花散らすケダモノ

花散らすケダモノ 痕
 何度目かに、征士が放った。
もう数えていない。一回だったのか十回だったのか、最早どうでもいい。
 全身、汗とも唾液とも、白い液体ともつかないものに塗れている。
 泣き喚くのにも疲れた。
(まるで、便器のようだ…)
 抵抗することも出来ず、意志を完璧に無視され、ただ汚れた液体をかけられる。
 唇を噛むと、血の味がした。
(口が切れていたのだったな。)
 悪奴弥守はのろのろと右手で口の周りを拭った。
 もう何とも分からない液体の匂いに顔をしかめ、不意に何度も咳き込んだ。
 そのために、吐き気がこみあがってきて、悪奴弥守は顔を歪めた。
 こんな場面で嘔吐するなど、最悪だ。
 尤も、征士に瓜二つの化け物にこんな扱いを受ける時点で充分過ぎるほど最悪なのだが。
(何とか…逃げ切れないものか……)
 
 その苦しそうな悪奴弥守の様子に、征士は不快感を覚えた。
 妄想の中での悪奴弥守は、最初は激しく抵抗し、泣きじゃくるが、やがて征士に答え始め、最後には自分から受け入れる。
 そんなことは普通に考えればありえないのだが、もう、現実と妄想の境目がなくなってしまっている征士には、悪奴弥守が自分に全く反応しない事が不満だった。
 手を伸ばし、指先で悪奴弥守の体のあちこちに残る鬱血を辿ってみる。
 悪奴弥守は嫌がるように体をすくめるだけで何も言わない。
 昨夜、一体、誰に抱かれ、どんなふうに乱れたのだろう。
 それを思うと、体の奥にまた火がともる。
 首筋、胸、腹、わき腹、もう体中全体に残る痕。
 手首を引っ張って腕を上げさせると、案の定、裏側に強く吸った痕があった。
 そこを軽く爪で引っかいてみる。
 悪奴弥守は、痛そうな顔をして手を振り払おうとした。
 その腕を広げさせ、横に倒れていた悪奴弥守を仰向けにさせる。
 悪奴弥守は征士の顔を一瞥し、すぐに顔を背けた。
「私を見ろ、悪奴弥守。」
 その顎を掴んで、無理に自分の方を向かせる。
 悪奴弥守は濃紺の眼を強く閉じて見せた。
「私を、感じろ。」
 もう喚く力も残されていないくせに、頑なに拒否しようとする悪奴弥守の姿が、征士をどこまでも煽り続ける。
 たどたどしく濡れた褐色の肌をまさぐる指先。
 しかし、悪奴弥守は微動すらしない。
 征士の指はゆっくりと痕を探り続け、太腿の裏側まで達した。
(こんなところにも…)
 その男が誰なのかは分からない。
 だが、強姦ならば、こんなあちこちに所有の印を残す余裕などないだろう。
 縛るか、拘束したにしては、手首や足首に擦れた跡がない。
 悪奴弥守が自分の意志でその男に抱かれたということだ。
(あの男の前では…)
 脳裏をよぎるのは、悪奴弥守の涙を拭うあの白い手の指先。
 苛立ちを感じ、征士は悪奴弥守の足を広げさせる。
「き、貴様、まだ……!」
 悪奴弥守が引きつった声を上げた。
「化け物!」
 罵る声にはわずかに恐怖が混じっている。
 構わずに、もう血と精液ですっかりぐずぐずになっている部分に、己を突き立てる。
「くっ、う……。」
 何とか己を拒もうとする内壁の動き。
 それを力ずくで破り、切り裂いていく征士の侵入。
 辛そうな声を立てて、悪奴弥守は背筋を反らす。
「早く…抜け……っ。」
「抜かない。」
「抜け……化け物……ッ。」
「悪奴弥守の中は熱くて狭くて気持ちいいから。それなのに悪奴弥守は鈍感で無神経で、私の気持ちをわかろうとしたこともないから。だから抜かない。」
「いいから、抜け!」
 苦痛と屈辱に喘ぎながら、悪奴弥守が叫ぶように言う。
 その声はもうすっかりかすれきって、聞いているだけで悲痛な思いを誘われる。
 だが、征士は悪奴弥守の悲鳴には耳も貸さずに、奥へ、奥へと抉りながら体を進める。
「私がずっと、何を思っていたか、何をしたかったか、お前は考えた事があるか、悪奴弥守。私は生殺しにされていた。これから私は生き返る。」
「化け物……化け物!」
 悪奴弥守の脚を更に大きく割り広げ、自分を奥深くまで突き入れる。
 滴る血の匂い。切れ切れに聞こえる悪奴弥守の罵言。
 抱き寄せようとした征士の腕を、悪奴弥守の手が邪険に振り払う。
 その腕の裏につけられた、赤紫の鬱血が、征士の網膜に焼き付いた。
 征士は、その鬱血に爪を立て、抉り取るように引っかいた。
「!!」
 痛みと驚愕に、悪奴弥守の体が一瞬、跳ね上がる。
