で驚いている事に気付いたのか、征士はためらう顔になった。
悪奴弥守は必死に冷静を取り繕いながら征士を見る。しかし、彼も内心の驚愕を押し殺しきれてはいない。手足の先にかすかな苛立ちが見えていた。
「私は、男同志でこういう事に関する話をしたことがない……。」
「……。念のために聞いておくが、今の話は全て、女じゃない方に関してもそうなんだな?」
「勿論だ。」
(そんな男にやられたのか俺は!!)
しかも二日続けて。
しかし、色々と納得する点もある悪奴弥守だった。思い当たりがある。一昨日と昨夜の思い当たる様々な点を胸の内でほっくりかえし、悪奴弥守は納得しているのに理不尽なものを感じた。
「あ、悪奴弥守は……」
もう眩暈とか貧血などの症状を起こす余地もなく、前のめりに倒れる事もせず、ただ天井を仰いで無言の悪奴弥守に、征士が緊張した声で聞いた。
「そういう本を読んだり、人と話したりするのか?」
「ああ、まあ。」
普通の人間ならもう沈黙を守るところだが、悪奴弥守はとりあえず声を出す。
「一体、何故……」
「本の方は見て楽しい。話す方は聞いて楽しい。それだけだ。」
勿論、最初のうちはそれだけ以外の意味もあったのだが、それを征士にどう説明したらいいのかと悪奴弥守はまたしても悩んだ。
「そ、その……妖邪界にもそういう本はあるのか?」
「男がいればある本だ。」
「一体、誰とそんな話を……」
「家臣とはしないな。向こうにいらん気を使わせる。やはり対等の立場の連中とする話だ。朱天とか。」
「しゅ、朱天―…?!」
「……何を仰天しているんだお前は。……ここでお前が仰天するのか?」
かなり面白い身体表現を行っている光輪の戦士を椅子から見上げ、悪奴弥守は本を膝の上において両腕を組む。
そしてわずかに首を傾げて強い視線で征士の顔を見る。
「そ、その……そうすると、朱天ということは……、な、ナナナナナナ……」
「ああ、それでか。」
征士のいわんとしている事に気付いて悪奴弥守はその事は何度か軽く頷いた。それは普通に嫌だろう。
「安心しろ、朱天は本命の女の事は予防の意味もあって口には出さない。それとな、責任職なもので信用できない女は側には置かない。そういう事だから。」
「……そういう事?」
「生身と関係ない部分での話が物凄くなるという事だ。」
征士は皆目見当がつかないらしく視線を左右にさまよわせては悪奴弥守の顔を見る。
わからなくて当たり前なのだが、何がどうわからないのか自分でわからないらしい。
「わからんのならそれでいい。無理してわかる必要は今のところは光輪にはない。」
「……あ、ああ。」
そういわれていくらか落ち着きを取り戻した征士の様子を見て、悪奴弥守は内心、大きな吐息をついた。絵・文・会話などでそういう情報を全く取り入れてないとしたら悪奴弥守の言っている意味が通じる可能性はかなり低い。現代には他にも様々な情報源はあるが、征士の様子から見ると、そういう情報を進んで取り入れているようには見えない。むしろ進んで避けて通ってきたのだろう。
十九歳最後の日まで性的情報皆無。そして二十歳で脱童貞(?)。その相手が同性の自分……。
もうほとんど諸行無常の世界に悪奴弥守の頭は逝っていた。
それこそ般若心経の一つも羯諦羯諦唱えたい気分だった。
「朱天……以外とも……その……?」
「話す。」
征士がまた面白い表情をしながら人差し指を上下に動かしたので、悪奴弥守は口を開く。
「那唖挫は、女は玄人が好きだし根っから好奇心が強くて小道具が大好きだ。螺呪羅はそういうのとは関係なく、情報収集が生きがいなもんで目についた奴はとりあえず食う。まあ、そういう話をするわけだ。」
「……話は聞いているだけなんだな?」
「は?」
「聞いているだけ……だな?悪奴弥守は?」
「そんなわけあるか!」
そこは一喝する悪奴弥守。
「そ、そそ、そうすると悪奴弥守も玄人……」
「俺は病気を持っているかもしれない女には手を出さない。」
征士がほっと胸をなでおろす。
「つまりそうでなけりゃ手を出しているという事だ。そこで安心するな光輪!何故、お前がそこで安心するんだ?!」
