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花散らすケダモノ AB型でどこまで許されるか
 魚の香ばしい匂いがした。

 大根を刻む規則正しい音が聞こえる。それと、やかんの沸いた音。

 台所の方からいい匂いと古き良き日本の母のような気配がした。

 目を開くと初夏の早朝の爽やかな陽光がカーテンの隙間から差し込んでいる。

「……?」

 征士が怪訝に思う。料理の出来る悪奴弥守は自分の隣でまだまどろんでいるのだ。

 螺呪羅が自分達のために朝食を作ってくれるとは思えない。そもそも、螺呪羅の作る朝食を征士は食べたいと思わない。

 征士が不安に思いながら上半身を起こすと、その気配で悪奴弥守が眠たげに目をこすりながら枕から頭を上げた。

「おはよう、光輪。」

「ああ、おはよう。」

 疲れが取れない様子の悪奴弥守の頭を撫でて、ベッドから降りると征士はシャツとデニムに着替える。すると、悪奴弥守もベッドの上でたどたどしい手つきで着替えを始めた。

「まだ起きなくてもいいぞ。」

「いいや、起きないとまずい。怒られる。」

 寝ぼけた声で悪奴弥守はそう言った。

「怒られる?」

 螺呪羅の事でも気にしているのだろうか。彼は、結局居間のソファで眠った。一応、礼儀として毛布などの寝具は征士が貸したため、風邪を引く事はないだろう。

「螺呪羅。」

 寝室から出て居間へ向かうと、ソファの上では螺呪羅が畳んだ毛布をクッション代わりにして新聞を読んでいた。朝刊が届く時間帯ではあるが、朝はまだ早い。

「意外だな、朝は早いのか。」

 思わずそう言ってしまってから、征士は気がついた。それでは台所にいるのは一体誰だ。

「奴が食べたらすぐ寝たいと駄々を捏ねるので起きただけだ。普段は、もう二刻ばかり寝ている。」

 新聞から目も上げずに螺呪羅はそう答える。意味が分からず呆然としている征士の後ろからすたすたと悪奴弥守が台所に向かった。

 確かに状況の確認が先だろう。慌てて征士も台所へと入る。そして凍りついた。

「朝飯はなんだ?」

 まだ寝ぼけてそんなことを聞いている悪奴弥守の前に、長着を襷がけにしてフライパンで目玉焼きを空中回転させている毒魔将がいた。恐ろしい事に、その姿は似合う似合わないに関わらず非常に堂に入っていた。

「蛋白源は魚と卵と、鶏。後は青菜と人参と大根を使うぞ。それとは別に香味を……あ、そうだ。」

 声もなく立ち尽くしている征士を無視し、那唖挫は寝起きで見るからにぼーっとしている悪奴弥守に向かった。

「それを取ってくれ。」

「それ?」

 那唖挫は火の前で調理中のため手を動かせない。

 視線だけで悪奴弥守は那唖挫の“それ”を理解して、テーブルの上においてある透明のビンを手に取った。

「そう、それ。」

 那唖挫が頷いたので悪奴弥守は頼りない足取りで彼の方に瓶を持っていく。

「何だこれ。」

「松前漬け。お前、好きだろう?」

「うん。」

 那唖挫は瓶の蓋を開けると菜箸で中身をつまみ、無言で悪奴弥守の口の前にひょいと持っていく。

 悪奴弥守は自然な仕草でその松前漬けを食った。

「どうだ?」

「うまい。」

「そうか。」

 ひょい

 ひょい

 ひょい

 三回ばかり続けて悪奴弥守に食わせた後、那唖挫は漸く自分が松前漬けを一口食った。

「……もう少し漬け込んだ方が俺は好みだな。まあ次にそうするか。」

「お前が作ったのか?」

「ああ。毒を作っていて昆布が余ったから挑戦してみた。」

 一体どうやったら毒を作っていて昆布を余らす事態に陥るのだろうと征士は考え込む。例えばの話、かつての戦いで昆布の余りで遼が一時的に視力を失っていたのだとしたらとても嫌だ。