 その一箇所だけではなく、征士は目に入ってきた鬱血一つ一つを、悪奴弥守の皮膚から爪で抉り始めた。
「な、何……何をする!?」
 征士は目障りな鬱血を見つけ出しては爪で引き裂く。
「何故か、分からないのか、悪奴弥守。」
「い、いた…あっ。」
 征士の爪は皮膚どころか肉まで抉り出しそうな勢いだった。
「暴れるな。余計痛くなるぞ。」
「やめろ。何が、目的で。」
「本当に、何故か分からないのか。悪奴弥守には、私が今どんな思いをしているか、分からないのか。」
 とりあえず、悪奴弥守に分かったのは、征士に瓜二つの化け物が、突っ込んだまま自分の皮膚のあちこちを血が出るまでかきむしってくるということだった。
 征士は的確に昨夜螺呪羅のつけた鬱血だけを狙っているのだが、暴行を受けている真っ最中の悪奴弥守にそんなことが分かるはずもない。
 行為の最中に盛り上がって相手の背中などに爪を立てる、という経験は悪奴弥守もしたこともされたこともあるが、それとは全く違う。
 こんなことは、されたことがない。
「痛い、やめろ!痛い!!」
 恐怖のあまり、乾いたはずの涙がまたこぼれてくる。
 それも無視して、無表情のまま、悪奴弥守の全身を抉るようにかきむしり続ける征士。
「や…めて、く、……れ……。」
 途切れ途切れに、悪奴弥守がそう声を絞り出す。
 征士はかきむしる手を止め、悪奴弥守を見下ろす。
 そして、嗚咽を上げる悪奴弥守の前で、征士は自分の爪から指までこびりついた悪奴弥守の血を舐めた。
 冷ややかな無表情のまま。
 悪奴弥守は息を止め、征士のその人形めいて美しい顔を見る。
(狂っている……)
 頭の狂った化け物に、自分は更に陵辱され、なぶり者にされ続けるのだろうか。
 漠然とだが、悪奴弥守は相手を色欲に迷った亡者の類と思っていた。
 自分の“気”さえ通用しないほど色に妄執する霊が具現化したのかと。
 化け物の行動がほとんど色欲に限定されているのだから、悪奴弥守がそう判断するのも無理はない。
大概、その類は自分の欲望さえ叶えられれば自動的に消え失せる。
 だから、悪奴弥守はこの暴行をいつか終わりがあるものだと思っていたのだ。
(違う…こやつ……俺を痛めつける事だけが、目的だ……)
 
 視界に入る鬱血を全部抉り取ると、征士は悪奴弥守の頬にその血をなすりつけた。
 乾いた白濁と、新たな涙に濡れた悪奴弥守の顔に、べっとりと赤い液体がこびりつく。
 頬のみならず、悪奴弥守の上半身は征士の爪によって抉られ、もう血まみれだ。
顔に血を塗りつけられて悪奴弥守は微かに震えたが、罵言を飛ばしたりはしなかった。
 悪奴弥守の左脚を抱え上げ、左肩に押し付けるようにする。
 それでも悪奴弥守は何も言わない。
 征士はそのまま彼の腰を浮かせるようにして、止めていた律動を再開した。
 浅く、深く、深く、浅く。
 肉を抉るように、悪奴弥守の記憶をかき消すように。
次第に、無反応だった悪奴弥守の息が上がり始めた。
 それに気をよくし、征士は律動を早めていく。
 血の匂い、汗の匂い、男の匂い、それに混じりあう、二人の吐息。
 やがて、征士は気付いた。
 悪奴弥守が、微かに自分を呼んでいる事に。
「こう……りん……。」
 それは至近距離にいる征士にも、聞こえるか聞こえないかというぐらい低く、かすれきった声だった。
「光輪……光輪……。」
 自分に貫かれたまま、悪奴弥守が自分の名を呼ぶ。
 それをもっと聞きたくて、征士は悪奴弥守の脚を外し、体を近づける。
「俺は……ここだ……早く……光輪………。」
 すすり泣きながら、悪奴弥守は<光輪>の名を呼んでいた。
 
 宝珠から送られてきた、光輪の“気”は本物だった。
 どこですれ違ったかは分からないが、光輪は確かに今日、自分と会っている。
 自分を見失った光輪は、必死に悪奴弥守を探しているに違いない。
 本物の光輪ならば、自分がこんな仕打ちを受けているのを見たら、即座に武装し化け物を叩き斬るだろう。
 自分が今日された事も何も言わずに黙っていてくれて、墓場まで持っていくに違いない。
 そしてそっと妖邪界へ返してくれるはず―――。
 それが悪奴弥守の思考回路だった。
 
 征士の頭が熱くなる。
 悪奴弥守はどこまでも、眼前にいる真の征士を無視して、自分の鋳型にはめ込んだ<光輪>ばかりを追いかける。
 何度、自分が征士だとはっきりと告げても、悪奴弥守は「化け物」と呼び、認めようとしない。
(そんなに、私に抱かれたくないのか!)
