花散らすケダモノ 樅の木の下
――――五年前の、阿羅醐城。
伸、秀と共に捕らえられた征士は、阿羅醐の洗脳を受けるために一時的に鎖から解放された。
その機会を逃すほど、征士は甘い男ではない。
洗脳の儀式の行われる間に行く途中、隙をついて妖邪兵を斬り伏せ、伸と秀を助けるために走った。
しかし、妖邪兵の目をかいくぐる内に、見当違いの方向に迷い込んでしまったのである。
更に逃げた征士に追っ手が迫ってくる。
多勢に無勢で勝ち目は無いが、黙ってもう一度捕まるつもりもない。
征士は自然と暗くて人影のない方へと逃げていった。
その方角へは多重の幾重にも張り巡らされていたが、不思議と自分が“気”を放つだけで界を解く事が出来た。
その結界の意味が、気にかかった。
ここまで厳重に封じられているものは一体何なのか。
妖邪界の秘密を知り、トルーパーを有利に導く方法が見つかるかもしれない。
征士は結界の密度の濃い方向へと向かった。
次第に濃くなる闇、妖邪兵の気配すら全くしない。
怪訝に思いながら暗い通路を進むと、奥の方角に微かな光が見えた。
征士はその光に吸い寄せられて行った。
光の正体は、灯篭だった。
敷き詰められた白砂の上にいくつかの景石が積み重なった広い中庭。
そこに一つきりある灯篭が、不安定に光を揺らめかせている。
庭の向こう側に居室があり、そこは障子が開けられていて、動く人影が見えた。
(妖邪兵じゃ、ない…)
その時点で、征士は妖邪界において動く人型は妖邪兵しか見ていなかった。
妖邪兵ではないならば、捕らえられた人間界の者であろうか。
灯篭の明かり一つでは、確認出来ない。
征士は極力気配を断ちながら、庭に忍び込み、大きな景石の影に隠れた。
そして耳を澄ます。
かすかに、まるで助けを求めるような、苦しげな声が聞こえてきた。
(拷問されているのか?)
声だけでは、男とも女とも判別がつかないが、自分の予想が当たっているのなら、即座に救出しなければならない。
景石の影から障子に近い方への景石の影へと足音を立てないように飛び移る。
そして周りに気を配りながら、障子の中を覗いた。
そこで征士が見たものは、絡み合う二人の男の図だった。
尤も、下に横たわっている男の方は障子の影に隠れていて見えない。
はっきりと見えたのは何も身に付けていない黒髪の青年。
褐色の肌に玉の汗を浮かべ、無駄を一切省かれたしなやかな体を、男の上で悶えさせている。
当然ながら、征士はそんなものを見るのは初めてだった。
見てはいけないと知りながら、驚愕のあまり、眼を離す事も出来ない。
「外が気になるか?」
下の方の男が言った。切羽詰った青年の声に比べて、大分、余裕があるようだ。
青年が、辛そうな顔で小さく頷いた。
「お前の結界を破れる者はいぬ。何も考えるな。いつものように、淫らに狂え。」
何も考えられなくなったのは青年ではなく征士の方だった。
それから始まった光景はもう一生忘れられないだろう。
顔、声、動き、それらが、闇に浮かぶ灯篭の光に照らされ、征士の脳に一瞬ごとに刻み込まれていく。
―――凄艶。
それはいっそ凄みすら帯びた欲。
欲が高まり、震え上がり、舞い踊り、そして叩き落ちる。
それを見ているうちに高鳴る動悸、熱、呼吸。
落ちた青年の恍惚に震える頬を、涙が一筋、流れ落ちた。
「お前は快楽でも泣き咽ぶのだな、悪奴弥守。」
征士は我に返った。
(悪奴弥守?!)
