花散らすケダモノ 契約内容
ばしゃばしゃと洗面台で水が跳ね返る音がする。
那唖挫が顔の落書きを落としているのだ。
先刻、自分で調合した洗剤で、顔面に書き込まれた油性マジックの落書きを落とした後、螺呪羅の差し出したタオルで丁寧に水気を拭いていく。
「全く、偉い目にあったな……」
そう呟いて、那唖挫はじっとりと自分を睨んでいる征士に軽く微笑みかけた。
それは一眠りする前の兇悪な甘ったれぶりを全く感じさせない透明感のある理知的な笑みで、『偉い目にあっているのは誰だと思っている』とかいてある征士の顔から敵意を取り去る程度の効果があった。
「すまんな、光輪。俺は眠る前の事はほとんど覚えていないのだが、騒々しかっただろう?何か不快な思いをさせたのなら謝っておく。」
「……………」
征士は悩んだ。これは嫌味ではなく、ダニエル・キイスの一冊も進めた方がいいのではないだろうかと。
だが、何しろ征士自身は那唖挫の薬師としての腕前を知らないので、そうした行動は慎んだ方がいいと判断した。非常に失礼な事になってしまうかもしれない。
他人を無礼者と怒鳴ってしまった以上、自分が失礼な行動を取る訳にはいかないのだ。
「謝ってくれるのなら、それでいい。それよりも、今朝、悪奴弥守の体の事について診断すると言っていたが、それは覚えているか。」
「無論。」
どうやらそうした言動はしっかり覚えているらしい。
「何か見当はついているのか?」
「今は何もいえない。まず、今回の悪奴弥守の話を詳しく聞かない事には、始まらん。ただ光輪、お前にはあとで悪奴弥守と一緒に何を食べたか聞かせてもらう。」
そう言って、那唖挫は洗面台の脇に腰を乗せるようにして螺呪羅に向かった。
「お前が一度は浄化の術を使ったのだったな? 何か気がついた事はあったか?」
「異常はない。俺に抜けるものは全て抜いておいた。ただ、疲労の度合いが全然違う。幻術を使って眠らせた上で、浄化の術を施したのだが、幻術を解除した後もしばらく寝こけておった。」
「精神的な疲労だな、それは。」
そう言って那唖挫は軽くため息をつくと征士の方を見て薄く笑った。
征士は複雑な思いで毒魔将を見返す。彼の医者としての手腕に悪奴弥守の状態がかかっている以上、対立してはならない事は分かっている。だが、彼が自然と征士に負の感情をもたらしてはいないとは全く言えない。
「そう緊張するな光輪。そのように気を張ってもいいことなどないぞ?」
そういうと那唖挫は落ち着き払った仕草で征士の肩に白い手を置いた。
瞬間、征士の肩が鋭く震える。
反射的にその手を叩き払いのけそうになる体を意志の力で制御し、征士は黙って那唖挫の方を見た。視線だけは、彼に向けておきたかった。
それを見て、那唖挫の方が怯んだような顔をした。
「親愛の表現のつもりだったが、失礼だったか。」
だがそれも一瞬の事で、那唖挫は微かな苦笑を白い顔に戻し、悪奴弥守のいる居間へと戻っていった。
「完全に医者に戻っているだろう?」
乱破の話術で螺呪羅が話し掛けてくる。
「医者だと?」
「貴様の協力がなければ悪奴弥守を治癒できない事は理解している、あれは。第一、周囲の無駄な緊張や不安、それを呼び起こす敵対心、そういうものも取り除くのが奴の役目と割り切っているのだ。少なくとも頭の中では。」
心と体が別なように、頭と心も別である。
それぐらいは、征士も知っていた。
そしてうっすらと理解する。
那唖挫の心は悌。
そして、悪奴弥守は年下に甘えられたいものだから、転生直後の記憶のない那唖挫に対し家族のように世話を焼いて『兄貴風吹かせた』のだ……。