 白い手の男の痕跡を消しとっても、他の男に抱かれた事に罰を与えても、これではまるで意味がない。
 征士は身に付けていた白いシャツの懐を探す。
 そこにあるのは、<礼>の宝珠。
 それをしっかりと掴み取る。
 そして、悪奴弥守の濡れた濃紺の眼の前に、その光輪の戦士としての証をはっきりと見せつけた。
 悪奴弥守の眼が、大円に見開かれる。
 薄く開いた唇から、何か言葉のようなものが漏れたような気がしたが、聞き取る事は出来なかった。
 この暴行の中でも、光を失わなかった獣の眼。
 その眦から新たな涙が零れ落ちていく。
 そして、次第に、眼から失われていく、光。
「私が、光輪のセイジだ。」
 怒りをこめて言い放つ。
 悪奴弥守は眼を閉じて、一度だけ、かぶりを振った。
 もうその体は震えることもなく、凍りついたように動かない。
 しかし、頭の熱くなっている征士には自分のしていることが、悪奴弥守の心をどれだけ痛めつけているか、考えることすら出来なかった。
「私が、お前の<光輪>だ。悪奴弥守。」
 トドメとばかりに征士が言葉を重ねる。
 悪奴弥守が眼を見開いた。
 至近距離から、恐らく最後に残された力を振り絞り、下から征士の<礼>の宝珠を掴む手を思い切り叩き上げる。
 その的確な攻撃に、征士の手から宝珠が弾き飛ばされ床に落ちて転がって行く。
「………」
 沈黙の数秒。
 悪奴弥守のした事は、征士が礼の鎧戦士であることへの否定。
 それも、口に出そうとすらせず。
「悪奴弥守……」
 悪奴弥守は、泣いていた。
 ただ涙を流しながら、無表情に征士の顔を見上げている。
 悪奴弥守が、無表情。この四魔将の中で最も喜怒哀楽が激しく顔のよく変わる男が、感情を表に出すことすらしない。
「お前を抱く私とは……口もききたくないというのか。」
 征士はそう受け取った。
 悪奴弥守は何も答えない。ただ涙の粒が血のこびりついた頬を伝い落ちて行く。
 それならばいっそ、“化け物”と罵られた方がましだったかもしれない。
 だが、ここで後悔するぐらいなら、最初からこんな山奥まで連れ込んだりはしない。
 穿つ。
 腰を叩きつける。
 弓なりに反り返る、悪奴弥守の背中。
 征士の与える衝撃をそのまま内部に受け取りながら、悪奴弥守が小さく喘ぐ。
 しかし、その唇は再び引き結ばれる。
 悪奴弥守が、征士に対して心を閉ざそうとして行くのが分かる。
 最大級の焦燥と、苛立ち。
 それを悪奴弥守に直接に、直角に、叩きつけていく。
 わずかに眉間を苦しげに寄せる悪奴弥守。
 しかし、それでも普段とは比べ物にならないほど、“感情”が見えない。
 今、悪奴弥守が何を考えているか、感じているか、征士にはほとんど分からない。
 分からないから、ぶちまけた。
 己の思いの丈を、欲望の液体にして。
 悪奴弥守に最も奥へ、たぎるままに、ぶちまけた。
「悪奴弥守―――どうだ。」
 荒く息を吐きながら、征士がきく。
「何とか、言え。どう思っている。」
 答えは、ない。
 床の上に放り出されたまま、微動すらしない血まみれの褐色の腕。
 征士は舌打ちをすると、悪奴弥守の内部から自身を引き抜いた。
 欲の証が痛めつけられ血を流す部分から零れ落ちる。
「……誰とでも寝る淫売が、今更、何を惜しんでいる。いつものように腰を振って喜べばいいだろう。」
「!!」