 しかし悪奴弥守はその発言をなんとも思っていないらしく、那唖挫の隣に立って彼の作る朝食を覗いている。

「ん? どうした?」

 手馴れた仕草でてきぱきとサラダを作りながら那唖挫がきく。

「いや、お前、相変わらずこういう仕事の手並みは鮮やかだなと思って。」

「ふん。」

 勝ち誇った笑みを那唖挫は浮かべると、そのまま近くにあった悪奴弥守の顔に顔を寄せ、普段どおりに軽くくちづけた。

「無礼者――――!!!」

 そのナチュラルきわまりないキスにより茫然自失していた征士は正気に返り、朝っぱらから怒髪天を衝いて叫んだ。

 それに対して那唖挫はいかにも彼らしい“何この虫ケラ”という顔つきを向ける。

 確かに人の家に文字通り“勝手”に上がりこんで勝手にそこらの器具を使って豪勢な朝食を作り勝手に置いた松前づけを勝手に悪奴弥守に食わせて自分も食って勝手に悪奴弥守にキスをしたのは那唖挫だ。中間はともかく最初と最後は常識的に考えて無礼と言われても仕方がない。

 しかし那唖挫の冷たそうな白い顔にそんな表情を浮かべられて凝視されると、征士の方が怯みそうになる。ちなみに那唖挫は三魔将の中では最も礼儀作法に通じて上品な男という定評があった。

「誰の断りがあってそのような振る舞いを……!」

 だが己を鼓舞して征士はそこまで怒鳴った。

「誰の断りがあって悪奴弥守を病にした?」

 そのときたまたま握っていた包丁を逆向きにもって自分の肩を叩きながら那唖挫が言い放つ。

「や、病……?」

「医者が病人の居場所にかけつけて何が悪い。感謝こそされ無礼などといわれる筋合いはどこにもない。」

「医者って、那唖挫……」

 悪奴弥守の体を医者に見せたいとはずっと思っていた征士は戸惑い、口篭もる。確かに妖邪界のものであり、現代医学の方面は怪しいが、那唖挫は悪奴弥守の肉体の事をある程度以上把握しているはずだ。話のもっていきようによっては、悪奴弥守が現代文明に対して拒否反応が出ないように何らかの対策を講じてくれるかもしれないのだ。

 だがしかし。

「俺は薬師だ。現代の日本語に直せば医者であり、薬剤師だ。そして四魔将の一人で、転生当時から悪奴弥守とは仲間。仲間の体に不調があったら最優先でそれを癒すのが役目。それに文句があるのか貴様は。それなら俺の方にも文句はあるが。」

 そう言って那唖挫は征士の顔面のほうに包丁をつきつけた。人に刃物を向けてはいけないと親に教わらなかったらしい。

「五年前からな、お前と会って帰ってくるたびに悪奴弥守は熱を出すわ発疹は起こすわ嘔吐は起こすわ頭痛腹痛眩暈痙攣呼吸困難食欲不振に喉の痛みに目の痛み、ありとあらゆる症状を起こして俺の手を煩わせてくれたんだが?いや無論、悪奴弥守を癒すのは俺の役目なのだし、医者が病人を責めるのは間違っている。問題は、そんな状態になるまでお前は俺の悪奴弥守に一体何をしてくれてやがるんだということだ。」

「お、俺の悪奴弥守……?」

「何だ。何か文句あるか。ここ四百年以上の戦乱のさなか、悪奴弥守を死の淵から救うために手傷も病も全て治してきたのはこの俺だ。勿論、五年前にお前が悪奴弥守にぶっ放した雷光斬の傷も含めて。」

 包丁を上下にゆらゆら揺らしながら那唖挫は毒舌を吐きまくる。

「……那唖挫、お前、さっきから何か誇張しすぎてないか? 俺、別にお前のものになった覚えはないぞ?」

 のんきに頬を指先でかきながら悪奴弥守が那唖挫の顔を見る。

「ああ、少し、省略してしまった。“俺のもてる技全てを使って癒し続け救い続けてきた大事な命である悪奴弥守にナニするとはいい度胸だこの色ボケマセガキ五体満足で冥土に逝けると思うなよテメエ逆さ吊りにして頭から毒蛇風呂に突っ込んでやる”と言いたかったのだが、何しろ研究続きの睡眠不足で頭が少しぼーっとして……」

 “”内はまるで超音波のごとき早口だった。まだ寝ぼけている上、言葉には弱い悪奴弥守にはよく聞き取れなかったらしく彼は首を傾け目を瞬いている。

しかし、征士は元々地獄耳であるために全てをはっきり認識していた。

 そのため、例によって例のごとく、頭の中が物凄い事になったが、物凄すぎてすぐには何も言い返せない。

「なんだ、またぎりぎりまで寝ないで頑張っていたのか? 天空と界渡りの時差を出すって言っていた奴か?」

「ああそうだ。それならちゃんと出来たぞ、悪奴弥守。天空は確かにいい学者になるな。」

「そうか、頑張ったな。大変だったろう。」

 そう言って、悪奴弥守は那唖挫の緑の頭に掌を置くと、まるで犬か猫に対するようになでなでと撫で回し始めた。

 その瞬間、那唖挫の全身に変化が起こった。

 征士に向けていた毒魔将の毒気は全てナリをひそめ、かわりにひなたぼっこをしている小動物の出す、見えない癒しの物質をあたりに分泌しながらすりすりと悪奴弥守の手に頭と顔をなすりつける。

