花散らすケダモノ

 ―――自分と酒飲んで、喜んでいる。

 そこから征士の頭の中で何が行われたかの詳細は省く。

「時の流れとは不思議なものだな。まさかお前と酒を飲める時が来るとは思わなかった。違う世界に住むから、出来る事なのかもしれんな。」

 そう言いながら、悪奴弥守はまたグラスを傾けた。

 オレンジ色の液体が悪奴弥守の薄い唇の中に入っていく。

「確かに、私が悪奴弥守に追いつけたのは、違う時の流れに身を置けたからだ。」

「俺に追いつく?」

「そして追い抜く。」

 そう征士が言い放った瞬間、悪奴弥守の睫が震え、濃紺の眼が揺らぐ。

 征士は自分もグラスに口をつける。飲みやすいアルコールは喉から胃の腑に落ちていき、風呂と自身の熱で火照っていた体を一旦は冷やした。

「当麻から聞いた。魔将の肉体は、百年に一歳だけ年を取るのだろう。」

「俺も螺呪羅から聞いた。そうらしいな。」

「私は悪奴弥守の百倍の速さで生を送る。悪奴弥守と同じ肉体を持つのも一年限りだ。来年からは、もう私が年上になる。」

 ずっと考えていた事を少しずつ声に出していく。

 冷えたはずの腹が一言ずつに熱くなり、グラスを持つ手が、汗に濡れた。

「悪奴弥守の時代が、人生五十年のものだとして、悪奴弥守は恐らく後三百年は生きる。だが、私はその時にはいない。私が健康に生きて八十年の命だったとして、余命は六十年だ。差は二百四十年。二百四十年前といったら千七百四十四年。日本でなら徳川吉宗の時代だな。」

「江戸幕府の時代か。」

「知っているのか?」

 征士が聞くと、悪奴弥守は静かに頷いた。

「八代将軍が幕府の経済を立て直した時代から、田沼意次の商業政治、それから松平定信の農村に基盤を置いた改革、異人来訪、開国、幕府の崩壊、王政復古。国家元首が変わった混乱の中で西南戦争。天は人の上に人を作らずと唱えながら脱亜入欧を叫び日清戦争、そして日露戦争。そうやって時代は大正になり第一次世界大戦が起こる。そして関東大震災。電灯や電車が使われるようになったのはこの頃だ。そして激動の昭和―――」

 そこで征士はさすがに口をつぐんだ。

「たかが東洋の島国でも、戦争と名のつくものが三つ、大戦と呼ばれるのが一つ。それ以外の事件を数えたらキリがないな。それにより時代は動いて、社会も変わる。当然生きているものの活動が皆、何もかも変わる。私が死んで二百四十年後、悪奴弥守は一体何を見るのだろう。」

 本当に言いたいのは、そのとき悪奴弥守が自分の事を覚えているかどうかだった。

 ただ月に一度呼び出して、自分の真実も告げずに他愛ない会話だけを繰り返したところで、彼は忘れてしまうだろう。一度は命がけで戦いあった仲だとはいえ、悪奴弥守は妖邪界という世界をまるごと平定した戦人だ。好敵手と呼べる人物はいくらでもいただろうし、その中、光輪のセイジだからという理由で覚えていてくれるとは限らない。

「―――二百四十年前と言ったら、妖邪帝国は戦の最中だ。俺も北から南を平らげるために戦っていた。妖邪界を平定して、この世界に攻め入る基盤を作るために。」

「不思議なものだな。」

 征士は甘い酒を苦く感じながらも、飲むのを止める事が出来なかった。

 喋りすぎて喉が乾いたし、胃がその液体を欲していた。

「私もお前も、鎧を着る者である事には変わりないのに、何故こんな事が起こるのだろう。」

「世界の性質が違うからだろうな。鎧は心の力を基とする。そして妖邪界は精神と物質が半々の世界だ。物質世界である娑婆世界では、力は半減するのだろう。」

 そんな事は分かりきっていた。

「……それゆえに年を取らないというのなら、命はどうなる?」

「俺が寿命で死ぬかどうかということか?」

 あっさりと悪奴弥守はそう聞き返してきた。

「聞いてもいいのか?」

「別に構わん。それに、俺たちが死ぬかどうかは、実は誰にも分からない。」

「―――何?」

「先にも言ったように妖邪界は精神と物質が混ざり合って出来ている。物質である肉体は百年に一歳年を取っていって老化し、やがて死という停止を迎える。だが、精神はそこで停止を迎えるとは限らない。その時、何が起こるかは俺には予想が出来ない。」