「悪奴弥守に対する甘えぶりは、年上の家族に対するものと同じなのか、那唖挫は?」
兄弟間に育まれる親しい愛情と、恋愛感情は別物だ。そのことを聞きたくて、征士は螺呪羅に不快をこらえながら尋ねた。
「本人達は、あまりそんなことを考えた事がないようだな。ただ、光輪。悪奴弥守がお前と寝床をともにするのにほとんど抵抗がないのは奴のせいだ。」
「な……?」
顔面蒼白になるのが自分でもわかる征士に対して、螺呪羅は本当に楽しそうな笑顔を向ける。
「那唖挫は肉体は悪奴弥守より一歳だけ年下で、今は十九歳程度だ。その男が、少し寒かったり寂しかったりするとそれを訴えて枕をもって寝床の上に座ってくる。そのたびに、悪奴弥守は甘えられたと思って布団の中に入れた。数百年の間、ずっとそうしていた訳だ。その上で、自分の寝台の隣にお前が不安そうにしていたらどうするか。同じ事をすればお前の不安が取り除かれると判断するだろう。何しろ奴は安息を司る。那唖挫がそれで安らかに眠るのだから、お前も安らかにしたいと……」
「安らかに永らく眠り続けてくれ!」
征士がこらえきれずにそう低く怒鳴ると、螺呪羅は笑顔だけでは足りずに忍び笑いを漏らし始めた。
居間に戻ると、テレビの前のソファで隣り合いながら、那唖挫が悪奴弥守の脈拍を測っていた。
その真剣な横顔を見ると、征士は那唖挫への激しい感情が鎮まっていくのを感じる。
その青い目は、戦いの際よりも冷たく冴えた光を宿して真っ直ぐに患者に当てられていた。
脈拍を取り、熱を測り、問診をした後に悪奴弥守の心臓の上に手を置いて、“気”をその全身にめぐらせた。
「……いつもの時よりも、症状が激しいのはやはり長く滞在したからだな。特別に悪い異物を取ったわけではない。俺が薬師の法力を使う必要はないだろう。あとで薬を作るからそれを飲め。ただ、これ以上、娑婆に留まるべきではない。」
医者らしい淡々とした声で事実を告げると、那唖挫は征士の方を向き直る。
「光輪も、事実を受け止めて理解して欲しい。悪奴弥守の体は、今回の長期滞在で疲れきっている。更にとどめては、体に本来備わっている異物に対する耐性も弱って、更に激しく苦しむ事になる。それでもお前は、悪奴弥守がそばにいてくれることを強く望むのか?」
「……………」
「それに悪奴弥守は闇魔将であり、闇神殿の主だ。こやつは大勢の妖邪兵に対して責任のある立場なのだ。そして娑婆と妖邪界では全然、時の動きが違う。お前もその意味がもう分かってもいい年頃だと俺は思うぞ? 成人したのだろう?」
螺呪羅とは物言いが違うものの、内容は似ていた。
悪奴弥守と征士は住む世界が別々で、ともに生きるのは不可能だということだ。二人には互いの生活があり、特に悪奴弥守は妖邪帝国で重責を担う立場だ。まして、彼の体は現代文明に拒否反応を示す。
だが、似たような事を言われたが故に、征士は今回は言い返す事が出来た。
「那唖挫に頼みがある。」
「何だ?」
「娑婆世界というこの世界と妖邪界の時差の計算を私に教えて欲しい。それと、鎧の力による、体の浄化の術も。」
一瞬、驚いた顔をしたのは三魔将全員だった。
螺呪羅はすぐにからかうような面白そうな視線を片目から征士に送り、悪奴弥守はただ困った様子で征士を見ている。
那唖挫は冷静な態度を崩さなかった。