「……………」

 そのあまりに急激な変わりように征士は怒る気もせず、ただただ呆然と見守るしかなかった。

「天空と仲良くしてきたか?」

「お前達にそう言われると思って、喧嘩はしなかった。でも、論争はした。俺もあやつも学者なので、長丁場になったが勝負は決まらなかった。」

「そうかあ。それなら疲れたなあ。」

「うん。……そうだ、悪奴弥守。頼みがある。」

 那唖挫は包丁を持ってない左手でくいくいと悪奴弥守の腕を引いた。

「うん。いいぞ。何だ?」

 そういう態度を取られるのをなんとも思ってないらしく、悪奴弥守は素直に那唖挫の方を見る。

「後で寝る場所で口使ってくれ。」

「くちなわ―――!!!」

 このとき、征士の上げた絶大なる奇声には勿論何の意味もない。

 那唖挫と悪奴弥守の不思議そうな視線が彼に集まる。悪奴弥守は純粋に心配そうだが、那唖挫は“頭が”心配そうな目を征士にむけた。

「若者が何の妄想をしているかは知らんが、悪奴弥守は口で相手の体を最高の健康状態にもっていけるのだ。俺は睡眠不足で疲れていて調子が悪くなるかもしれないから悪奴弥守に安息を使ってもらおうとしただけだ。何か問題が?」

 冷え冷えとした口調で那唖挫が言う。

「え……あ……」

 自分でも訳のわからない単語を渾身の力をこめて叫んでしまった自覚のある征士は、那唖挫の言葉により非常に恥ずかしい勘違いをしたかのような気分にかられてうつむいた。

「す、すまん……」

「ふん。」

 那唖挫は小生意気に鼻を鳴らして調理台の方へ向き直った。

「それでいいのか、光輪?」

 そのとき、台所の戸口の方からまた別の男の声が聞こえた。

 昨日、征士が最大の敵と決めた美貌の男は新聞を片手に戸に寄りかかって面白そうに征士を見ている。どうやら、征士の朝っぱらからの雄叫びを聞いて何事かと寄って来たらしい。

「……何だ?」

「お前、悪奴弥守がどうやって相手を回復させるのか知っているのだろう?認めてしまっていいのかと聞いているのだ。」

 征士は自分でも顔から血の気が引いていくのを感じた。

 結局、那唖挫は悪奴弥守に寝床でキスをしろと要求している。謝っている場合ではない。

「あ、悪奴弥守っ!那唖挫っ!」

 慌てて二人の方へ駆け寄る征士の背中を、螺呪羅はある意味、愛情のこもった片目で眺めて楽しげに微笑んだ。

 那唖挫に苦労させられる人間が増えるのは、少しばかり嬉しい。

 

 

 

 毒魔将の攻勢は続いた。

 戦国時代に薬学といったら本草学である。すなわち、薬草になる植物は勿論、玉石、木竹、禽獣、虫魚、亀貝、などなど自然界のあらゆるものから薬を作り出すのが目的の学であり、現在の自然科学の基とも言えるだろう。そして本草の学者は、医者であることと、ある程度以上の調理スキルが求められた。医食同源というのが現代の言葉だが、那唖挫達の時代において食物で体調を整える事と薬を与える事は同じ根であった。

妖邪界で四百年間その学問をねちねち攻めていたわけだから、那唖挫の調理スキルは100がMAXなら120。1000がMAXなら1100ぐらいは軽くいくだろう。そこに確実に死に至る毒薬が入っていたとしても食う奴は必ずいるというレベルの朝食を彼は作り上げた。

