小説ページ

花散らすケダモノ 山ノ神


 征士が悪奴弥守をこの山奥へさらい、六日目の朝が明けた。
 夕べも悪奴弥守と同じ寝床に入ったが、征士は悪奴弥守に手を出しはしなかった。那唖挫の前で淫乱に脚を開き、抵抗する様子もなく甘い声を立てていたその姿が、眼に焼き付いて離れなかった。
 そして那唖挫の医薬の術をもってしても、悪奴弥守がこの人間界にとどまれるのは今日も入れて二日のみ。
 六月の朝の陽光に反比例して暗い面持ちで征士は目の前の美しい男を見ている。
 差し向かいのソファで、情報収集が生き甲斐の一巻の螺呪羅は新聞を丹念に読んでいた。悪奴弥守は朝から、「気が向いた」ということで、この蔵王の山の中へ入っていった。
 悪奴弥守が何かにつけて人から遠ざかり、山林の中で深呼吸をしたがるのは彼の大きな特質の一つであり、それがなければ落ち着けない事はその場にいる全員が知っていたので、止める者はいなかった。
 悪奴弥守はいず、その家には悪奴弥守に連なる者だけが思い思いの行動を取っている。螺呪羅は新聞を読み、那唖挫は征士の父親の書斎にある東北の自然に関する書物を片っ端から調べ上げている。
 そして征士は、目の前の男が昨日、那唖挫が悪奴弥守を抱くのをいともあっさりと容認した事を、何度も胸中で罵っていた。
 螺呪羅は征士の目前で、悪奴弥守を犯すほどに彼を愛している。だが、同じ仲間の那唖挫が悪奴弥守を抱く事は許しているのだ。征士には理解出来ない世界だった。
「……螺呪羅。」
 ついに耐えきれなくなって、征士は彼の名前を呼んだ。
「うん?」
 新聞から眼をあげ、螺呪羅は蒼の隻眼を四百二十四歳年下の若者に向ける。
「お前にとって、悪奴弥守とは何だ?」
「どういう意味だ?」
「単刀直入に聞こう。お前は悪奴弥守を愛しているのではないのか?お前は悪奴弥守どのような存在だと思っている。」
「なるほど、そういう意味でか。」
 螺呪羅は頷くと、大したことでもない口ぶりでこう言った。
「山ノ神。」
「…何?」
「山神の仔が成長すれば山ノ神。そうだろう?」
「……どういう意味だ。きちんと分かる言葉で言ってくれ。」
 螺呪羅は呆れかえった顔になって隻眼で書斎を示した。
「辞書を引け。」
 馬鹿にされたのは悔しかったが、螺呪羅の真意を知るためにはそれしかない。征士は書斎の中に入った。
「どうした?」
 自然科学全書という表紙の本をデスクで広げていた那唖挫が振り返ってそう聞く。
「辞書を取りに来た。」
「ああ、それか。」
 那唖挫の視線の先には、三省堂国語辞典の第五版があった。
 他にも大きな広辞苑などもあったが征士はつられたようにそれを手に取り、「や」の項目を引いていく。

やまねこ【山猫】
やまのいも【山の芋・薯蕷】

やまのかみ【山の神】1山を支配する神
2[俗]つま。かかあ。(←→宿六)