「出来ない訳ではないが、二つの世界における時差の計算は非常に難しい。天空がパソコンという機械を用いても一回で一時間はかかる計算法だ。まああやつの事だから、もっと短縮する方法をそのうち作り上げるかもしれんが……。普通の大学生のお前に、今、修得できるとは思えん。浄化の術の方は、薬師の鎧と光輪の鎧ではまず性能が違う。お前がやったところで、恐らく螺呪羅程度だ。」
予想していたのとほぼ違わない返答に、征士は何故か落胆した。
多分、そう言われるだろうと思っていたが、心のどこかでそれ以上の事を望んでいたらしい。自分に当麻の頭脳と、那唖挫の治癒の技術があるとは考えられなかったが、それと希望は別なのだ。
「すると、今後、俺たちが界渡りをする場合は、天空に時差を聞くのが有効というわけか?」
「それでは俺たちが不便だろう。妖邪の分は俺がやる。」
螺呪羅の質問に那唖挫が即答した。
「お前が? パソコンという機械はどうするのだ?」
「算盤さえあれば、天空と同じ速度で出来るぞ、俺は。」
あまりの台詞に征士が那唖挫の顔を見直すと、那唖挫の方が妙な顔をした。
「何だ? 何か変か?」
「……那唖挫は算盤が得意なのか?」
「得意かと聞かれても困るな。慣れているのを得意というのなら慣れているとは思う。普通の人間の十倍以上は使ってきたのだし。」
慣れとはいえ、一体どれほどの高速で算盤の珠を弾くのか、征士は一度見てみたくなった。
「算盤だろうが、パソコンだろうが、まず私に教えて欲しい。当麻はもうすぐ、アメリカに旅立ってしまう。お前しかいない、那唖挫。」
「自力で時差を出せるようになって、間隙を縫う事で悪奴弥守が“時には”妖邪帝国に帰られるようにしてやろう、というわけか、光輪?」
透明な苦笑を浮かべながら那唖挫は言う。
「妖邪界においての一日が娑婆世界では七日、娑婆世界においての一月が妖邪界においてはほんの一刻、確かにそういうような事例は沢山あった。それをうまく計算して操れるようになれば、二重の世界で生きる事も可能かもしれぬ、という事だな?」
征士は無言で頷いた。
那唖挫に対する敵愾心は確かにある。だが、それとこれとは別だった。頭を下げて教えを乞う事ですむのなら、それですませてしまいたかった。
「無駄だ。」
那唖挫はそう言って、透明な笑みの奥、白蛇の瞳を征士に向けた。
「何故!」
「天空の研究室にあった本で、“九百人のおばあさん”という短編集があったのだが、お前はそれを読んだ事があるか?」
「九百人の……?」
全く聞きなれない小説の名前に征士は戸惑った。
「ある平凡な男がある朝目覚めたら、自分の体内時間だけ自在に変えられるようになったという発想に基づいての空想小説だ。自分の親指の動きで一時間を一日に伸ばしては様々な実験に取り組み、己の知の楽しみにふける。また親指の動きで時間を戻し、“現実”の仕事や家庭への義理も果たす。そうやって、最後には三十代の半ばで老衰死をしてしまうのだ。体内の時間自体は変える事が出来ないのだから、そういう結果を招くのは当たり前だな。」
「世界の時間に対し、自分の体の時間を変える事が出来ない……、そういう事か?つまり私が時間の計算を誤れば、悪奴弥守や私は早死にする破目になると?」
征士は自分の中の悪意を押し付けて螺呪羅と那唖挫に向かう。
「私ならば、大丈夫だ。私は妖邪界に行くつもりはない。ただ、悪奴弥守が妖邪界での務めを果たしたいのならば、何とか……」
白い手の男である螺呪羅に、自分から会いに行く理由などない。ただ、悪奴弥守が闇魔将の自分を捨てられず、妖邪界を望むのなら方法を探したいだけだ。
「ふむ。」
那唖挫は学者らしく透徹した眼を瞬いて、腕を組むと征士に向かった。