 しかし、彼はどこに出しても恥ずかしくない立派な偏食児童だったのである。

 朝食の席順は悪奴弥守の前に那唖挫、那唖挫の隣に螺呪羅、螺呪羅の手前に征士という、ごく自然に那唖挫と征士を切り離すものであった。

 そして、悪奴弥守が白飯に対して合掌を終わらせた途端に事件は起こった。

 那唖挫が箸でせっせと自分の皿から悪奴弥守の皿に肉や野菜を移動させ始めたのである。

「……那唖挫?」

「寝てないから食欲ない。悪奴弥守が食え。」

 当然のようにそう言って、大根サラダの大根だけ食べる那唖挫。

「お前、それなら何で自分の皿に料理を盛るんだ。」

「皿が寂しいのは嫌だから。」

「ダメだろう、そういうわがままばかり言っては!」

「わがままではない。ちゃんと、理由は言った。」

「どこが理由になってるんだ、皿が寂しいのは嫌って、理屈にもなってないだろう。」

「分かった、それじゃ、“俺の皿だけ寂しいのは嫌だから。”」

「……………」

 黙ってしまった悪奴弥守の皿がどんどんにぎやかになり、那唖挫の皿は寂しくなっていった。

「那唖挫、一つ聞くが。」

 螺呪羅が隻眼で那唖挫の白皙を見つめる。

「何だ。」

「お前、単に皿に盛る時は何も考えていなくて、席についた瞬間、食欲がなくなっただけではないか?」

「それも少しある。」

「ダメだろう!」

 螺呪羅に対して後ろめたい点を認めた那唖挫を、即座に悪奴弥守が叱りつける。

「だって食べられないし……。」

「お前な、これだけ料理作っておいて自分は食べられないってそういうのはダメだ。」

「だから悪奴弥守が食べてくれればいい。」

「そういうのをやめろって何百年言わせるんだお前は。食べ物は大切にしろ!」

「だから大切に食べてくれ。」

 ちょんちょんと自分が作った料理の皿を箸でつつく、恐ろしく行儀の悪い那唖挫。

「俺が言っているのは、お前が、自分で作った料理をちゃんと食べろという意味だ!」

「無理。今は寝てないから特に無理。食べたら、消化器の問題で本当の意味で食べ物を無駄にする事になると思う。」

 体調の問題を出されるとさすがに悪奴弥守も強くは出られないらしく酸っぱいものでも食べたような顔になった。

「何だったら食べられる、那唖挫?」

「大根とキュウリ。」

「それだけか?!これだけ作っておいて?!」

 悪奴弥守はそう驚き、テーブル全体を華やかに彩る朝食を見回して征士も絶句する。

「専門の事は分からないが蛋白質は取っておけ、那唖挫。」

 螺呪羅が軽く口添えをする。

「んー……」

 あからさまに那唖挫は気が進まない様子だった。そしてどうも、悪奴弥守よりも螺呪羅の言う事は聞く節がある。

「那唖挫は、食べるのに苦労した事はないのか?その、時代的に……」

 控えめながらも征士が抗議する。戦国時代に生まれた訳ではないので、彼らしくきっぱりとした物言いは出来なかった。

「俺は食べる事では困らん家に生まれたし、親にも食べる事の偏りで注意された事はない。」

 悪奴弥守の前で堂々とそういう事を那唖挫は言い切った。

 怒るかと思いきや、悪奴弥守本人は眩暈をこらえるように頭を抑えたまま黙っている。あまりにも大きすぎる貧富の差や生活環境の相違には、文句を言う気も起きなくなるらしい。


「聞くが那唖挫。自分で作った料理を人に食べさせておいて、自分は食べないというのは礼儀に反するのではないか?」

 征士がそういうと、那唖挫は少しも堪えてない顔で言った。

「自分が作ったものを全て体に取り入れなければならないというのなら、俺は自分が作った毒薬も劇薬も体内に投与しなければならなくなる。そんなことが出来るわけあるか。」

「……………」

 征士は言葉を失った。

 目の前にある美しく豪華な朝食は、那唖挫にとっては毒薬も同然らしい。

 しかし、彼は本草学という毒や薬を作る学問の一環として料理を学んだために感覚としては似たようなものなのだ。

「お前は本当にいくつになっても屁理屈ばかり達者で……」

 そう言って悪奴弥守はげんなりとため息をつく。

「だから、俺とお前は一歳しか年が違わないと言っているのに。これだけ年取っておいたら一歳や二歳、そんなに変わらないぞ。」

「だったら尚更、その偏食を治せ、那唖挫!」

「これだけ年数を重ねて治らなかったものがそう簡単に治るか。そして誰も治す事が出来なかったんだ。お前も含めてな。」

 小憎たらしい事を抜かして、那唖挫はキュウリの酢漬けを食う。

「悪奴弥守、そこの鶏を那唖挫に食わせてやるといい。」

「俺が?」

「そう。いつものように。」

 サラダに使っているあっさりした味付けの鶏を、悪奴弥守は箸に取った。

 そして、やったのは、“はい、あーんして”だった……。

 ぽかんと四百二十二歳年上の妖邪帝国の重鎮中の重鎮を魅入る征士に、螺呪羅は頷く。

「四百年かけて偏食を治す研究をしたところ、こうしてやれば那唖挫はある程度は食えるらしい。勿論、限界はあるが。ちなみに、悪奴弥守限定だ。」

 確かに、そういう理由なら、悪奴弥守が拒むはずはない。

 その点については征士は納得せざるを得なかったが、疑問は残った。

(悪奴弥守の性格を知っていて、わざとやっているのではないだろうな?)