何故か理由はわからないが恐ろしく腹が立って悪奴弥守はそう怒鳴った。
「なっ……悪奴弥守? 悪奴弥守はすると女……」
「?」
征士の表情を見て、悪奴弥守は少し頭を横に傾ける。
征士は何も言わないが、それはどうも頭の中で様々な言葉が渦巻いて処理しきれず声になってないだけのようだった。
悪奴弥守は元々言葉ではなく身体言語の方が発達している。当然ながら征士の身体から発せられる言語的なものも読み取れた。
「……戦国時代だ。十三歳ぐらいの時に村の気に入っていた女を河原に連れ出して一緒に寝たのが最初だ。」
「河原?!」
「何かおかしいか?」
当時の寒村にそういう意味で便利な施設があるわけがないんだから屋外になってしまったのは悪奴弥守としてはしょうがないのである。しかし征士にとっては十三歳で河原というのは結構刺激的な単語だったらしい。
一旦は言葉を発する事は出来たがまた頭の中で処理しきれない数の単語が飛び交っているらしく征士は口からかすかな息を吐く。その言語を読んで悪奴弥守は言う。
「俺の時代だと早くもないし遅くもない。妖邪界に転生してからはまあ色々事情もこみいってきたし、それに四百年分の女の話をお前にしたってな……」
多分、ここは自分がそういう情報を征士に与えなければならないのだろうと悪奴弥守は思う。
しかし、そうなると四百年分の中から臨機応変にピックアップしなければならない。
それは出来ない事はないのだが悪奴弥守としては非常に難しい作業に思えた。征士のそういう意味での成長の段階が危うすぎる。
それにどうも先ほどからの征士の反応を見ると、悪奴弥守が女とあれこれという話は彼の精神に過激な刺激になっているらしい。何故、そうなるのか悪奴弥守には分からなかった。原因不明でそういう反応をされると不安がよぎるのも当然だ。
(俺の話を聞かせるとまずいのかもしれない。それに俺も四百年以上生きているから、光輪相手に話の度合いが加減できない可能性がある。俺にはなんともなくても光輪にはそうではない、という事は十分にありうるな……)
現に写真一枚とっても、悪奴弥守にとっては全く問題にすることもないレベルなのに、征士は過激な拒否反応を示している。
そして悪奴弥守は苦手なのだが沈思黙考した。
この件について征士の意見を仰ぎながら口に出していろいろ考えるというのは危険を伴うと判断したのだ。
そして直感的で本能的な悪奴弥守の考える事にひねったものや絡んだものがあるわけがない。まして場合が本能的な会話だ。
「分かった、光輪。出かけよう。」
「……え?どこへ?」
「色町。」
どうやらその四つの発音を言語として吸収するのに征士の頭では十秒以上かかったらしい。
そしてその言葉を理解した途端、口を大きく開けて大きく息を吸った。
その口を悪奴弥守が立ち上がって手でふさぐ。
「安心しろ、女なら俺が病気をもってなくて態度がいいのを選ぶから。」
ちなみに悪奴弥守はこういう自分の態度を過保護だとか無神経だとかはこれっぽっちも思っていない。
征士が口をふさがれたまま何か喚いた。
「金ならある。それに人がいる土地にそういう商売がないわけあるか。あれは女の最初の職業なんだから汎用性は高いんだ。」
まあ要するに、こうなったら荒療治しかないと思ったわけだ。悪奴弥守は。
百聞は一見にしかず。
案ずるより産むがやすし。
そういう格言を頭の中に浮かべながら、悪奴弥守は本棚に向かって雑誌を戻そうとする。
その時、揃えてはあるものの支えの弱い雑誌が横に続けざまに倒れた。悪奴弥守はそれを直すために手を本棚の奥に突っ込んで、雑誌を立て直そうとした。
一方、征士はふさがれた口を開放されたものの、灰の固まった石のようになりながら悪奴弥守を見つめていた。
最低限の情報で満たされるような生活を送って来た征士の脳内である。
よってこの程度のサザレ石並みの話題でも、彼はその石をキリマンジャロの頂上から直滑降する雪だるまにしてしまう。
まして悪奴弥守の口から出てきたものだから信憑性があるために本当にどうしようもない事になってしまった。
