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花散らすケダモノ 食卓と寝台
 時計の音だけが耳に染みる、午前四時。
 征士は自分がいつのまにか眠っていた事に気付き、体を密着させている男を見る。
 大柄で寝相の悪い父親は、寝室のベッドを置ける限界まで大きなものにしていたため、二人は一緒に眠る事が出来たのだ。
 悪奴弥守は健やかな寝息を立てて、征士の腕に腕を重ねていた。
 自分と同じ寝具の中に入る事を、彼は拒まなかった。体を密着させる事も、拒まなかった。ただ、体が痛むそぶりは見せたから、征士は一緒に眠るだけにしておいた。
 眠るといっても、多分、悪奴弥守といたら眠る事など出来ないと思っていた。実際、時計の音を聞きながら、二時まで過ごしていた。
 しかし枕元のデジタルを見ると、彼は二時間ほど浅い眠りについていたらしい。
 征士はそれを惜しんだ。
 悪奴弥守の呼吸にだけ聞き耳をすましていると、神経が研ぎ澄まされていき、その心音さえ聞こえてきそうだった。
 相手の存在を耳と手でしっかりと確かめられる幸福感と同じ重さの不安が、征士の中に生まれていた。
 ゆっくりと寝室が明るくなっていく、
 爽やかな初夏の朝が、始まる。



 午前五時。征士の起床時間だ。
 征士は習慣で起き上がると、まず自分が着替えた。
 寝室に備え付けの洋服箪笥の中にある、父親の衣装の中で悪奴弥守に着せても良いと思うものを選ぶ。
 自分でやった事だが、引きちぎってしまった服を着せるわけにはいかない。
 男なら誰でも着るような夏物のシャツなどを畳んで悪奴弥守の枕元においても、普段は気配に誰よりも敏感なはずの彼は、熟睡したままだった。
 その黒い前髪を撫でてみると、微かに睫が震えたが、声を立てる事もなかった。
 瞼に唇を近づけて、征士はこらえる。
 珍しく深い眠りに落ちている悪奴弥守を起こしたくなかった。第一、そのまま皮膚が触れたらまた歯止めがきかなくなりそうだ。
 寝室を出て、台所の大きなテーブルに向かい、そこに備え付けてあったメモ帳と小さな鉛筆を取る。
“朝食の買い物をしてくる”
 一筆残して、征士は別荘を後にした。
 
 
 
 山間の別荘は、近くのコンビニに行くのにも自動車を使う。
 朝の修行の代わりに徒歩にするべきかと思ったが、悪奴弥守がいつ起きるか分からないために時間を短縮する事を選んだ。
 白々とした早朝の光の中、コンビニは更に白けた明かりを放っている。
 自動車から降りると、店の前を掃いていた大学生らしきバイトが眠そうな声で挨拶の声をかけてきた。
 それに会釈を返し、征士は自動ドアをくぐった。
 店内には征士以外に客の姿は見えない。
 陳列はチェーン店の並びを参考にしている事は分かったが、個人経営であるらしく地場生産や民芸品のコーナーが大きく取られていた。
 征士はそこに向かう。
 五年のつきあいで分かっていたが、元が戦国時代の人間である悪奴弥守に現代の食事は合わないらしいのだ。
 一度、知らずに添加物を多く含んだ食品を食べさせた直後、腕と首に鮮やかな湿疹が広がった事がある。
 悪奴弥守は何も言わなかったが、征士はその見るからに辛そうな水疱を今でも覚えている。そのとき悪奴弥守の様子からいって、首という目立つ部分に湿疹が出なかったら、征士に知らせず黙っていただろう事は分かった。それ以前も見えないところで現代の食物に対する拒否反応はあったかもしれない。
一応、そういう激しい反応のある食品はチェックして、手に取らせないようにしているが、本人はあまり気にせず口に入れてしまう。そもそも、妖邪の悪奴弥守にカタカナの添加物や化学調味料の名前を覚えて理解しろという方が無理難題だ。
 一度、説明したところ
「何で、店で売っている食べ物にわざと毒が入れられている?」
 というトンチンカンな返事をされてしまった。
そうなると征士の方が気をつけるしかない。
 近くの農家から直接、卸しているらしい野菜を選びながら、征士は考えこんだ。
 悪奴弥守が現代で生きようと思ったら、“食べる”という生活の基本で既に問題を抱えているのだ。
 慎重に食糧を選んで、征士はカゴを会計へ持っていく。
 それでも、悪奴弥守には食べてもらわなければならない。
 人間は食べなければ生きていけないように出来ている。
 
 
 
「悪奴弥守、朝食の用意が出来たぞ。」
 その声が、深淵の眠りについていた悪奴弥守の意識を揺さぶった。
(………?!)