下の男は確かにそう言った。
征士が知っているのは鉤爪のついた鎧をまとい、暗黒を使い卑怯な手でトルーパーを苦境に追いやる妖邪。
その正体が、この、濃紺の眼の青年。
呆然としていると、男の白い手が、悪奴弥守の眼に伸び、涙をぬぐった。
途端に、征士は理由のない激しい怒りにかられた。
すぐにも光輪剣でその白い手を叩き切り、泣いている悪奴弥守をどうにかしたい。
どうにかしたいといっても「どうしたい」のかが分からないから、障子の奥に踏み込む事が出来ない。
激怒と殺意にかられているうちに、悪奴弥守は男から体を離し、疲れきった様子で単を身につけ始めた。
男も障子の影で事後の処理をしているのだろう。
「―――長、いいか?」
そのとき、障子の奥から知らない第三者の声が聞こえた。
「何だ、ヤヅカ。」
「光輪が逃げた。三魔将全員に、光輪を追う命令が出ている。急げ、長。」
「光輪が?!」
悪奴弥守は途端に背筋をしゃんと伸ばして立ち上がった。
「分かった。すぐ武装する。犬を放て。」
その声の質と、会話の内容で、征士は確信した。
(あの、悪奴弥守だ。)
どこからともなく、犬が吼える声が聞こえてきた。
それが征士をいくぶん、正気に返した。
(ここにいたら、見つかる。)
征士は極力、気配を殺し、その中庭から脱出した。
そして、悪奴弥守の館、闇神殿の中を走る。
暗闇に包まれた迷路の中、角という角から山犬が吼え、自分に飛び掛ってくる。
それを片っ端から光輪剣で切り倒しながら、脱出口を探す。
必死に冷静さを取り戻そうとするが、直前に見たものが見たものである。
その上、次々と襲い掛かってくる犬の群れに、征士の頭は次第に熱くなっていった。
「雷光斬!」
複数の犬を一度に叩き斬るために、闇の中、光の必殺技を放つ。
途端、背後から凄まじい衝撃が加えられ、征士は横に吹き飛ばされた。
闇神殿の黒い壁にぶつかり、受身も取れずにその場に転がる。
「阿呆。目立つ技を使いおって。」
その言葉を聞き、頭をふらつかせながら、眼を開き振り返ると、闇の鎧。
威嚇のために長く伸びた角を持つ兜に赤い腕の先の鋭い鉤爪、背中からたなびく黒いマント。
それは征士のよく知る、幾度となく刃を交えてきた妖邪界の闇魔将。
「力があっても、まだ使いこなせぬか、小童。」
そう言って、悪奴弥守は肩から黒狼剣を抜き、征士の顔の先に突きつけた。
征士は黙って兜の中を凝視する。
濃紺の眼の眦が、わずかに赤い。
「痛い目に会いたくなければ、おとなしくすることだ。」
悪奴弥守の台詞を無視し、征士は立ち上がり、光輪剣を握り締める。
「抵抗するか、光輪。無駄なことを。俺から逃げきれるとでも思うのか。」
嘲笑を含んだ声に、征士は自分でも顔が険しくなるのが分かった。
―――さっきまで、男の上で喘いでいたくせに。
―――さっきまで、快楽に耐え切れずに泣いていたくせに。
「それは違う、悪奴弥守。」
最長の剣を黒狼剣に打ち合わせ、征士は凛と声を張る。
「貴様が、私から逃げられないだけだ。」
「………?」
あまりにも場違いな台詞に聞こえたのだろう。
悪奴弥守が兜の奥で怪訝そうな顔をするのが分かる。
それに構わず、光輪剣を振るった。
悪奴弥守の鉤爪がそれに答える。
ぶつかり合い、せめぎあう、対の力。
対の鎧である光輪と漆黒は、本来なら対等の力を発揮する。
だが、そのときの征士の剣には、明らかに迷いがあった。
雷光斬を放つために“気”を集中する呼吸を読まれ、暗黒の力を叩きつけられた。
視力を失い、うろたえた途端に、下から剣を跳ね上げてくる黒狼剣。
光輪剣を弾き飛ばされた所に考える暇を与えず襲い掛かってくる鉤爪。
(強い。)
押し倒され、喉元を鎧の爪に押さえ込まれながら、征士は心の中でうめく。
「妖邪兵、鎖をもて!」
征士は再び捕らえられた。
捕らえられ、拷問され、洗脳の儀式を何度も繰り返される。