「まだ中途半端な段階なのだが、ここで話しておいた方がいいようだな。俺たちの肉体の事なのだが。」
「俺たち?」
それまで黙っていた悪奴弥守が鋭く那唖挫に聞き返す。
「俺と螺呪羅と朱天とお前、それと俺たち四魔将の抱える軍の者の肉体、それに関わる世界の話だ。今となっては推論でしかないが、聞いておけ。」
「分かった。」
征士は手近なソファに座った。
那唖挫はそのまま自分より肉体的には一切年上の若者に目を真っ直ぐに見据える。
「とにかく、俺たちは歳を取らないだろう? 周囲のただの妖邪界の生物と全く異なる肉体を持っているとしか思えん。それゆえ、妖邪界の者達は四魔将、引いて阿羅醐様に仕えるものは永遠に年を取らなくなると話している。俺もそうなのかと思っていたが、天空の研究に付き合ったところ、この四百年の間に、ちょうど四年ほど歳を取っていた。」
「当麻から、肉体の事なら聞いていたが、妖邪界での件は初耳だ。」
戸惑いながら征士がそう言うと、那唖挫は頷く。
「全く、世界の時の流れから干渉を受けていないのかと思っていたが違う。一応、俺も考えていた事はあった。生物が老化しないなどという事はありえない。つまり、俺たちは妖邪界と娑婆世界のどちらにも属せぬ生命として扱われ、はじき出された状態で干渉を受けていなかったのではないかと。―――まあそれならば、悪奴弥守が娑婆世界に戻っても、弾き出された状態から元の世界に戻るだけなのだから、それほど問題にはならないかもしれない。」
そこで那唖挫は言葉を切り、悪奴弥守と征士の顔を一度ずつ見比べた。
「だが、俺たちは現に歳を取っていた。つまり、生命が持つ老化という基本の現象を世界自体が押しとどめていた状態なのだ。干渉を受けていないどころか、受けすぎるほど受けている。恐らく阿羅醐様の力によって転生させられた者は、有益な力をもたらすと世界の方が判断しているのだろう。ここで思い当たるのが、阿羅醐様が消滅してから六十日ほど続いた、天変地異の件だ。」
「ああ―――あのときも随分、三人で話し合ったな。」
悪奴弥守は息を吐き出して、頷いた。
「噴火、津波、夏の雹、それらが招いた農作物の悪疫と、獣の悪疫。この数百年全くなかった酷い状態で、俺の薬師の商売ばかりが儲かったとそねまれた覚えがあるぞ。」
「実に笑えない冗談だな。」
そういう自分が冷笑しながら螺呪羅は隻眼で征士に目配せした。
一瞬、意味がわからなかったために征士は那唖挫の台詞を思い返す。
噴火、津波、夏の雹―――自然災害だ。
そして獣の悪疫。
征士は拳を握り締めて、悪奴弥守を見る。悪奴弥守は冷淡な様子を崩さない那唖挫の方を向いたまま、何にも気付いていない。
「そこで俺たちが考えたのは、阿羅醐様と特に俺たち四魔将は、界渡りの時点で妖邪界自体と何らかの契約を取り交わしていて、かわりにさまざまな特殊な能力を与えられたのではないかということだ。ゆえに阿羅醐様が倒れられた後も、阿羅醐様から与えられたはずの様々な能力が使える。そのかわり、世界にとって契約を違反するような出来事が起きると、報復される。つまり、“阿羅醐様”の消滅により妖邪界は天地にその怒りを示したわけだな。それで全ての辻褄が合う。」
そう言って那唖挫は青い眼を悪奴弥守から征士の方へ向ける。
その場に悪奴弥守がいるから、わざと阿羅醐の名にすりかえているが、何を言っているかは明白だ。
自然を司る悪奴弥守の自刃に対し、自然災害とそれの起こす動植物の疫病という罰が下ったのだ。