 先ほどの毒舌からそれは予想することが出来た。

 

 

 

 征士が呆然としたまま、朝食が終わった。呆然としながらも、征士でさえ一切注文がつけられない味と触感が口の中に残っている。

 しかし、毒魔将の攻勢はまだ続いた。

「悪奴弥守、そこの手拭をとってくれ。」

「ああこれか?」

「そう、それで食器を拭いてくれ。俺が洗うから。」

「……え?」

 清潔なタオルを片手に間抜けな顔をさらす悪奴弥守に那唖挫は鋭く眼を光らせる。

「まさか貴様、食いっぱなしで、俺に全て片付けさせるつもりだったとか抜かす訳ではないだろうな?」

「い、いや、そんなことはないぞ?」

「それならここの食器を下げて、俺の隣に立て。」

 俺の隣に立て。

 何故、食器を洗って片付ける時にそういう言い方になるのだろう…。

 出された茶を飲み干す事も出来ないままテーブルに座りこけて征士は那唖挫の様子を窺う。窺うというよりも、呆けたまま眺める。

 しかし悪奴弥守が言う事を聞いて食器を下げて那唖挫の隣に立つと、彼は非常に上機嫌になって慣れた手つきで汚れ物を洗い始めた。

「あれ、お前、洗剤の使い方、知っているのか。」

「ここに説明が書いてある。それに、天空の研究室で、ビーカーや試験管を洗うこともあったからな。」

「そうか、天空は元気だったか?」

「疲れすぎて逆に元気になっていた。言う事がいちいち豪快で、面白かったぞ。」

 つまりランナーズハイの一種になっていたらしい。

「何でそんなに疲れていたんだ?」

「天空は亜米利加という国の何やら物々しい研究機関に招かれたそうだ。しばらくそこに身を置いて学究に励むらしい。そのために身の回りの整理をして、異国で生活する準備をしていた。何週間後かの光輪の誕生会には参加できるが、それ以外は休みが全くないそうだ。」

「異国に渡って新しい学問に挑戦という事か?お前もそういう事をしたかったか、那唖挫?」

「興味はあるな。……ん。」

 そのとき、不可解な現象が起こった。

 那唖挫が泡にまみれた皿を両手に持ったまま、隣に立っている悪奴弥守の肩に顔の横を当て、上下左右斜めにこすつけたのだ。

(………?!)

 言うまでもなく征士にとってそうした行動は腹が立つ事この上ない。

 しかし、那唖挫が何のためにやったのか皆目見当がつかないので文句のつけかたも分からない。

 対処に困っているうちに那唖挫は顔を離してぶるぶると頭を左右に振った。それを見ながら悪奴弥守は手に持っていたものを一旦、台におくと何も言わずに那唖挫の鼻に爪を当て、かりかりと優しく撫でた。

(……………?!!)

 那唖挫は顎を撫でてもらっている猫のように満足げに目を細めて笑うと皿洗いを続行する。悪奴弥守は軽く頷いて皿を拭く仕事に戻る。

(猫の匂いつけ……?)