何度も意識を失い、激痛の中、意識を取り戻す。
同じく捕らえられている伸と秀と、言葉をかけあいながら、何とか自我を保ち続ける日々。
そして意識を失う度に、征士は悪奴弥守の夢を見た。
あの景石の影、障子の奥の悪奴弥守を。
阿羅醐を倒し、戦いが終わっても、征士は繰り返し悪奴弥守の夢を見た。
繰り返される夢の中で、景石の影に隠れていた自分は白い手の主と重なり合い始めた。
それがどんな意味を持つかは、目が醒めれば否応なしに分かった。
自分でもおかしいと思い、止めようと思っても、光輪の鎧に夢を制御する力は無い。
逆に、止めようと意識することによってかえって夢の内容がえげつなくなってしまう始末である。
誰にも話す事も出来ず、一人悩むうちに、布団に入っただけで悪奴弥守の事を思い出すようになった。
何度も何度もあの日の事を反芻し、考える。
あの何重にも張られていた結界を、“気”だけで突破できるのは、多分自分だけだろう。
漆黒の鎧の持つ、闇の力を、征士の光輪の鎧が無効化したのだ。
勿論、あの時点で悪奴弥守にとって自分は囚われの身だ。
結界を解く者などいないと思っていただろうし、だから徹底的に人払いをして、障子を開ける事を同意したのだろう。
誰にも見られていないと思ったからこそ、白い手の主の要求に応じたのだ。
白い手の主―――一体誰なのか。
四魔将の中でも最も気性の荒い悪奴弥守に、わざと障子を開けさせてあんな振る舞いをさせるだけの男。
その男の事を考えると、征士は気が狂いそうになる。
彼が悪奴弥守にした事を考えると殺しても飽き足らないのに、夢の中の自分はその殺したい男になっている。
全く相反する感情。自分で自分を統御できないどころか自分の心が理解できない。
もう訳がわからなくなって、戦いの終焉からちょうど一ヵ月後、征士は<礼>の宝珠を取り出した。
宝珠に向かって念をこめ、悪奴弥守の名を呼ぶ。
それが床につく前の時間だから、十時ごろの事であったか。
その二時間後、征士の部屋の窓が叩かれた。
眠れなかった征士はすぐに起き上がり、カーテンを開けてみた。
そこに、なんと濃紺の眼の青年が鉄色の小袖を着て立っていた。
「………悪奴弥守。」
唖然としたのも束の間、急いで窓を開ける。
悪奴弥守は何故か酷く驚いた顔をした。
「どうした?」
その表情を見て、征士がきく。
「何故、俺だと分かった、光輪。」
悪奴弥守は、征士に自分の正体を見せた事がないつもりなのだ。
「眼で。」
咄嗟に、そう答える。
困惑した様子ながらも、悪奴弥守はそれで納得したようだった。
「どうしたのだ、光輪。宝珠から、お前の“気”が送り込まれてきたが。」
「それで、来てくれたのか。」
「お前らしくない、酷く頼りなげな“気”だった。」
悪奴弥守は率直だった。
征士は戸惑う。自分がどんな気持ちで念を送り込んだのか、悪奴弥守が知れば、どう思うだろう。
「部屋に、入ってくれ。悪奴弥守。」
それでも、悪奴弥守に少しでも側にいて欲しくて征士はそう言って自室に招いた。
悪奴弥守は言われるがまま、窓を飛び越えた。
部屋の中で二人、向かい合わせに立つ。悪奴弥守の方が、背が高い。
「人間界で、何かあったのか。光輪。」
「何も無い。ただ、私が……。」
そのまま眼を伏せる。言いたい事も、聞きたい事も、それ以外の事も、山ほどあったが、本人を前にするとそれはどれもこれも出来ない事ばかりだった。
「何か悩み事でもあるのか?」
その様子を見て、悪奴弥守はあっさりそう言った。
征士は何も答える事が出来ない。
それに対して、悪奴弥守は征士の金髪に手を伸ばし、ぐしゃぐしゃとかきまわした。
「な、何をする、悪奴弥守。」
「悩め、悩め、小童。」
その言葉に瞬間的に逆上し、征士は悪奴弥守の手を乱暴に振り払った。
「つっ。」
悪奴弥守が顔をゆがめる。
見ると、征士が振り払った手には包帯が巻かれており、赤く血が滲んでいた。