 何が起こったのかわからず、悪奴弥守はまたそのまま回復の為の睡眠を取ろうと意識を沈ませる。
「起きてくれ、悪奴弥守。」
 しかしたったそれだけの声で、沈んだ意識はみるみるうちに浮上した。
 更に肩に人の手が置かれる。その触感に反応し、悪奴弥守は眼を開く。
 青くぼやけた視界に、征士の顔が見えた。
「……光輪?」
 戸惑いながら、悪奴弥守は眼を擦った。眼球の周りから涙が滲み出て目尻にこびりつく。
 征士は別に声を荒げたわけではない。そして、肩を乱暴にゆすぶったわけでもない。
 それは悪奴弥守にとって違和感があった。だが、その事について考えようとした途端、脳の奥が激しく痛んだ。
 昨日、脳震盪を起こした名残である。
 それを思い出し、悪奴弥守は全身に“気”を巡らせる。征士に抉られた皮膚などの傷を確かめるためだ。
 治癒は半分程度、成功していた。
「青菜は皆、好きだったな?」
「……うむ。」
 まだ頭がふらつくため、額を片手で抑えながら悪奴弥守は何とか上半身を起こした。
 頭の中にどんよりとした眠気があって、体も鉛のように重い。
「茶は、煎茶でいいか?」
「それでいい。」
 言葉というよりも音に自動的に反応して答える。その後、起きようとして征士の用意しておいた洋服を手で踏んだ。
「これは?」
「父上のものだ。多分、サイズは合うと思う。」
「分かった。」
 礼を言おうにも悪奴弥守の服を破いたのは征士であるため、そんな言い方しか出来ない。
 昨日の暴行の事は、覚えていた。頭は重く、視界は青い霞がかかったままだったが、一度眠りについたぐらいでで忘れられる事ではない。
 それでも悪奴弥守は征士の用意した服を着た。
 ふらつく足取りで、しきりに眼をこすりながら、悪奴弥守は征士の後をついて台所に向かった。
 組み木風にデザインされた明るい茶色の天板のテーブルに同色の椅子が四つついている。
 そのうち一つの椅子の前に既に朝食が用意されていた。
 米飯と野菜の煮付けと味噌汁と卵。
 それを見たとたんに、征士の腹への攻撃を思い出し、腹部に鈍痛が蘇った。
 頭痛と腹痛に苛まれながら悪奴弥守は席につき、白い飯の前で手を合わせる。
 食うに困る時代を生きた彼には、出された飯を拒むという発想自体がない。それこそ米は八十八の手間をかけて取れるものであり、野菜は百姓(おおみたから)の血と涙の果てに取れるものなのである。卵は、ひたすら高価だ。
 その感覚があるために、蕁麻疹が出るようなモノでも口に入れてしまうのである。
 箸を構えて黙々と米を食う。舌が麻痺したように、何の味もしなかった。
「体の調子はどうだ?」
 征士が聞いた。
「……ん。」
「熱が出たり、体が痒くなったりしたらすぐに言ってくれ。」
「……ん。」
 征士の言葉を脳に認識する前に耳の神経へ流しながら、悪奴弥守は口を動かして栄養を腹に送る。
「醤油は流し台の下にあったものを使ったのだが……」
「……ん?光輪?」
 不意に、悪奴弥守は箸を止めた。
「何だ?」
「お前は何故、食べないのだ?」
 寝ぼけていたため、それまで気付かなかったのである。
「悪いが、ほとんど食欲がない。」
「……何で? 腹でも痛いのか?」
「いや、心身ともに、不調は感じられない。ただ、食欲が沸かないだけだ。」
「………」
 要するに、征士は非常に舞い上がった状態で、脳から天然覚醒剤が分泌されまくっているため、食欲その他がおかしくなってしまっているのだ。
 しかし、悪奴弥守には当然ながらそれは奇異な言動として目に映る。
 征士が舞い上がっているなら舞い上がっているらしい様子を見せればいいのだが、彼は礼儀正しい武士らしい態度を崩そうとはしていなかった。よくよく見れば耳の辺りからウキウキワクワク等の擬音が見られたかもしれないが、寝ぼけている悪奴弥守にはそれは分からない。
見るからにウキウキワクワクしている征士というのもかなり恐ろしい光景ではあるが。
(やはり、狐……? 油揚げならすぐに手に入るだろうか……?)