「その契約とはどんなものなのだ?」
征士が震える声で聞くと、那唖挫は頬を歪めた。悪奴弥守も螺呪羅も何も言わない。
「それは全て、阿羅醐様が全て独断で決めた事なのだ。そして、阿羅醐様は戦いの末に倒された。俺たちは何も知らぬ。」
「そんなわけがないだろう!」
思わず拳を上げて怒鳴る。
それは妖邪界の生命自体に対する重大な侮辱だと礼の戦士は考えた。
悪奴弥守一人の問題ではないだろう。四魔将のいずれかの身に何らかの異変が起こったら、それは世界全体の異変となる。そのような契約の取り交わしが行われているのに、本人達は何百年も生きていながらその契約の内容を知らないのだ。
それでは悪奴弥守が自刃した際、苦しんだ命が報われない。尤も、その記憶は全て螺呪羅が何らかの方法で偽造したらしいが、それで問題は誤魔化されないと征士は思う。
そんな重大な契約の内容を、本人達は愚か世界中の人々たちに隠し、その契約が実行された事を嘘で偽ったという事になるからだ。
「光輪、俺たちは本当に何も知らない。阿羅醐様は俺たちに、何も言わずに逝ってしまったのだ。」
そして悪奴弥守が、征士の激昂を辛そうに見つめながらそう言った。自分の自刃の記憶がないため、まだ呑気でいられるのだ。
「本当に知らないのか?!だとしたら、阿羅醐のした事でも、これは最悪の罪だ、悪奴弥守!!」
「きっと、俺たちを思ってのことだ。そんな契約を知れば、俺たちはきっと悩むし、心の自由を奪われてしまう。俺たちが思い煩う事のないように、こんな重大な事を黙っていなければならなかった阿羅醐様の心中を慮ってくれ。」
「阿羅醐はそんなことを考える男ではない!単に、そのほうがお前達を利用しやすいから、そうしただけだ!」
真実を暴きたい光輪の本性を剥き出しにして征士は悪奴弥守に迫る。
この契約の件を本人達が知れば、その契約を盾に取って様々な事を阿羅醐に申し立てる可能性がある。そして、鎧の秘密や妖邪界に関する様々の秘密の核心に本人達が迫り、阿羅醐を脅かす事になるだろう。何しろ、四魔将の特殊能力は世界から与えられたものであって『阿羅醐から与えられた』ものではなかったのだ。
「阿羅醐様は俺たちを利用することもあったが、俺たちは皆納得していた。それに、阿羅醐様は利用するだけの男ではなかったぞ。」
征士は喉が引きつるのを感じた。
悪奴弥守は苦しそうな顔で征士を真っ直ぐに見つめている。
「そんなわけがない。悪奴弥守、それは阿羅醐が自分のために隠してきた事だ。お前達の存在そのものを自分で独占して利用するためだけに、阿羅醐はお前達の記憶を奪い、何者であるかまで隠してきた男だ。そのことを思い出してくれ。」
「阿羅醐様が俺たちの記憶を奪ったのは、妖邪に堕ちるほどの苦しみをあれ以上味わわせたくなかったからだ。仁愛の情を口に出す人ではなかったから、想像するより他にないが、そうだったのだと俺は信じている。」
「信じるな!」
我慢できずに征士は叫んだ。
「何故? だって、阿羅醐様は―――」
「阿羅醐は仁愛の情を口に出さないのではなく、本当に仁愛を知らない男だったのだ!だから、遼の仁の心の前に倒れた。何故、それがわからないのだ!」
「わからないのはお前だ、光輪。俺は数百年も阿羅醐様に仕えたから分かるのだが、阿羅醐様は本当は優しくて、人の心のよくわかる」
「そんなわけない!黙れ!!」
征士が渾身の力をこめて怒鳴りつけると、悪奴弥守は確かに黙った。だが、征士の心理状態がさっぱり分からないために眼を瞬いては心配そうに首をかしげている。