「傷を負っていたのか?!」
焦る征士に対して、悪奴弥守は平然としている。
「このような傷、寝てしまえば明日にも治るわ。」
「誰に、そんな傷をつけられた?」
「敵に。」
簡潔だが全然答えになっていない返答に、征士は戸惑う。
「……敵とは誰だ?」
「阿羅醐様が倒れられたからな。これを機会と、自分が王になりかわろうとする阿呆が増えた。」
「大丈夫なのか?」
「俺を誰だと思っている光輪。」
不敵に笑う悪奴弥守に、征士は何も言えない。
「俺よりもお前のことだ、光輪。お前の鎧は煩悩の根源“無明”を打ち払い、光で真実を照らし出す力を持つはず。だが、鎧を着るお前が迷い、悩めば、鎧の力も鈍るというもの。」
「……………。」
「だが、俺はお前に悩むなとは言わない。俺も迷い、心を失って、妖邪に転生した男だからな。人のことは言えぬ。命ある限り苦悩しのたうちまわれ。そこから掴み取るものが必ずある。」
「何故、そんなことが、言える。」
知らないうちに、拳が震えていた。訳もなく、悔しい。
「伊達に戦国の世から生きてはおらんわ。気にいらぬのなら、ただの年寄りの繰言と聞き流せ。」
「悪奴弥守が年寄りになどと、とても見えない。」
「ん?……そればかりは、俺にもどうしようもないな。」
そう言って、悪奴弥守は笑った。それが酷く寂しそうに見えたのは、気のせいではない。
「悪奴弥守は、これからも、妖邪界で生きていくつもりなのか。人の心を、取り戻したはずなのに。」
「何故だ?」
「人間界に来れば、もしかしたら、年を取る事も出来るかもしれない。」
「それは、出来ない相談だ、光輪。」
きっぱりと悪奴弥守は答えた。
「妖邪界で戦乱が続いているからか?」
「戦が終わっても、人間界に戻るつもりは俺にはないぞ。他の魔将もそうだ。」
「三魔将の力で、妖邪界を統一するのが、悪奴弥守の責任なのだな。」
悪奴弥守は最低限の事しか言わないが、強大な力を持った帝王を失い、恐らく妖邪界は混迷を極めているのだろう。それを力で統一し、心で導くのが、妖邪として何年も悪逆の限りを尽くしてきた償いと、悪奴弥守は思っているのかもしれない。
「いや違う。妖邪帝国の未来を統べる者は迦遊羅だ。それにもう、四魔将に戻った。」
「四魔将に戻った?!」
「朱天を復活させた。」
あまりに当然のように言う悪奴弥守に、征士は頭がくらくらしてくる。
「どうやって…?」
「黄泉に渡る前に、螺呪羅が夢幻の力で朱天の魂を捕まえて引っ張った。そして、迦遊羅が肉体に魂を封じ込めて、俺が生命力を吹き込んだ。その後は、那唖挫が癒した。」
「………訳がわからない。」
「まあ、鎧だからな。」
その一言ですましてしまう悪奴弥守。
戦国時代の人間としても、悪奴弥守の頭はあまり科学的に出来ていないらしい。
「復活して、朱天は元気なのか。他の魔将も、迦遊羅も。」
「光輪に心配されるようなことは何もない。光輪こそ、小童どもとどうしているのだ。諍いなどしてなかろうな。」
「諍いなど…。」
そもそも、会っていないし、連絡も取っていなかったことに、征士は気付く。
「ともに悩んでくれる者が一人いると、違うぞ。」
「そうか…そうだな。」
妖邪との苦しい戦いの中、いつも側にいてくれた仲間達。
その一人一人の顔を思い浮かべて、征士は心がほぐれていくのを感じた。
それが顔に出たのだろう。悪奴弥守が眼を細めて笑った。
「もう、心配ないな、光輪。」
そう言って、さっさと窓に向かう悪奴弥守に、征士は動揺する。
「帰るのか?」
「この夜更けだ。長居すればお前にも家人にも迷惑がかかる。」
「悪奴弥守、次は……。」
慌てて言う征士に、悪奴弥守は窓枠に手をついたところで振り返る。
「次?」
「次は、昼間に呼ぶ。」
十文字足らずの言葉を舌に乗せて口から出すのに、どんな敵と渡り合った時よりも、勇気を振り絞った。