 そう思ったとたんに、ずん、と頭が重くなる。
 こういう場合、無理に食事を取らせ、言う事を聞かせようとするとまた妄想が始まって暴れる場合がある。経験上、それを考慮し、悪奴弥守はまず自分の体力回復に専念する事に決めた。
「悪奴弥守? 顔色が悪いぞ?」
「……ん。食い終わったら、少し休む。」
 そう言って、悪奴弥守はひたすら箸を動かした。
 
 
 
 以前、悪奴弥守が手負いのまま、征士に呼ばれただけで人間界に降りた事がある。
 その際も、彼は「寝ていれば治る」といっていたのだが、その説明は省いていた。
 よって、征士は悪奴弥守が寝たがるのを「非常に具合が悪い」と判断した。それにしたって、自力で食事が取れるのだから、彼はまだまだ元気な方である。
 悪奴弥守以外の人間がこういう行動を取ったのなら征士はそう判断し、寝室から出てそっとしておくことを選んだだろう。
 しかし、彼は悪奴弥守の寝ているベッドにぴったり張り付いた。
 小型のビニール貼りの椅子を持ってきて熟睡している悪奴弥守の脇にくっつく事一時間。
 悪奴弥守は死んだように眠り続けていた。
 動くのは呼吸器官である鼻と口、後は上下する胸ぐらいだった。瞼も睫も震えない、わずかの動きも見えない眠り方に、征士は次第に不安になってきた。
 礼の戦士として戦った経験があり、剣道もずっと続けていた征士には、脳震盪の危険性は重々承知している。
 頭を打ってわずかでも気を失ったのなら病院に連れて行くように指導も受けていた。
 だが、悪奴弥守は妖邪である。保険証をもたず、身分を証明するものは何も持っていない。体の仕組みも人間と違っている可能性があった。
 身元不明だからと悪奴弥守がいらない詮索をされたり、警察を呼ばれたりする事は避けたい。更に、体の事までいじりまわされてしまうのは征士の本意ではない。
 かといって、悪奴弥守が頭を打った事が原因で、脳や体に障害を負う事になったらどうしよう。
 場合によっては打ち所が悪かったため息を引き取るとか……。
「悪奴弥守!」
 そう思った途端、征士は寝ている悪奴弥守の肩を掴んで激しく揺さぶった。
「?!」
 驚いた悪奴弥守が眼を見開く。
「悪奴弥守! しっかりしろ、大丈夫か?!」
「……何だ、光輪……?」
 無理に起こされ、訳がわからないもので、悪奴弥守は掠れた声でそう聞いた。
「大丈夫か?」
「何が?」
 何と聞かれて、征士はためらう。
 悪奴弥守が脳震盪のために身体が危ないとして、脳震盪を起こさせたのは自分である事を思い出したのだ。
「?」
 言葉に詰まる征士を見て、悪奴弥守はその金髪頭に手を伸ばし、ぽんぽんと叩いた。
「何か恐い事でもあったのか?」
 寝ぼけているのと相手が狐憑きであるという思い込みから出る言動である。
「……悪奴弥守がいなくなってしまうのではないかと……」
「ああ。」
 悪奴弥守は重々しく頷いた。妄想が始まったと判断したのだ。
「それなら大丈夫だ、光輪。俺は、寝れば全ての傷を回復出来る体質だから。」
「……え?」
「体の事を迂闊に話す訳にはいかないので、黙っていたが、闇の安息と獣の生命力を組み合わせた力でな、俺は眠りで傷を全快する事が出来る。そのかわり全快するまで眼が覚めないので、滅多にそういう寝方はしない。」
 自分の体の情報をベラベラ喋るようでは、魔将が勤まるはずがない。
 特に、悪奴弥守の場合、そうやって故意に眠ってしまったら自分の意志で起きられないのだ。それをいくら相手が征士でも話しておくはずがなかった。
「……それはつまり……」
「どうやらお前は、俺のこの手の力を無効化するらしいな。今まで“眠ろう”として眠った俺を起こした奴はなかった。だが、傷を回復したいので、起こさないでくれ。」
 征士の妄想を鎮めるためもあったが、悪奴弥守としてはそれが最大の理由だった。
 薬師の那唖挫でないとはいえ、悪奴弥守も頭を打った際の危険性の事は分かっているのだ。今、きっちり“眠り”について脳に加えられた打撃を治しておかなければ何が起こるか分からない。
現在は何の異常もないように見えても、一ヶ月ほど後から慢性硬膜下血腫などの障碍が見られるケースもあるのだ。
「でも私は悪奴弥守の傷を見た事がある。」
「……何?」
「口で吸われた痕を、何度も見た事がある。」
「……そんなものは俺が傷だと思っていないんだから治るはずがない。」