 悪奴弥守の顔色が変わる。
 それを見て、征士は床に横たわる悪奴弥守を見下ろしながら言葉を継ぐ。
「昨夜も誰に抱かれていた?相手は男なのだろう?螺呪羅か、朱天か。それともそこらの雑兵か。」
「な……何を、何を言う……光輪。俺は。」
 上半身を起こして、悪奴弥守がうろたえた表情を見せる。
「俺は?俺はなんだ?妖邪界を制する闇魔将と言いながら、何百年もの間、男相手に誰彼構わず抱かれてきたのだろうが。」
「光輪……一体、何故……。」
 明らかにうろたえ、信じられないというように自分を見上げる悪奴弥守に、征士は改めて怒りを感じる。
「私が何も知らないとでも思っていたのか!」
「何故……知って。」
 螺呪羅の痕跡を見られたのは、征士に無理矢理、挿入されそうになった寸前のことだ。当然ながら、征士が自分をこの山奥に連れ込む以前から、自分が男と関係を持つ事を知っていた事になる。思いも寄らない征士の言葉に、悪奴弥守は混乱を隠せない。
「最初から。最初に、お前を人間界に呼び出した時から。お前からはいつも、男に抱かれた匂いがしていた。」
「に、匂い……そんなもので………。」
「鎧戦士を舐めているのはお前じゃないのか悪奴弥守。いつも違う匂いだった。匂いじゃないというのなら“気”とでもいうのか。お前はそれでも平然として笑っていたな。男に抱かれた次の日には、また別の男にもそんなふうに会うのだろう。私が宝珠で呼びかければすぐに寄って来るように、気安く。」
 征士は苦しげに息を吐く。
「一言声をかければ気安くついていって、売女のように抱かれるくせに。売女ならば金が欲しいのだから、切実な事情があるのだろう。それは仕様があるまい。だが、お前は何だ。何が欲しくてそんなに男を―――売女以下だろうが!」
「光輪………。」
 
 
 
 征士の鎧の名を、呼ぶ。
 先ほど、悪奴弥守は<礼>の宝珠を弾き飛ばして征士が鎧戦士であることを頑として否定した。
 だが、そんなことも忘れて、悪奴弥守は征士の名を呼んでいた。
「光輪、まさか本当に……本当に、そんなことを思っているのか?」
 人間界において五年間。
 六十回以上重ねられた、悪奴弥守と征士の逢瀬。そこには性的な意味は何もなかったが、確かに心の絆があったはずだ。
 悪奴弥守に人間界の常識を丁寧に教えてくれた征士。それでいて、最初のうちは無口でぎごちなく、頓珍漢な行動を取る事が多かった征士。次第に悪奴弥守に笑顔を向けてくるようになった時。何か壁にぶち当たった時、必死に努力しながらも無骨な言葉でその苦しさを打ち明けてきた時。
 そんな時―――それ全てを粉々にするような、征士の発言。
「まさか、本心ではあるまい?何故、そんな―――違う。俺は、違う。」
 何をどういっていいのか分からない。
 完全に頭が混乱して、自分が何を口走っているのかも分からない。
「お前は、本当にそんな目で、俺を見ているのか。違う。俺は………。」
 確かに、悪奴弥守は気が乗れば男と寝る。
 気が乗らないのに襲って来る男は容赦なく叩き斬るが。
 四魔将の間でのそうした爛れた出来事を数え上げたらキリがない。それは阿羅醐とともに妖邪界を平定していく過程で作り上げられた、本人達同士でなければ空気を読む事も不可能な密度の濃い複雑な関係だ。
 それを征士にどう説明しろというのだ。
 そして、説明したところで、征士がそれで納得するのか。