その仕草にさえ激しい怒りを感じ、征士は自然と早まった呼吸を何とか調整しようと息を継いだ。螺呪羅から聞いた話が脳裏をよぎり、数々の単語と悪奴弥守の嬌態が思い返されて、征士は彼を見た。
螺呪羅は離れたソファに腰をかけて何を考えているか分からない顔で三人それぞれの様子を眺めている。
「―――螺呪羅から聞いたが、悪奴弥守。阿羅醐は、お前を我が子と呼んで抱いていたそうだな。」
「え……」
「そこからして間違っているだろう。どこの世界に本当に我が子のように思う相手にそんな振る舞いをしでかす親がいるか!考えてみろ、悪奴弥守、阿羅醐が本当に父のようにお前を愛していたと思うのか!」
悪奴弥守は怒りの眼差しを螺呪羅に向けたが、螺呪羅はため息をついて腕を開き肩をすくめてみせただけだった。
那唖挫の方は医者らしい沈着さは一切崩さず、成り行きを見守っている。
「螺呪羅に何を吹き込まれたか知らないが、光輪、阿羅醐様は本当に俺を大事にしてくださっていたぞ。」
余りにも当然のように言われて言葉に詰まる征士の前で、悪奴弥守は深く頷いてみせた。
「阿羅醐がお前達を使い捨てにしようとした事も、何もかも、覚えていないのか……?」
悪奴弥守の記憶が塗り替えられている事を思い出して、征士は恐る恐るそう聞いた。
「あの戦いの結末は覚えている。ただ、あれは阿羅醐様の真実ではない。俺は、阿羅醐様が俺と二人だけでいるときに仰っていた事の中に、本当の心があると信じている。」
それがどんな言葉だったか征士にはわからない。ただ直感的に知ったのは、それはつまり閨の睦言だろうということだった。
「阿羅醐がこの世界を侵略しようとしてしでかした悪逆非道も何もかも含めて、お前は、阿羅醐をまだ信じるというのか!」
それに対しては、悪奴弥守は黙したまま首を縦に振った。
その重々しい戦士の仕草に征士は目の奥が赤くなるほどの怒りを感じた。
「阿羅醐が何を思ってこの世界を蹂躙したか、本人でもないのに何故わかるというのだ?お前が聞いた睦言こそ嘘だ、悪奴弥守!第一、お前を何百年も騙して弄んだのか分からない!何故、言葉一つで操られる……!」
「この世界を蹂躙したのは俺も同じだ、光輪。その俺が何故、阿羅醐様を責められる。」
「それはお前が阿羅醐に騙されていたからだろう!阿羅醐は記憶のない無力なお前を…!」
悪奴弥守は征士の顔先に無言で開いた掌を押し出した。
表情を消した顔の中、光る濃紺の瞳に征士は息を飲む。
「もうやめてくれ。騙されていたのなら俺が悪い。」
「何?!」
「阿羅醐様にはきっと何か深いお考えがあってのことだったと俺は思う。だが、お前がそういうのなら、騙されていた俺が悪いのだろう。阿羅醐様は、責められるようなお人ではない。」
つまり阿羅醐は何も悪くないから責めないで欲しい、責めるなら俺を責めろ。
そう悪奴弥守は言い出した。
予想外の反応に征士は開いた口が塞がらず、ただ目の前の悪奴弥守の掌に見入る。
「きっと俺が悪いんだ。」
ぼそりと悪奴弥守はそう言った。
そのまま苦しげな視線が床の方へと落ちた。
「何故、凌辱された、お前が……」
「あれは凌辱なんかじゃない。……辛かったこともあったが、多分、それも俺が悪かったから……」
「な、何を言っているのだ?!」
そこでなにやら悪奴弥守は思い出した事があったらしかった。
視線と睫が細かく震え始める。征士の言葉に様々な辛かった記憶が脳裏に展開してきた事が手に取るように分かった。
しかしこみあがってきた感情を必死に押さえ込んでいるのか、それ以上は無言だった。