 それに似た現象のようにも見えるが、それでは悪奴弥守の行動の意味が分からない。第一、那唖挫は猫ではない。蛇だ。

「悪奴弥守、今のは一体……?」

 恐る恐る、征士は質問してみた。

「何だ光輪?」

「今の、那唖挫の、……頭は?」

 そこで“頭は?”という単語が出てしまうあたりに征士の那唖挫に対する改まりまくった認識を確かめる事が出来るだろう。

「ん?」

 悪奴弥守は怪訝そうな顔をして征士を振り向き、そこで初めて何かに気付いたような顔をした。

「ああ、ひょっとしたら那唖挫が俺の肩を借りた事か?」

「……そう、それだ。」

 ひょっとしたらも何も、今、人に聞かれてしまうような言動はそれしかない。

「那唖挫は耳がかゆかったんだよな?」

「み、耳?!」

 度肝を抜かれる台詞に征士はその一語しか発する事が出来なかった。

「うん。」

 それが当然であるらしく、那唖挫は素直にそう返事をした。

「だから、鼻もかいてやったんだ。」

 一体、何が“だから”なのだろう……。

 だんだん気が遠くなってくるような感覚を覚えながら、征士は椅子から立ち上がる。

「那唖挫!耳がかゆかったら、自分の手で耳をかけ!!」

 人として当然の怒りにかられて征士が大声を出す。

 すると振り返りもせずに那唖挫は言った。

「嫌だ。耳をかいた手で皿を洗いたくない。不潔だ。」

「皿を洗う前に手も薬用石鹸で洗えばいいだろう!」

「手が荒れるかもしれない。」

「手が荒れたら薬品で治せばいい、貴様は薬師なのだろう!」

「―――何を言っているのだ軟弱な現代人が。」

 そう言って那唖挫はまた侮蔑のために鼻を鳴らした。

「何でもかんでも薬に頼るあたりが惰弱すぎて話にならん。そんなことで本当に人の健康が守れると思っているのか、半端に知識ばかり手に入れおって。モノや他人に頼らず自力で何とかしようとせん奴には健康は絶対に手に入らないようになっているのだ愚か者。」

 現在、自分で耳をかきたくなくて人の肩を借りた男がそう言った。そもそも、皿を洗うのも隣に誰か立ってくれないと嫌な様子の四百歳が、そう言い放った。

 唖然とする征士に那唖挫は背中を向けてまだまだ言う。

「大体、悪奴弥守が俺に何も言わずに肩を貸してくれたのに何故、貴様がでしゃばってくるのだ光輪? 悪奴弥守の肩は悪奴弥守のものであって、貴様のモノではない。それとも貴様は悪奴弥守の肩やどこか体の一部を自分のモノと主張出来るような論理的具体的根拠でもあるのか?」

「~~~~~!!」

 恐らく、昨夜、征士と悪奴弥守が眠りについている間に、螺呪羅が那唖挫を呼びつけて、事情をある程度以上、話してあるのだろう。

 そして、いかに征士といえども、この手合いに悪奴弥守に関する何らかの権利を主張するのはためらわれた。那唖挫の悪奴弥守への甘ったれぶりも凄いが、それをなんとも思わず甘やかしている悪奴弥守も物凄い。その凄さを一つ一つ述べていたらまだ午前中なのに日が暮れそうな勢いだ。

 何よりも引っかかるのが、那唖挫が最初に言った台詞である。四百年以上ずっと、悪奴弥守の体を癒し命を救い続けてきたのが医者である彼ならば、考えようによっては彼がいたからこそ悪奴弥守は今生きて征士の前にいるという事になる。それは、五年前の自刃の件も含めての話だ。那唖挫が“俺の悪奴弥守”などと抜かしたその場で武装できなかった最大の理由はそれだった。

「那唖挫、お前、何さっきからピリピリしてンだ?」

 そんな時に悪奴弥守はのほほんとしたものだった。

「だから睡眠不足なんだ、悪奴弥守。これを洗い終わったら俺は寝るぞ。」

「しょうがねえなあ。でも自分が眠いとかどこか痛いとか、そういう理由で人に当たるな。よくないぞ。」

「……うん。そうだな。」

 妙に大人しく那唖挫は従う。だが征士に謝りはしない。

「それで悪奴弥守、お前は今、どこか悪いところはないか?」

「ああ、今は大丈夫だと思う。」

「寝て起きたら、俺が診てやる。」

 征士は複雑な気持ちで期待した。それこそ何百年も悪奴弥守の体を守ってきた那唖挫だ。彼の体について問題解決の糸口を握っている可能性は大きかった。

 しかし何よりの問題は、何故問題を解決できそうなのがこんな問題児なのかという事だとも思った。

 

 

 

 毒魔将の攻勢はまだまだ続いた。

 ここまで甘ったれなのに、彼は今回、攻めていた。

 食後の後片付けが終わると那唖挫はいかにも眠そうな頼りない足取りで居間へ来て、螺呪羅が座っている向かいのソファにくたんと倒れこんだ。

「寝台へ行かないのか?寝室は向こうだぞ?」

 CDケースを裏返してなにやら眺めていた螺呪羅がそう促すと、那唖挫はただ頭を左右に振って口の中で聞き取れない単語を発する。研究疲れで眠い事は本当だったらしく、もう完全にギブアップの様子だった。

 一方、悪奴弥守は実は毎日手入れをしていた観葉植物を手慰みにいじっていた。

 元々、悪奴弥守は植物にはそれほど興味はない。だが、その観葉植物が彼の周りでは見かけないものであったことと、暇だったこと、それと書斎にその観葉植物の本が置いてあった事で何となく世話をしていたのである。どうやら、現代日本のものに全く関心がないという訳ではないらしい。