 征士は血圧が一挙に上がり、脳の障害でも起こしそうになりながら、辞書をひっつかんだまま書斎からリビングに飛び込んだ。
「ら、螺呪羅、貴様っ……貴様という奴は……っ!」
「何だ?」
 つまり、螺呪羅は朝っぱらから昨日の事もふまえた上で、征士にはっきり断言したのである。
【悪奴弥守は俺の嫁】と……。
「何を言っているのか分かっているのか貴様!」
 あまりにも螺呪羅が平然としているために、征士は怒り狂っている自分が馬鹿にされているように感じて、ますます怒りに怒っていく。
「熟知しているが?」
「熟知しているなら、なおさら言うな!悪奴弥守のどこがかかあだ!悪奴弥守が一体いつ、貴様と祝言を挙げたというのだぁあ!」
 もう自分が何を言っているのか訳が分からなくなりながらも、征士はとにかく若さをかぎりと叫びたい事を叫び尽くす。
「悪奴弥守の方がどう思っているかはわからぬが、お前が聞いたのだ、光輪。俺にとって悪奴弥守の存在は山ノ神だ。」
「なっ……なっ……それじゃ、なんでっ……」
 それでは何故、昼間から那唖挫と悪奴弥守が体を重ねる事を認めて放っておいたのか。それが分からず、ただ、征士は辞書を振り回すようにしたが、単語が辞書から出てくる訳でもなく、征士自身からも言葉が出ない。
「何だ、それは?」
 そのとき、騒ぎを聞きつけた那唖挫が書斎から出てきてすたすた二人の方へ歩いてきた。そして言った。
「それでは、俺はお前の妾か、螺呪羅?」
「ん?」
「そういう事になるではないか。」
 征士は脳が麻痺したように、会話の意味がくみ取れなくなった。
「先に手を出して手に入れた者が正妻になるという慣例を適用すれば、悪奴弥守の方がその座になるな。だが俺は妻だろうと妾だろうと、分け隔てするつもりはない。不満か、那唖挫。」
「そうだな、妻妾同衾させてくれるなら許す。」
 征士は鼻と耳と口から煙のようなものが出るような感覚に襲われながらも、健気に辞書を引いた。
 しかし、この場合、妻妾に当てはまる単語が三省堂にはなかったために、また書斎に戻り、今度は漢和辞典を引く。