十三歳の悪奴弥守が河原で飢えた痴女に襲われ(ry
朱天とそういう会話の果てに生身じゃないものでいたぶられ(ry
那唖挫と玄人女の集団に小道具使われて(ry
それを螺呪羅に情報として握られて食われ(ry
……大体こんな感じである。
信憑性は雪だるまに吹っ飛ばされて消えているが相変わらず征士はそういうところに気がつかない。
そんな頭で征士は悪奴弥守の後ろ姿を呆然と見詰めていたわけである。
「ん?……なんだこれ?」
そのとき、悪奴弥守は雑誌の裏に何か不審物を見つけたらしくしきりに手を動かした。
「なんだこの紐。」
そんな事を言いながら片手でずるずるとそれを引っ張りだす。
「!!」
征士は頭の中で悲鳴というか奇声というかとにかく武士たるもの発してはならない鳴き声を力いっぱい放った。
「光輪、本の裏にこんなものが入っていたが、何だ?」
ショッキングピンクの五十センチ程度のコードに繋がれた四角いコントローラ部分と丸みを帯びた細長い先端。
そんな頭の征士の前で、悪奴弥守が「これどこに片付けるんだ」など言いながらその道具を持って立っている。
実の父親がそういう雑誌の裏にそんなもん隠していたら、息子としては色々心配すべき事や憤りがあるはずだが、もうそういう次元の問題じゃなくなってしまった。
「光輪……?」
征士の様子がよりおかしい事になったのは察知したものの、悪奴弥守はそれが今一つ理解出来ない。そして小型な上に形態が実物とかけ離れているためその道具がそういうもんだと分からなかったらしい。
征士がよくわからないし、道具もわからないし、妙な間が過ぎていく。
手持ち無沙汰なものだから、悪奴弥守はコードもって先端の方をぶんぶん振り回した。
可哀相なのは征士である。
この分かってなさ具合(馬鹿さ)が彼にとっては最大の刺激になるんだから。
二十歳前後のこの手の性格がこの状況で最大の刺激を受けたら次の行動に選択の余地はない。
勢いよく掴みかかり、全体重をかけて押し倒す。
「光輪?!」
思ってもみなかった行動に悪奴弥守はうろたえ、何とか頭をかばって受身は取ったが征士を跳ね返すには至らなかった。
そのまま征士は悪奴弥守の着ていたシャツを引き剥がそうと引っ張る。
「………ッ!」
悪奴弥守はその征士の手を掴み、その白い顔を睨み上げた。
「馬鹿者! それが礼の戦士のする事か!!」
闇魔将の威厳を持ってそう怒鳴りつけると、征士の動きは一時的に止まった。
「貴様も鎧を着る者なら親が泣くような事をするな!」
更に悪奴弥守が征士の眼を見据えながら言い切ると、彼は怯んでわずかに体を引いた。それを見ながら悪奴弥守は征士のシャツを掴む手を自分から剥がし、征士の肩を断固として強く押す。
そうやって、悪奴弥守は征士の下から這い出た。
「……あのな、光輪。色々思う事はあるかもしれないが、玄人は若い男相手にも、初手から優しく丁寧に教えてくれる技をもっているんだ。何事もそれで食っている奴というのはそれなりの礼儀作法も心得ているし知識もある。無論、意地もあるからこっちもそのつもりで行けば徹底的に仕込んでくれる。だから色町に行こうと言っている。分かるか?」
「悪奴弥守は私に好きでもない女と寝ろというのか?!」
「……その方が多分いいと思う……」
やはり色町に逝って色々習って来いとはっきり言うには至らない悪奴弥守。
「何故だ?!」
「……心配なので。」
「何を?!」
「……今後の事が。」
悪奴弥守はどうしても言葉少なく、主語と述語がはっきりしない言い方になってしまうため、征士は言葉の間を自分で埋めるしかない。
「私達の今後に一体なんの心配と不安があるのだ悪奴弥守?!」
「………むしろお前個体の心配………」
「何がどのように?!」
「……光輪が健全に発育するように?」
発育も何も二十歳ぶっちぎっちゃっているんだが、他にうまい言い方を悪奴弥守は思いつけない。
「色々勉強して教わった方がきっと光輪の身のためだと俺は思う。」
「教えてくれるのは悪奴弥守だけでいい!」
「え……」
考えてみれば論理の帰結としてそれは当然である。
言うほうとしてはそうだろう。だが、言われたほうは非常に困惑した。