 そう言って、悪奴弥守はまた瞼を何度も擦った。
 寝ぼけているし、体が眠る事を欲求しているのだ。相手が征士で、狐憑きの患者じゃなければとっくに怒鳴って寝室から蹴りだしている。
「だが悪奴弥守、私は何か出来ないだろうか?」
「あ?」
「私がお前に出来る事はなんだ?」
 悪奴弥守は眼をこするのを止めて征士の顔を見て、考え込むように眉根を寄せた後、片手で薄い布団を中から持ち上げた。
「一緒に寝るか?」
 ―――所詮、悪奴弥守にとっては肉体はともかく、征士は自分が四百二十三歳の時に生まれた人間なのである。
 四百二十三歳の中には、七十歳が六個含まれる。
 結果的に肉体が二十歳という成人男子であっても“子供が不安がっていたら一緒に寝てやれ”的な発想が働いてしまうのだ。
 無論、相手にもよる。悪奴弥守が自然にこういう行動を取るようになったのは当然ながらある人物が関与しているのだが、征士にはそうした事情がわからない。
 そして悪奴弥守に「一緒に寝よう」と言われて断る理由が彼の中にあるだろうか。
 あるはずがない。
 征士はベルトを外して悪奴弥守の隣にもぐりこんだ。
 悪奴弥守は眼を閉じて、即座に深沈の眠りに落ちる。
 そして征士は眼が冴えた。
 脳内の天然覚醒剤が恐ろしい勢いで放出され、とてもじゃないが寝るどころじゃない。
 昨日、あれだけの暴行を加えられておいて余裕で寝ている悪奴弥守もアレだが、征士も十分にソレな状態になってしまった。
 それでも、征士は耐えた。
 先に悪奴弥守に事情を話されて“起こすな”と言い含められている分は、耐えようとした。
 悪奴弥守の特殊能力と妖邪の魔将としての立場から考えて、そんな秘密を自分に話してくれるという事は全幅の信頼を受けたと征士は思ったのだ。
(悪奴弥守がそうやって眠っている場合は、本当に無防備になるという事だ。つまり、私が今、悪奴弥守の寝首を掻こうとしたら、いくら気配に鋭い悪奴弥守でもどうしようもないという事。将たる者がそんな秘密をあえて私に話してくれるとは……もう、私に命を預けてくれたと言っても過言ではない。)
 悪奴弥守の様子からいって相当に寝ぼけているという事にはあえて気付かないのが恋する天然覚醒剤の威力である。
 そして覚醒作用はガンガン強まっていった。
 覚醒剤により思考が特化され特化された思考により覚醒剤がより分泌される。
(……傷の回復力が高まるというのはどういうものなのだろう。本当にそういう事があるのか?いくら妖邪とはいえ、そんな都合のいい……確かにあの戦いで、悪奴弥守は相当な手傷を負わされても、すぐに全快して現れた事があるが……)
 そういう疑問は勿論ある。
(別に、見たいわけじゃないんだ。私は心配なだけなんだ。昨日の痕が見たいわけではなくてそうではなくて、私は悪奴弥守に命を預けられたんだから、こうした場合、悪奴弥守の体を心配し思いやるのは当然の事。私の義務であり責任なんだ。そうなんだ。見たいだけとかそういう事は絶対にない。)
 燗つけたユンケルを一気飲みした直後のように元気極まりない心身をもてあましつつ、征士はそっと身を起こす。
 それでも悪奴弥守は規則正しい寝息を立てながら、枕に半分顔を埋めて眠り込んでいた。
(私が起こそうとしない限り、悪奴弥守は起きない。そうしている間に、怪我が治るスピードが格段に速まる。それは確かに、どういう事なのか見ておきたい。確実に、脳への損傷が治るものなのか、この眼で確かめる事が出来る。途中で起こしたら、回復力が弱まるかもしれないな。)
 そんな事を思いながら、征士は慎重に悪奴弥守の着ていたシャツのボタンを外し始めた。
 そうした場合、普通なら頭が寝ていてもオートコマンドで鉄拳を繰り出す悪奴弥守だが、故意の眠りから醒める事なく征士の前に肌を曝した。
 征士がかきむしってつけた傷跡は、悪奴弥守の言ったとおりふさがっていた。点々と残る鬱血のほかに、鮮やかな桃色の蚯蚓腫れがあるだけだ。
 瑞々しい活力を感じさせる褐色の上に走る、自分の暴行の痕のピンク。
 征士はその色を固唾を飲んで凝視した。
 深い寝息の度に、悪奴弥守の胸が上下する。手を当てると温かい鼓動が聞こえた。
 それにより、征士の鼓動は破竹の勢いで高鳴った。
(爪でつけた傷が治ったのなら、他の傷も治ったのだろうか?)