心臓が痛い。肺が苦しい。
何より自分がとても痛々しく思える。
「昼間に呼んだとしても、すぐ来られるとは限らんぞ。妖邪界と人間界では全然、時の流れが違う。それでいいのなら、俺は構わん。呼びたい時に呼ぶがよい。」
悪奴弥守はそう答えて、窓枠を飛び越えた。
(呼びたい時に呼ぶがよい。)
その言葉が胸に突き刺さり、征士の思考を止める。
「息災でな、光輪。剣の修行、ゆめゆめ怠るな。」
それだけ言って、悪奴弥守は征士の返事も待たずに闇に消えていった。
「―――悪奴弥守!」
征士が窓枠に駆け寄り、その名を呼んだ時には、もう悪奴弥守の気配そのものが完全に立ち消えていて、当然、悪奴弥守に自分の声が届くわけもなくて。
征士は窓枠に突っ伏す。
恐ろしく、惨めで、無力で、情けない。
何故、住む世界が違うのか。
何故、こんなにも年がかけ離れているのか。
そもそも何故、同性なのか。
たったこれだけ話しただけでも、悪奴弥守と自分をつなぐもののあまりの頼りなさに絶望しそうになる。
あるのは鎧と宝珠だけ、それだけではないか。
そして、鎧と宝珠を持っていても、征士は戦乱に身をおく悪奴弥守と共に戦う事が出来ない。戦うと申し出たとしても、悪奴弥守はそれを許さないだろう。それは聞かなくても分かる。
悪奴弥守が傷を負っても、癒すのは別の誰か。
悪奴弥守と共に戦うのは、多分あの白い手の男。
(悩め、悩め、小童。)
一体、誰のせいでこんなに悩んでいると思っているのか。
怒り、悔い、嫉妬、焦燥、憎悪、沸き起こる肉欲。
悪奴弥守に会うまで知らなかった様々な感情の醜さに、征士は身をかきむしたくなる。
―――苦悩にのたうちまわれというのなら、そうしてやろう。
掴み取れというのなら、いつかその喉笛を鷲づかみにしてやる。
今は平然と、そしらぬ顔をしているがいい。
いつか……。
いつか。
悪奴弥守は出来ない約束はしない男らしい。
征士が宝珠に念を送り込めば、三日以内には必ず現れた。
どうやら、自分の事はかなり優先してくれているらしい事は、すぐにわかった。
最初の時だけではなく、手傷を負った姿で現れる事が頻繁にあったからだ。
一度など、左肘をバックリ割られているのに、布を巻いただけでやってきた事がある。
慌てた征士が人間界の病院に連れて行こうとしたが、悪奴弥守は突っぱねた。
(寝ていれば治る)
その一点張りである。
確かに病院に連れて行っても、悪奴弥守には保険証どころか、人間界で身分を明かすものは一つもないわけだから、そのとき十六歳になったばかりの征士にはどうしようもない。
困り果てている征士に、
「コウコウというのは、楽しいか?光輪」
などとのんきな口調で尋ねてくる。
あまりにも心配だったので、自分で手当てをすることを申し出た。
一応、実家が剣道場であるし、自分も鎧戦士。ある程度の傷の手当ては出来る。
それも悪奴弥守は渋ったが、征士が粘ると結局折れた。
片方の袖を脱がせ、布を剥いだ途端、鼻孔を刺激する、悪奴弥守の血の匂い。
傷口を眼で確かめると、息が止まり、口の中が異常に乾いた。
「若者が皆等しく、学問が出来る世というものが来るとは、考えられなかったな。」
悪奴弥守は征士がじっと黙っているのを何とも思っていないらしい。
思わず、肘の傷を舐め取りたくなる衝動を必死で抑え、薬箱から消毒液を手に取る。
「少し、冷えて痛むかもしれない、悪奴弥守。」
「構わん。」
傷口全体に、丁寧に消毒液をまぶしていく。
そしてわざと強めに脱脂綿で強く押した。
「……っ」
そのとき、征士は傷口ではなく、悪奴弥守の顔を見ていた。
ほんの一瞬、痛みをこらえる悪奴弥守の表情を凝視する征士。
そのまま、彼の動きは完全に止まった。
「どうした?」
今度は流石に、悪奴弥守が征士に怪訝そうな顔を向ける。
「いや、なんでもない。」
慌てて包帯を用意する。