「違うだと。何がだ。」
 征士が吐き捨てるように言う。
「今日も体中に男の痕を刻みつけておいて。その体でそのまま私のところに来たくせに。男なら誰でもいいのだろう、悪奴弥守は。何故私だけ拒むのだ。」
「違う、違うんだ!」
 床を殴って、悪奴弥守が叫ぶ。
「何故そんなことを言う光輪。お前は、誰にだって、そんなことを言える奴ではない。それを俺に向かって、何故。」
「それは悪奴弥守が勝手に、私をそういう男だと決め付けて思い込んでいただけの話だ。私はいつだって、お前をそういう目で見てきた。」
 悪奴弥守は言葉を失った。
 光輪のセイジが、そんな言葉を、はっきりと言い切った。
 自分に向かって。
「お前からする、他の男の匂いが、がどれだけ汚らわしく、憎かったことか。お前には想像も出来まい。悪奴弥守。」
「お前は――――光輪は、そう思いながら、今―――俺にこんな真似を、しでかしたのか?」
 自動車で山奥に誘い込み、玄関先でいきなり襲い掛かって殴る蹴るの暴行の末に強姦し、何度も何度も犯した末に体中爪で引き裂くという真似。
「そうだ。」
 征士は何のためらいもなくそう言った。
 悪奴弥守はうつむく。
 もう泣く気も起こらなかった。
 怒りもこみあがってはこなかった。
他の男がそんなことを言ったら、恐らく斬り殺して死体を犬に食わせるぐらいはしただろう。いやもっと残虐な報復を行う。
 だが、相手は征士だった。
「……帰してくれ。」
 悪奴弥守は呟くようにそう言った。
「何?」
 征士が聞き返す。
「妖邪界に、帰してくれ。もう帰してくれ。」
 それはただの本心だった。
この近くに妖邪界と人間界の境目となるポイントがあるかどうか、今の悪奴弥守には確かめるだけの余力も残されていない。
 だが、<孝>の宝珠で武装して、時間をかければ何とかなるだろう。
 そのためには、この場で自分に過酷な暴力をふるい続ける征士を何とかしなければならない。だから、「帰せ」ではなく、「帰してくれ」と、言った。
「私から、逃げる気か?」
「そう取ってもいい。帰してくれ。」
刹那、征士から放たれる殺気に近いものを感じ取り、悪奴弥守は顔を上げる。
 通常なら、カンの鋭い悪奴弥守はそこまで気配を放たれれば相手の感情はある程度以上読み取れる。だが、ズタボロになった心身は、もう征士の殺気の正体を汲み取るだけの力はなかった。
「お前は……いつもそうだ。」
 苦々しげな征士の声。
 意味が分からなかったが、もうそんなことはどうでもよくなっていた。
 ただ、一刻も早く闇神殿に帰り、眠りについて、痛めつけられた心身の回復に勤めたい。それだけだった。
「そんなに帰りたいのなら、帰してやろう。」
 意外にあっさりと承諾する征士。
 だが殺気がやまないため違和感があり、悪奴弥守はわずかに体を後ろにずらした。
「だが、汚したものは清めて行け。」
「な、何……?」
 汚すような事をしたのはどう考えても征士なのに、そんなことを言われて、悪奴弥守はさすがに眼を瞬く。
「これだ。」
 そう言って、征士は悪奴弥守の顔面に血に汚れた己自身を突きつけた。
「!!」
 反射的に逃げ出しそうになるが、腰に力が入らず後ろによろめく。
「お前がいつも男にするように口で綺麗にしてみせろ。出来るだろう。」
「……ぅ……」
 今、自分はどんな顔をしているだろうか?