【妻妾】つまとめかけ
【同衾】いっしょに寝ること。共寝。

 確かに、螺呪羅はそれを許していた。昨日の昼下がりの情事は、ある意味、妻妾同衾である。元々の意味とはやや違うが。
 もう螺呪羅と那唖挫が現れてから征士の価値観は根底から覆されて、常識やその他諸々の者が打ち砕かれていくのみである。
「ふ、不潔なッ……」
 それでも征士はそう言った。
「何が?」
 あっさりと那唖挫はそう聞き返してきた。
「那唖挫、貴様、悪奴弥守を抱きながら……っ、螺呪羅とも!螺呪羅も螺呪羅で、那唖挫と悪奴弥守を……妻妾同衾……不潔でなくて何だ!」
「俺たちは元々、こういう関係をもっていて、それで数百年を過ごしてきた。今更、四百年以上も後に生まれた者にそのような事を言われても、どうしろと?」
「那唖挫、貴様、男でありながら妾などと言われて、何とも思わないのかッ?!」
 自分の事が見えなくなっている征士は自分の事を棚に上げてそう言った。
「普段は何とも思わないが、お前のような奴にそう言う言われ方をすると思う事もある。」
「何?!」
「光輪、お前、妾という言葉を不潔だと言うが、それは何故だ?」
「妾とは日陰者で……ッ」
 そこで征士は、世故に全く通じていない若者の偏見と差別感に満ち溢れた演説のようなものをぶちまけた。
「お前の言い分はよく分かった。」
 那唖挫はそう言うと、腕を組んで見下ろすような視線を征士に送る。
「ところで俺の母親は妾で、当然ながら俺は母と父が男女の交わりをしたが故に、ここにこうして立っている訳だが、俺は生まれついての日陰者と言うのか?光輪の名を持つお前が。」
「………」
 一種の後出しじゃんけんのようなものだが、自分が言った事が言った事だけに、征士は沈黙せざるを得ない。
「思うのは、勝手だ。俺は人の頭の中まで指図するようなつもりはない。己の軍の兵や薬師の弟子達相手には最低限の心構えぐらいはたたき込むが、それとこれとは別だろう。妾や愛人をお前がさげすむのなら頭の中だけにして欲しい。ただ俺の前で、俺の母をおとしめるような事は言わないでくれ。」
 まるで如来像のような微かな苦笑を浮かべて那唖挫はそう言った。
 遙か昔の戦国時代、恐らくは名のある侍の妾の身分に置かれていた女がどのよう辛酸を舐め、それを息子の那唖挫がどう見ていたか、その笑みで征士は理解してしまった。
 取り返しのつかない事を言った。
 それは分かるが、それでもやはり納得出来ない。こんな乱れた関係のただ中に悪奴弥守を置いておく事は出来ない。
「螺呪羅、お前は、悪奴弥守の事をどう思っているのだ。那唖挫の事も!」
 やり場のない怒りを、征士は直接的な言葉で螺呪羅に向ける。
「だから言った通り、悪奴弥守は山ノ神だ。那唖挫もまた、似たように可愛く、いたわり守るべき者だ。時には厳しく躾けながら。」
 躾け。
 その言葉が出た途端、那唖挫は妙にもぞもぞと動きだし、征士に背中を向けて元の書斎の方へ向かった。
「長い話になりそうだな。何かあったら呼んでくれ。」
 そう言い捨てて、ドアの奥に引っ込んでしまう。
 それを見届け、征士はガラステーブルの上に二冊の辞書を乱暴に置くと螺呪羅の正面のソファに座った。
「それではどれだけ長くても構わないから、お前の悪奴弥守に対する扱いと関わり方を教えてもらおうではないか!」
「正気か光輪。四百年分だぞ。」
「私が構わないと言っている。」
「そうか。」
 螺呪羅もそれまで広げていた新聞を畳んでソファの脇に寄せた。
「お前は何故、悪奴弥守を抱こうと思った。守るべき者と言ったな。だが先日、お前は悪奴弥守をあんな……」
 自分の目前で嫌がる悪奴弥守を犯した事を、征士は全て言い切ることが出来ない。
「最初からそういう抱き方をしたからそうなってしまうのだろうな。」
「何?」
 征士が紫色の眼を極限まで見開く。
「言っただろう。俺は悪奴弥守を得たいと思ったから、汚い手管で無理矢理抱いた。そうすれば悪奴弥守が俺のものになると勘違いしたのだ。それから何度も、苦しがる悪奴弥守を強引に抱き続けた。それでも悪奴弥守は得られなかった。」
 征士は息を飲んで、螺呪羅の次の言葉を待つ。
 それを見据えながら、螺呪羅は征士の前に細長い指を持つ大きな掌を差し出した。
「こうして手を伸ばすと、奴は、いまだに身をこわばらせる。」
「悪奴弥守が---?」
「もう体に染みついた習い性になっているのだ。俺が悪奴弥守を守りたいと、手をさしのべても、あの体が逃げようと緊張する。奴自身が気づいているかどうかも怪しいが、俺にははっきりと分かる。悪奴弥守は本能的な男だ。もはや”本能”で、俺に素直に対する事が出来なくなっている。」
「……………」