さっきから悪奴弥守の脳裏では様々な気がかりがあり、その一つは非常に根源的かつ微妙な問題だった。
ある意味、最初が悪奴弥守自身でよかったという事である。
悪奴弥守は男だから。
本来なら男は女が好きなのが自然なんじゃないかという感覚は悪奴弥守にもある。だがそれはそれとして自分でよかったと思わざるを得ないのだ。
勿論、礼の戦士が女相手に殴る蹴るなど言語道断だし、それ以上の事が起こったりしたら悪奴弥守は悲憤のあまり腹を切りかねない。
それは別として気がかりがあるのだ。
(このままじゃ、光輪は初めての女の時に、場所……)
それ以上はいくら頭の中でもはっきりと言語化できなかった。
それについては悪奴弥守の肉体的構造の問題で具体的に説明できるはずがない。ここは女の手練にうまく誘導してもらって間違いが起こらないように指導鞭撻してもらうべきだろう。そういう危惧があるぐらい、征士はこの件に関して物を知らない。
そしてそういう間違いが起こった場合、男の方も大変だが、女にとっては本当に大変な迷惑だろうという事を悪奴弥守は予想した。間違いがないにしても、悪奴弥守の価値観が生まれた時代において、手練でもない女に対して男が物を知らない状態で同衾というのはなかなか厳しい。
いくら悪奴弥守がそっち方面に長けていると言っても、妖邪であり異世界に住む者が、一朝一夕で教え込める問題ではなかった。
「分からないか、悪奴弥守。私は、悪奴弥守以外の人間と体を繋ぎたいとは思わない。そして、悪奴弥守にももうそういう事はして欲しくないのだ。最初からそうだったと、私は言っている。」
思いつめた顔で、征士が言う。
熱心であり、真剣だ。そしてこの真剣さを折る事は、悪奴弥守にも出来そうもなかった。
不安要素を抱え込みながら、悪奴弥守はうつむき更に考えた。
「悪奴弥守、私が満足させられないなら、努力する。だからそういう事は言わないでくれ。」
「……分かった。努力するんだな、光輪?」
出来るかどうかは分からないが、代案はあった。
女の手練というほどではないが、征士の無茶苦茶さをある程度は矯正できるだろう。
「努力する!」
勢い込んで言う征士に悪奴弥守は向かう。
「今夜は俺が上になる。」
「……は?」
「見たり聞いたりが嫌なら実戦で覚えるしかないだろう。そして実戦相手が俺しか嫌だというのなら、俺が上になる。」
征士の顔から表情が消えた。
身体言語もなんら発せられなかった。
一体、何が起こったのかと悪奴弥守が見守る中、征士は少しずつ正気に返った。
「それはダメだ、悪奴弥守。」
「何故だ?」
「私はそれだけは認められない。そんなことがあっていいはずがない。」
怒りさえ含んだ紫の強い眼で征士が悪奴弥守の眼を射抜くように見る。
「光輪、よく考えろ。他に方法があるか? それにこういうのは元々は童愛と言ってだな、年下の方が下……」
「私はもう十分に考えている。そして結論を出している。それは誕生日言ったはずだ。私は闇を征するものでありお前は征される闇。恋され、欲されるものなのだ。つまりわかりやすく言うと悪奴弥守。」
そこで征士は一拍間を置いた。
「お前は神に定められた絶対不可侵の受けだ。」
今度は悪奴弥守があらゆる意味で言語を失う番だった。
受けという単語は知らなかったが、言葉のイメージと前後の関係から征士の言っている意味は分かった。
(やはり、マグロを買って来てもらうべきだったか……)
そんな後悔をしても、もう遅い。
そしてマグロを手に入れる方法は、多分、本棚全部を漁ったって出てこないだろう。
一応、宮城県には気仙沼漁港という場所があるものの、山形に程近い内陸と北の端っこの海辺は現実的な距離ではない。
そのため、悪奴弥守は般若心経でも唱えながら今夜も征士と一緒に寝るしかなかった。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経
(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りをもたらしたまえ)