包帯を巻きながら、袖を脱いだ悪奴弥守の皮膚を見つめ直す。
褐色の滑らかな皮膚。そこにいくつか、不自然なうっ血があった。
それが何なのか、夜毎の繰り返される夢の中で、征士は知っている。
(こんな手傷を負うような、戦の最中でも……)
その晩は、眠れなかった。
その晩に限らず、悪奴弥守と会った日はまず眠れない。
それでも、征士は月に一回必ず悪奴弥守を呼び出した。
心の中はもう泥沼だった。
会うごとに知る、悪奴弥守の人間らしさ。
気性が荒いだけではなく、感情がとにかく豊かで、全身の感覚が研ぎ澄まされている事。
喧嘩っ早いのは戦の最中だけで平時はつまらない喧嘩は一切買わない。
ヤクザに絡まれても煙に巻いて征士を連れて逃げ、そして笑う。
犬のみならず自然全体に対する並みならぬ敬愛。
そして自分に寄せてくれる、静かな信頼。
眠りに落ちれば、そんな彼を、征士は夢の中で惨たらしく犯してしまう。
それどころか征士は成長するに従って、起きている時にも、ふとした折に、あらぬ妄想に耽るようになった。
それを助長するのが悪奴弥守の小袖姿だ。
悪奴弥守は元来が活発な性質だ。よく動く。
結果、小袖の袖口、襟口が全開になってしまうことも間間あった。
ただの褐色が見えるだけならまだいいが、情事の痕が見えてしまった日には征士は頭が真っ白になる。
我慢できずに、皮膚の露出が少ないミリタリーファッションを悪奴弥守に押し付けた。
小袖姿では目立つというのは口実に過ぎない。
顔にあんな十字傷をつけていれば、どんな格好をしていても目立つ。
だが、悪奴弥守に服を選びながら、いつのまにかそれを剥ぎ取る時を考えている自分に気付いた時は穴を掘って埋まりたくなった。
悪奴弥守はそんな征士に全く気付いていない。
全く無防備といっていい闊達な態度で征士に接してくる。
それを幸運と思い、妄想は妄想と割り切るには征士はあまりに潔癖すぎた。
自己嫌悪、自分の性欲に対する猛反発、それらから来る劣等感。
それらを拭い去るために手当たり次第に猛勉強に励み、剣に打ち込んでも微妙な結果になった。
元々、話のネタがそれほどある方ではない征士は、月に一回の悪奴弥守との会話で勉強や剣道の話をすることが多い。
征士が好成績を修めれば、悪奴弥守は当然ながら喜んで誉める。
思うような成績が出なければ、体調が悪いのか、などと心配してくる。
そうなると、征士は悪奴弥守に余計な心配かけないためにも一層文武両道に励まなければならない気持ちにかられる。ここまで執着している相手に心配されるよりは、誉められ、感嘆されたいのは当たり前だ。
悪奴弥守のもたらす感情から逃げるはずだったのに全く本末転倒である。
もうこうなると月に一回しか会わない異世界の住人であるにも関わらず、悪奴弥守は十代後半の征士にとって最も重い人物になってしまった。
勿論、悪奴弥守本人にはそんなつもりは毛頭ない。
それは征士自身が一番よく分かっている。
だから征士は、表面上は何事もないふりをして自分の欲を抑えこむ。
抑圧の反動として、夢の中で、妄想の中で、征士が行う悪奴弥守への仕打ちはエスカレートしていく。
抑圧と欲求のラインは常にぎりぎりで、いつ欲が臨界点突破してもおかしくなかった。
それを何年も耐え切れたのは、征士の光輪の戦士だったからに他ならない。
そこに、二十歳の誕生祝の当麻からの電話がきた―――。
(那唖挫に聞いたら、悪奴弥守と俺達って同い年なんだって。)
そこで、征士の抑圧のタガは外れた。
大学の講義を終え、一人植物園の樅の木の下で瞑想に耽る。
瞑想―――欲を実行する決意。
今日、いつものとおりの無自覚さで現れるだろう悪奴弥守に、五年間分のあらゆる欲を受け入れさせる、その計画を組み立てる。
何度も何度も、妄想の中で行われている事だ。それを整理するだけでいい。
タガが外れた征士は、五年ぶりに己を取り戻した心地でいた。