「最初から悪奴弥守を陥れるようにして抱き、傲慢な思い上がりで悪奴弥守の弱みにつけこみ続けた男に、奴は心の全てをさらけ出す事が出来なくなっている。少なくとも俺にはそう見える。」
 淡々とした語りの中に荒れ狂う螺呪羅の感情を、征士は想像した。それは、今の自分と”未来の自分”の心のあり方を示唆しているようだった。
「光輪。生命と本能と、自然を表すように近しい存在だからこそ、闇魔将に選ばれた男が悪奴弥守だ。考えてみれば、生命や本能は人の法に縛られるものではない。自然もまた、誰か一人のものになるものでもない。俺はそれに思い当たるまで、百年に近い時を費やした。そしてお前の生は、百年も持たない。」
 螺呪羅の言葉に、征士は微かな嘘を感じ取る。螺呪羅は性に奔放な悪奴弥守を何とか独占しようとあがいたが、どうすることも出来ず、結局、悪奴弥守の属性に対して理由をこじつけて、自らを欺いているように征士には聞こえた。
「自然も、生命も、悪奴弥守という存在を成り立たせる一部に過ぎない。螺呪羅、お前はそうやって、自分をごまかしているだけだ。自分も、那唖挫や他の人間と体をつなぐから、悪奴弥守に貞節を求められないだけではないか?」
 おかしそうに螺呪羅は笑い出した。
「なるほど、それは確かに真実の一角を鋭くついているな。そういう考え方も出来る。確かに俺自身が悪奴弥守に対して貞淑を求められるような男ではない。」
 そして笑うのをやめて、螺呪羅はこの男にしては珍しい真顔になった。
「光輪よ、お前が”絶対の真実”と思うものを見いだし、それを悪奴弥守に差し出したところで、悪奴弥守はそれと同じものをお前に返すとは限らない。むしろその可能性の方が少ないだろう。真実とは一つではないのだ。」
「私はお前と文学の講義をするつもりはない!」
 語気を荒く征士が一蹴すると、螺呪羅はまた自嘲とも嘲笑ともつかない複雑な笑みを浮かべた。
「……なるほどな。お前から見れば文芸は嘘、美術は虚飾、そう見えるだろう。それらから心に語りかけてくるものを感じ取るようには出来ていない訳か。」
「何が言いたい?」
「孤独な男だと言ったのだ。」
 それは征士を見下し、小童扱いしている訳ではない言葉だった。
 その時に螺呪羅の声には、征士に対する尊敬もはっきりと含まれていたのだ。
 それなのに、征士はまるで自分が奈落の底にでも突き落とされたような激しい衝撃を感じた。
「孤独---?」
「今はまだ早い。娑婆世界のこの国の平均寿命は八十年余と言う。それまでに、時をかけて孤独という事はどういう事か、身をもって知っていけばよい。」
「私には、当麻や遼たち、仲間がいる。他にも、家族や……」
 言いかけて、征士は自分こそが偽りを言っているような気持ちに駆られてきた。
「ならばその仲間と家族を大事にすることだ。異なる世界の将軍である悪奴弥守にここまで恋着し、縛り続けたところで、お前は奴を手に入れる事は出来ない。そもそも、悪奴弥守は誰かの手のものになるような男ではない。阿羅醐だけは別だったが、それは奴の孝の心が縛り付けただけだ。---阿羅醐だけが特別だったのだ。」
「お前はそれでいいのか、螺呪羅。阿羅醐が倒れてからもう何年にもなる。悪奴弥守を追憶の中でのみ愛される男にしておくのか。それもお前の、嘘と幻想の力で!」
「---それが悪奴弥守にとって幸せなら、俺はそれでいい。」
「辛くないのか!こんなにも、……」
 征士は苦渋の表情で認めた。
「こうしてい話していれば、嫌でも分かる。お前は悪奴弥守を真実、愛している。それなのに、悪奴弥守にはそれを疑われてすらいる---辛くないのか。それで平気なのか?!」
 若さの高ぶる征士に対し、螺呪羅は年相応の余裕の態を崩さなかった。
「どんな辛い状況でも楽しみを見いだし、心から笑う事が出来る。その心が忍。」
 それが螺呪羅からの回答だった。
「お前からすれば汚い泥沼のような関係かもしれないが、俺はその中にも蓮華を見い出せる。そしてその蓮華を人々に見せる事も出来る。そういうふうに出来ているのだ。」
 征士は納得出来なかったが、同時に、螺呪羅の言葉を覆すだけの”真実”を自分の中に見いだせなかった。全く異なる価値観でも、そこに信じる心の強さがあれば、他者の価値観を打ちのめす事は出来る。
「那唖挫は……」
 最初と比べて覇気を失った声で、征士はそう言った。
「那唖挫は、お前と、悪奴弥守の事をどう思っているのだ。汚い泥沼のような関係と、今言ったな、螺呪羅。」
「それは本人に確かめてみるのがいいだろう。お前はそういうことに向いている男だ、光輪。」
 そして螺呪羅は寄せていた新聞を膝の上に持ち上げた。
 話は終わったのだ。征士と螺呪羅は欲するものは同じでも、そのあり方が違いすぎる。
 

wavebox


↑よろしければ一言どうぞ! 励みになります(*'-'*)