 そして悪奴弥守は例の寂しげな笑みを浮かべ、グラスについた水滴を撫でた。

「死ねるかどうかも分からないのに、生きているのか。悪奴弥守は。」

「魔将だからな。」

 それはとても残酷な響きに征士には聞こえた。

 死ねるかどうか分からないまま活動し続ける事を、果たして生と呼べるのかという疑問すら沸く。

 悪奴弥守は当たり前のように「魔将」の一言を言い切った。その裏に何があるのか考えた時、征士の臓腑が煮えた。

「魔将になる前は、お前も一人の人間だったのだろう……?」

 そう言った自分の声を聞き、征士は驚く。

 恐らく酒のせいだろうが、大人びて熱をもちかすれた声だった。

 それに勇気付けられたように、征士は悪奴弥守の肘を掴む。

「光輪?」

 そこで初めて悪奴弥守は怯えたように眼を瞬いて、征士から逃げるように上半身を捩る。

「もう一度、一人の人間として生きるつもりはないのか?」

「こ、光輪、待てっ!!」

 身をもがく悪奴弥守を強引に抱き寄せてしまう。

 悪奴弥守は暴れるより先に、うろたえてしまってろくに動けないでいるようだった。

「……正気、じゃない、のかっ……?」

「正気?」

 そこで初めて征士は自分が正気なのかそうではないのか考えた。そして思わず笑ってしまった。

「私が今、正気ではないとしたら、お前の素顔を見てから正気だった事は一度もないな。」

「素顔……?」

 悪奴弥守は征士に抱きすくめられたまま、部屋の中を見回しては征士の胸を押す。しかし腕に力が入っていない。単に、やめて欲しいというジェスチャーだ。

 酒が入っていた事もあり、征士はそんな悪奴弥守の顔を両手の掌で挟み込んだ。

「?!」

 撫でる。

 撫でまわす。

 悪奴弥守の顔を、征士は上から下まで舐めるように撫でまわしまくった。

「な、何だ?!」

 訳がわからなくて悪奴弥守は抵抗も忘れて眼を何度も瞬いた。

「ずっとこうしたかった。」

「……は? 何で?」

「好きだから。」

「光輪、あの……?十字傷のついたむさくるしい男の顔が? 大丈夫かお前??」

 悪奴弥守の顔は青ざめ引きつっていた。

 酒には四百年以上、慣れ親しんでいる悪奴弥守に対し、征士が先に酔ってしまうのは当然すぎる結果なのだが、相変わらず、征士は表情にそれを出していない。

「……大好きだ。」

 ため息まじりに征士は言う。息が、熱い。

 反対に青ざめドン引きしている悪奴弥守の顔を凝視し、震える頬を舌で舐め上げた。

 

 

 

 征士の唇が悪奴弥守の頬の十字傷を丹念に這う。

 唇のあとは、尖った舌が筋に沿って舐める。

 悪奴弥守は体を硬直させてそれに耐えた。征士が狐に乗っ取られているのか、それとも酔っ払っているだけなのかは分からない。

 ただ、西洋の知らない酒の匂いが同い年の体から発せられている事は分かった。

 そして悪奴弥守の嗅覚は更に征士の独特の匂いを捉える。

(昨日と同じ……)

 あのときは焦っていて、それを嗅ぎ取っている事に自分で気付かなかったが、それは確かに男が発情している際の匂いだった。

 悪奴弥守の人間以上に発達した五感は、人のわずかな発汗の変化や緊張による体液の変化を嗅ぎ分けてしまう。それが彼の野生的なカンの鋭さに直結しているのだ。

(どうしたら……)

 征士が自分に懐いている同じ鎧を着る少年としてではなく、一匹の雄として自分を求めている事に対し、悪奴弥守は悩み惑う。

 何よりも征士が正気なのかどうか分からない事で悩んだ。

 更に、征士が正気であるにしろ、そうでないにしろ、自分はどんな暴行を働かれても征士の姿をしているモノは攻撃できない事を思い知らされていた。

 昨日の酷い暴力の事を思えば、やはり腹が鉛を押し付けられたように冷え、心が軋みを上げる。

 そうしている間に征士の手は悪奴弥守のだぼついたシャツの中に入り込んでいた。

 獣のように荒い息を吐く唇が、耳朶を噛んで、何事か囁く。

 それは征士らしい飾る事を知らない睦言だった。

 ただ単刀直入に、二十歳の愛欲を訴えてくる。

(くっ……)

 それを払いのける事の出来ない自分に、悪奴弥守は否応なしに気付かされる。

 征士が欲しいわけではない。だが、どうしても逃げ切る事が出来ないだけだ。

 逃げる事も応える事も出来ない悪奴弥守は、ただ目を閉じて全身から力を抜いた。

 そして自分の浅ましさを知る。

 化け物だろうが狐憑きだろうが相手が愛しい存在の顔をしているだけで、簡単に身をゆだねられるのは、既にそれだけの経験があり今更男に犯される事を恥じらい嫌悪する事もなくなってしまっているからだ。妖邪界における歳月は、悪奴弥守に男の欲に応じる事を徹底的に教え込んでいた。

 しかし、本来なら悪奴弥守は、気の乗らない相手とは男とも女とも寝たりはしない。

 その上で、悪奴弥守は征士に身を任せた。







 悲惨な結果はすぐに出た。

 征士は欲を達する事が出来たが、悪奴弥守は出来なかった。

 どんなに酒の力を借り、愛撫を加えても、征士を何度も受け入れても、悪奴弥守は征士に発情する事はなかった。

 征士にとって悪奴弥守は欲を感じる唯一の対象でも、悪奴弥守にとって征士こそが欲の対象になった事はない。

 だが征士が可愛い悪奴弥守は、酒と手指で征士を慰め、またともに寝台の中に入った。

 落ち込んでいる征士の頭を両腕に抱えて体温をじかに感じさせた。

 肉欲の絡む関係ではなくても、今のままで十分に自分は征士の事を思っている。

 それを言葉ではなく態度で示そうとしたのだ。

 

 征士が欲しい唯一のものは与えられないから、それ以外の全てで補填しようとするその態度を、征士は罵りはしなかった。

 悪奴弥守が妖邪界に帰ろうとせず、自分の側にいようとしてくれるのだと、そう思ったから。

 側にいてくれるなら、まだチャンスはあるはずだ。

 ずっとそばにいてくれるなら―――。



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