 まあ純粋にそうした疑問もあるだろう。
 しかし、彼は視覚に対する刺激を全く求めてないといったら嘘だろう。
(見たい。見て、確かめたい。悪奴弥守の命を守るためだ。)
 確かに、命を守るための行動かもしれないが、他の色々なものに関しては守るというよりも攻めるための行動を取ろうとしている事に征士は注意深く気付かなかった。
 要するにシャツだけではなく他のものも脱がした。全部。
 全快のための眠りは正に深沈、それでも人一倍気配に鋭い悪奴弥守が目覚める事はなかった。
 それでも征士は息を殺し、心音の高鳴りさえも殺す勢いで、気配を殺した。
 そしてあお向けに寝ている悪奴弥守の体を折り曲げる。
 両足を持ち上げて膝を胸に押し付けるようにして、自分が傷を負わせた下の方の具合を確かめようとした。
 カーテンを締め切った寝室は暗く、特にその部分は翳りがこくて、征士の眼にははっきりと確認が取れない。
 それで、征士は悪奴弥守の腰を持ち上げようと手を移動させる。
「……光輪。」
 そのとき、疲れきって掠れた声が聞こえた。
 征士は思わず手を引っ込め電気でも流されたように体をビクつかせる。命を守るためとはいえ罪の意識はあったのだろう。
「……起こすなって言ったのに……」
 やはりここまでされれば、征士が起こそうと思っていなくても、悪奴弥守は覚醒してしまうらしい。色々なものに関する攻めに対する防御本能だ。
 征士は何も言えずに悪奴弥守の様子を窺う。
 悪奴弥守は口の中で何かごにょごにょ言った。本来の“眠る”という意志とその力が強くて思考がまともに働いていない。
 よって彼らしい怒りの爆発はなかった。
 悪奴弥守はとろとろと何度も眼を閉じては開けて、上半身を起こした。
「あ、悪奴弥守……」
 そう呼びかけられ、悪奴弥守は征士の方に何度も縦に手を振った。
 こっち来い、こっち来い。
 そういう合図を示したのだ。
 こんな場合、つい相手の言う事を聞いてしまうのは何故なのだろう。どんな痛い目に合わされるか分からないのに、征士は悪奴弥守の指示に従った。
 悪奴弥守の方に頭と顔を差し出したのだ。
 その征士の頬に悪奴弥守の手が触れる。
 そしてしっかり征士の顔を支えて、悪奴弥守はその唇にくちづけた。
「?!!」
 どんな厳罰が下るかと恐怖していた征士だが、全く予想外の行動を取られて全身が固まる。
 そして次の瞬間、全身が鉛になったような異常な感覚が訪れた。
 礼の戦士として咄嗟に“気”でその重い感覚を撥ね退けようとしたが、それすらも出来ない。
 暗黒と安息の力が征士の唇から全身に駆け巡り、彼の意識は瞬く間に墜落した。
「……寝たな。」
 自分の体の上に倒れこんできた金髪を見て、悪奴弥守はそう呟く。
 そしてベッドから蹴り出す事もなく、まだ回復しきっていない両腕で征士の体を持ち上げ自分の枕の隣にその同い年の肉体を横たえた。
 そして掛け布団を持ち上げ、自分と征士に平等にかけて自分も健やかな眠りについた。
 頭を打っている上に、寝ぼけているとはいえ、裏切られ強姦された人間が取る行動ではない。
 征士が勘違いして舞い上がるのも無理はないだろう。
 光輪のセイジが積年の思いを遂げた誕生日の翌日、彼の恋愛感情はまだ外周を回りつづけているのだが、本人としては悪奴弥守の心の内周を爆走しているつもりだった。




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