 そんな考えが、悪奴弥守の脳裏をよぎる。
 困惑か、屈辱か、それとも悲恨か。
 そのどれをも、あらゆる液体に塗れた顔に浮かべて、征士を見上げている事だろう。
 それは多分、惨めを通り越して滑稽きわまりない姿に違いない。
 そう思うと、あまりの不条理さに唇がわななく。
 だが。
(闇神殿に、帰りたい…)
 もうこの場から立ち去りたい。
 その一心で、悪奴弥守は自分から傷ついた腕を上げ、右手で征士の雄を握りこんだ。
 顔をうつむけたまま、そのまだ立ち上がってはいないモノに舌を這わせる。
 綺麗にしろ、と言われたとおり、こびりついた自分の血を丁寧に舌と唇で拭って行く。次第に力を得て行く征士の雄。
 それを至近距離で感じながら、右手の掌で征士の根元をきつくしごく。
 征士が自分にさせようとしていることは分かっている。それならば、さっさとすませてしまいたい。
 ちろちろと舌で血を全て舐め取ると、裏筋を大胆に舐め上げ始める。
 顔はあくまで伏せている。相手が征士だと、思いたくは無いから。
 そらなら、相手は―――誰だろう。誰でもいい。征士以外なら。
唾液がぬめり始める頃、右手の指でそれを引き伸ばす。
 淫らな音が征士と悪奴弥守、両者の耳に響き渡る。
 唇を、先端の周りで軽く噛む。
そのときには征士の雄は熱、質量ともに最大まで膨れ上がっていた。
器用にくるりと唇で先端の周りを辿ると、音を立てながら征士を大きく飲み込んだ。
その間も淫猥に動きつづける悪奴弥守の右手。
歯を立てないように気を使いながら口腔を蠢かす。
膨張した若い熱は噎せ返るような匂いを放ち、先走りが口の中で溶けて、息苦しい。
「んっ…」
 思わずうめき声を放つ。
 もう声など立てたくはなかったのに。
 それに答えるような、征士の荒い息。
「ふ、ぅん……っ」
 ほとんど喉にまで征士を咥え込んで、悪奴弥守は口全体を使い愛撫を始めた。
 行為に没頭すれば気が紛れるかと思ったが、近すぎる場所にある征士の体が―――それこそ匂いが、相手が誰かを知らしめる。
 苦しかった。
 例えようもなく。身も、心も。
 その悪奴弥守の前髪を、征士が掴み上げた。
「ぐっ!」
 角度的に喉が詰まって悪奴弥守が悲鳴を上げる。
 しかし、征士は構わずに悪奴弥守の眼を見下ろしてきた。
 白い征士の顔が紅潮している。
 彼の呼吸も鼓動も乱れているのが、はっきりと分かる表情。
 顔を伏せたくても手でしっかりと頭を固定されてしまい、もう眼を逸らす事も出来ない。
(苦しい。)
 だから早くすませてしまいたい。
 そのためには、この男を手っ取り早く、満足させるしかない。
 苦しさに、また新たな涙が滲んでくる。
 それでも悪奴弥守は舌を使った。
 絞り尽くすように吸い上げる口腔。
 見上げれば征士の表情はもう限界が近い。
 手の動きを早め、舌で激しく快楽を与える。
 征士の状態を静かに観察しながら的確にツボを刺激する。
「……う……っ!」
 征士が、うめく。
 同時に、口の中いっぱいにえづくような匂いと形容しがたい味の液体が放たれた。
 喉の方に放たれたそれがむせて舌の方まで広がってくる。
 悪奴弥守は何とか征士の雄だけ吐き出すと、彼の目の前でわざと音を立ててそれを飲み下して見せた。
 あまりにも苦かったせいか、涙がこぼれ落ちた。
「もう…これで、勘弁……してくれ。」
 ここまですれば、どんな鬼畜でも自分を妖邪界に帰してくれるだろう。
 一刻どころか、一分でも早くこの状況から脱出して、自分の寝所に戻りたい。
 それだけが悪奴弥守の望みだった。そしていくら征士でも、自分で言い出した事だ。悪奴弥守を解放してくれるはず、だと思った。
「嫌だ。帰さない。」
 ところが、征士は冷然とそう言い放った。
「な…?!」
 何を言うのか?!