 そして、悪奴弥守は一つのことに集中するとあまり周囲に気を配れなくなるタチだった。

「悪奴弥守―、眠いー。」

 不意に、那唖挫が倒れていたソファから頭だけ起こしてそう言った。

「あー…寝ろ。」

 そう言って、悪奴弥守は本に書いてあったとおりに変色している葉をそっと引きちぎる。

 すると那唖挫は不服を顔に出したが、またぱたんとソファに頭を落とした。

 悪奴弥守はそれに気付いているのかいないのか、観葉植物の色や艶を本の写真と見比べている。

 しばらく経って、那唖挫はまた顔を上げた。

「悪奴弥守、眠い。」

「だったら、寝ろ。」

 そう言って悪奴弥守はまた注意深く変色している葉を探し出してちぎる。那唖挫は恐ろしく不満そうな顔をして、螺呪羅が畳んでいた毛布を何度か叩いた。だが、それでも悪奴弥守が自分の方を向いてはくれない事に気付くと、ぱったりとソファの革の上に顔を突っ伏させる。

 悪奴弥守はなにやら疑問に思う事があったらしく、立ったまま本のページをめくって口の中でブツブツ言い始めた。現代文には全くなれていないため、文章を読むだけでも一苦労らしい。

 そのまま一分ほど経った後、那唖挫は上半身を起こした。

「悪奴弥守!眠い!」

 何故か、彼は怒り始めていた。

「だから、寝ろって。そこの長椅子でも寝台でも、光輪に言って寝かせてもらえ。」

「違う!」

 すっかり怒って那唖挫は立ち上がるとズカズカと大またに悪奴弥守に近づいていく。

「……うーん?」

 まだ本に集中して首をひねっている悪奴弥守に後ろから、那唖挫はがっぷり抱きついた。

「?」

 さすがにびっくりしている悪奴弥守の体を抱いたまま那唖挫は後ろに歩き始める。そのバランス感覚は毒魔将のものとしか言えない。

 そしてその不自然な姿勢で悪奴弥守を自分が寝る予定のソファまでつれてくると強引に座らせてしまった。続いて自分もその隣に座る。

「何だよ?」

 悪奴弥守がそう言って立ち上がろうとすると那唖挫は怒りを隠さずにその太腿をべしべし叩く。

「……ああ。」

 悪奴弥守はなにやら納得したらしく、ソファに深く腰掛けた。

 それを見て那唖挫は至極満足そうに微笑むと背筋を伸ばして悪奴弥守の向こう側の脚まで上半身をもっていって寝そべる。もう今にもゴロゴロ喉を鳴らさんばかりの姿であった。

「那唖挫、お前、人の家に来た時ぐらい、一人で寝られるようにならなきゃダメだぞ?」

「んー……今は嫌だ……」

 全身を使って悪奴弥守の太腿に頬ずりしながら那唖挫はそう答える。

 どうやら、日頃、一人で寝られないらしい。そして、多くの場合、悪奴弥守に添い寝してもらっている事が推察できる。相手が誰でもいいのなら、目の前のソファで暇そうにしている螺呪羅の膝に行って寝転がればよかったはずだ。

「今、一人で寝ろ!!」

 そう叫ばざるを得ない征士だった。これは、いくら母性本能が発達した人間でも許容出来ない行動だ。多くの人類の叫びであろう。別に、征士は嫉妬しているわけではない。むしろ、嫉妬以外の多くの感情がその叫びを上げさせていた。

「何で?」

 ところがケロリと那唖挫はそう返答する。

「お前は肉体的にも十九歳で、精神年齢は四百歳を越す日本男児だろう!それが何だ、これだけ明るい天気なのに、居間で一人で眠ることも出来ないとは!貴様の周囲の妖邪兵やあまたの人間に悪いと思わないのか!」