「まあ、親の悪口言われた子供などこんなものだな。」
対処が分からず呆気に取られている征士の方に意味ありげな視線を送って那唖挫がそう言った。
「親っ……!」
だから、親が子供を凌辱したり戦の道具として騙して使ったりするかと征士は言いかけるが、那唖挫の冴え冴えと冷えた目つきに押される。
「世間からはどう見られていても、本人にどんな考えがあったとしても、子供にとっては親がどんなものか分からぬか? それこそ悪事を隠し、嘘をついてでも守りたい最初のものが親だろう。それを目前でけなすとは、いささか礼儀を欠いた言動だと俺は思うが、どうなのだ、光輪?」
「やめろ、那唖挫。まだまだ若いのだ。」
ここぞとばかりに攻勢に出た那唖挫を思わず睨みつけると、螺呪羅が相変わらずからかうような声音でそう言った。
若いの一言に、彼にしか出せないような冷笑の響きがある。
その一言のために言いたい事も言えなくなった征士の表情を見て、那唖挫は人間らしい色合いのこもった小馬鹿にした笑みを見せた。
「兄を苛められた弟など、こんなものだぞ?」
悌の心をもつ男にそれを言われたら、もう征士の発言権は完全封殺である。
恐らく、螺呪羅と那唖挫は阿羅醐に関して征士と同じ思いを抱えてはいるのだろうが、長年のつきあいで悪奴弥守がどう出るかを予期し、一切口に出さないで来たのだろう。それを、征士がやってしまった。
「何が言いたいのかというとだな、光輪。阿羅醐様が妖邪界と交わした契約内容もわからない状態で言い切る事は出来ないが、悪奴弥守をお前の望むとおりに娑婆世界に永住させた場合、恐らく世界がまた荒れるだろうということだ。そして妖邪界の自然にある生命が多数、苦痛の末に消滅する。それをお前は悪奴弥守にさせたいか?悪奴弥守は、妖邪界を平定するために世界中で戦を繰り返し、その後に安息を与えた男だぞ。」
その光景を想像したのか那唖挫は切なそうに吐息をついた。
「悪奴弥守が去り、世界が荒れた場合は、俺が薬師の責任において力を尽くす事になるだろうが…。しかしそんな事を惚れた相手にさせようとする男に、俺は妖邪界と娑婆世界の秘密の一部である時差の計算を教えたり、妖邪や魔将の体の情報に関わる浄化の術を教えたりすることは出来ないな。」
征士は黙って考え込み、那唖挫に向かった。
「それはつまり、悪奴弥守を闇魔将として生かすならば、時差の計算と浄化の術を私に教えてもいいということか?」
「よく気付いた。」
嬉しそうに那唖挫は笑った。
螺呪羅が両手を数回打って、空々しい拍手をする。
「それでいいな、悪奴弥守?」
「……ああ。」
虚ろな声音で悪奴弥守がそう返事をする。
その力の抜けきった声に征士は思わず立ち上がり、螺呪羅もはっきりと危うげな眼を彼に向けた。
それを受けたようにソファで隣に座っていた那唖挫は悪奴弥守の左胸に自然な仕草で手を当てた。
「何だ?」
「ん? 癒しが必要かと思って。」
そう言って彼は悪奴弥守の息の匂いを嗅ぐような仕草をして顔に顔を寄せた。
「心音を聞けば、お前の事は大体分かる。」
恐らく征士が質問から契約へと即座に移れなかったのは那唖挫のその連ねた時間を感じさせる言葉だった。そして、那唖挫を信頼しきって心臓の音を胸から聞き取らせている悪奴弥守の和らいだ表情が。
「もう少し、考えさせてくれ。」
精一杯の気持ちでその台詞を口から出す。
「あと二日だ。」
那唖挫は悪奴弥守の首に触れながらそう言った。
「悪奴弥守の体と、世界の時差の限界は、俺の見たところあと二日だけだ。」