 そう言いたかったのだが、声が詰まってそれ以上の音が出なかった。
「もうお前はここから出さない。閉じ込める。」
「約束が、違う。何を言っているのだ。帰してくれると、言ったではないか!」
「嫌だ。」
「嫌だって、……閉じ込めて、どうするつもりなのだ。お前は一体、何が目的で…」
 閉じ込めるという言い方も凄いが、この男が閉じ込めると言ったらそれは比喩ではなく本当の意味で閉じ込めるつもりなのだろう。
 それぐらいは悪奴弥守にも分かる。しかし、分からないのはその目的だ。
「私が閉じ込めたいから、閉じ込めるだけだ。」
「な、何故……?」
 もう理解しがたい事ばかり打ち続いて、元々、思考ではなく感覚で行動するタイプである悪奴弥守の脳の容量は限界に近い。
それでも闇神殿に帰りたいから何とか問いを繰り返す。
「お前のような淫乱を野放しにはしておけない。」
「い、淫乱…。」
「今、私を咥えた口で、今度は誰を咥えこむつもりだ!そんなことが許せるか!」
「?」
 また征士から蔑む言葉を吐かれて傷ついた顔を見せた悪奴弥守に対し、今度は征士は怒鳴りつけた。
 全く訳が分からないが、また殴られるかもしれないと思った悪奴弥守は習性で後ろに下がる。
「待て!」
 それを悪奴弥守が逃げようとしたと思ったのだろう。何しろ何度も帰してくれと口に出して頼み込んでいたのだから。
 明らかに逆上した様子で征士が力任せに悪奴弥守の右肩を掴んだ。
「い、たぁ……!」
 ちょうど爪で引っかかれ抉れた部分を鷲づかみにされ悪奴弥守が苦鳴を上げる。
 すると征士は明らかにうろたえ、悪奴弥守から一回は手を離した。
「う……」
 痛みをこらえて震えている悪奴弥守の様子を窺いながら、恐る恐る征士はまた悪奴弥守の肩に手を触れた。
「とにかく、お前をここから出すつもりはない。だから妖邪界にも帰さない。」
「だから、何故?俺は、お前に言われた事はちゃんとやった。今度は一体何をさせたいんだ。妖邪界に、帰してくれ。お願いだ。」
「そんなことを願うな!」
 するとまた征士は怒り狂って怒鳴る。
「願うなって…」
 四百年以上生きてきたがそんな命令をされた事は初めてだった。悪奴弥守は驚愕して征士の顔をまじまじと見上げた。
 征士は至極真剣な顔だった。
「他の願いなら何でも聞いてやる。何でも私に言え。」
「??」
 怒っているし言動は相変わらずも鬼畜なのだが、ところどころに悪奴弥守をいたわるような仕草が混じり始め、今度は悪奴弥守の願いを何でも聞くと言い出した。
 もう悪奴弥守の頭では征士の行動は完全に理解不能である。
 正解は目の前にぶら下がっているのだが、とにかく大前提に「征士が妖邪界に帰してくれない」という事があり、そこに悪奴弥守の頭は拘泥していた。
「……他には願いはない。妖邪界に帰してくれ。頼む。」
「そんな頼みは、いくらお前からでも聞けない。」
「どうしてだ。理由を言ってくれ、俺に出来る事なら、何でもするから、妖邪界に帰してくれ。」
 何故か苦渋に満ちた表情を見せる征士に、悪奴弥守は何とか条件をつけてもらえないものかとそう言ってみた。
「何故、そんなに妖邪界に帰りたがる?!何故だ?!」
 大声で怒鳴られ、悪奴弥守は反射的に身をすくめた。何しろ、体中血まみれだし、一度は脳震盪まで起こした体なのだ。今、征士に暴れられたらいくら悪奴弥守でも持ちこたえられない。
「……大声を出してすまなかった。」
 その悪奴弥守の様子をどう取ったのか、征士が極力冷静を偽った声で言う。
 しかし、微妙にしり上がりな口調から怒りが解けていない事が分かるので、悪奴弥守はまだ体の緊張を解かない。
「……光輪、謝るぐらいなら、さっきから何故無茶ばかり言って、怒鳴ったりする?俺はそんなに無茶を言っているか?」
 悪奴弥守は一回意識を失った頭を必死に使いながら説得を試みる。
「俺は妖邪界の人間だ。妖邪界に帰りたいというのが、そんなにおかしいか。それに、お前が帰してくれると言ったから、やることはやった。それなのに閉じ込めるなどと言い出すのは、おかしいだろう。」
「それでも、駄目なんだ。お前が妖邪界に帰るのは。」
「駄目なら、駄目な理由を教えてくれ。それぐらい、いいだろう。」
「……それも駄目だ。だが、それ以外ならば、願いでも、頼みでも、お前が言うなら何でもしてやる。」
「???」
 理解不能を通り越して理解超越の世界である。
(理由も教えてもらえず、このまま、この山奥に閉じ込められてしまうのか―――?俺を売女以下と思ってその通り扱う男に。)
 それは単純に恐怖である。
 悪奴弥守はもうどうしていいのか分からず、下を向いた。
 自然と、涙があふれてきた。声こそ立てないが、恐怖のあまり零れる涙が床に落ちる。
 それを見た征士は、明らかにまごついた。それでも彼なりに考えたのだろう。悪奴弥守の黒髪を、先ほどまでの乱暴さの影もなく、何度も何度も優しく撫でつけた。


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