「俺は何にも悪くない。」

 怒り狂う征士に、那唖挫は半分眠った顔でそう言った。

「何だと!」

「俺がずっと眠いと言っているのに、すぐ来て一緒に寝てくれなかった悪奴弥守の方が悪い。」

 それを聞き、脳溢血を起こしそうな征士の目前でまるでヨガでもしているようにのびのびと那唖挫はあくびをした。

「そういう事を言うなら寝ろ、那唖挫。ほら、疲れているんだろ。眠るまでは一緒にいてやるから。」

 悪奴弥守はそう言いながら那唖挫の頭や前髪、耳や頬を満遍なく撫でまわした。

 それに対してまた眼を閉じた猫の表情を見せると、那唖挫はそのまま健やかな寝息を立て始める。

「だいぶ疲れているようだな。」

 眠りに落ちた毒魔将を眺めながら螺呪羅がそう言った。

「完全に本性が出ていたな。まあ、寝て起きれば学者で魔将の方に戻っているだろう。」

 悪奴弥守がそう言って頷く。

「本性……?」

 征士が話をつかめずに聞くと、悪奴弥守は困ったように笑った。

「こいつ、寝不足も、酒にも、人一倍に強いんだよ。」

「つ、強い?」

 仰天する征士に、悪奴弥守はおかしそうに笑う。

「自分で強いと思っているから、限界がきても気付かないんだ。それで限界を超えて頑張ると、今みたいな性格が出てくる。多分、こっちが本性だ。」

「酒も四魔将の中で一番強いからな。一般にはザルといわれる人種だが、本当に酒が全く効かない人間などいない。一定量を越えると悪奴弥守や俺に人目もはばからず甘えだすので誰かが気をつけて見ていないと駄目だ。」

 まあその一定量といっても、常人の四倍は軽くいく。

 そう言って螺呪羅はからかうような視線を征士に向けた。

「言わなくても分かっていると思うが、これが俺の最大の敵だ。」

 悪奴弥守の耳を気にして怯む征士に螺呪羅は表情を変えずに眼だけ動かす。口は一切動いていなかった。

「安心しろ、これは俺とお前にしか聞こえない声だ。俺はひととおり忍術をおさめているのでな。慌てたそぶりを出すな。」

「……………」

 テレパシーみたいなものかと征士は思い、極力、体の動きを抑えて悪奴弥守と那唖挫を見た。

「見ての通り、悪奴弥守は自分に甘えてくる存在に無差別に弱い。特に年下や目下。甘えられると嬉しくなってついつい可愛がってしまう。そして、今の那唖挫だが、何の計算もしていない。」

「!!」

「だから驚いたりするなというに。正気の時ならば、計算して甘える事もあるぞ、確かに。だが元々、那唖挫は転生当時から妙に悪奴弥守に気に入られた男だ。毒魔将になったばかりの那唖挫は陰気な人嫌いで研究室に引きこもって毒ばかり作っていたのだが、悪奴弥守だけは気後れせずに毎日会いに行って家族のように世話を焼いたのだ。記憶もなく他に知り合いもない状態でそんなことをされたら、誰だってそれが当たり前だと思ってしまう。最初に手を打たなかった俺も俺だが、気がついたら那唖挫は悪奴弥守になら際限なく甘えていいと思いこみ、悪奴弥守の方もそれがおかしいとちっとも思わなくなっていた。」

 陰気で人嫌いな引きこもりだった毒使いをここまで懐かせる悪奴弥守の手腕も見事だが、ここまで人に対して人格を変えられる那唖挫もいっそ素晴らしい。

「俺には出来ん技だ。」

 それはそうだろう、と征士はこの四百歳を越した長身の美形をみやった。

「だがお前ならどうかな、光輪。何しろ悪奴弥守は年下や目下に甘えられて兄貴面するのが大好きなのだから。」

 その人の悪い笑みを含ませた言葉に、征士はどうしようもない苛立たしさを感じた。

 螺呪羅が那唖挫をわざわざ妖邪界から呼び寄せた目的の一つはそれだろう。

 悪奴弥守が征士の行動を容認していくのは“年下に甘えられたい”性質によるものであって、征士個人に対する好意とは何の関係もないかもしれないと例を示して説明くれたわけだ。

 征士の視線から何を感じているのか螺呪羅は隻眼で笑い、悪奴弥守と那唖挫に目を戻す。

 追いかけるように征士も二人を見ると、悪奴弥守は右手に水性ボールペンを持っていた。自分の太腿に乗っかってすやすや寝ている那唖挫の顔の上に悪魔の笑みを見せながら、その筆先をそっと静かに下ろしていく。無闇やたらに甘やかす一方で、こういうコミュニケーションも自然と取るような仲なのだろう。

「―――悪奴弥守。」

「!」

 征士に呼ばれ、悪奴弥守の体がびくんと跳ねる。

 しかし彼の膝で安心しきって熟睡している那唖挫はその震動にも気付かなかった。

「い、いやその……普通、やるだろ?……な? 光輪は礼儀を重んじるから、分からないかもしれないが、結構面白いぞ……。」

 その楽しい作業の魅力に、征士の前だという事を一瞬忘れていたらしく、兄貴面を捨てた悪奴弥守は妙におどおどしている。

「今、油性マジックをもってくるから待っていてくれ。」

 征士は優しい笑顔を見せて心の底から親切にそう申し出た。


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