花散らすケダモノ

花散らすケダモノ I become Evel
 悪奴弥守の体に変化が出たのは、次の日の午前だった。
 高熱と発疹、それから来る頭痛と鉛のようなだるさが彼を襲った。
 征士は薬品を与えて彼を布団の中に入れ、様子を見る事にした。
 勿論、彼には原因が何なのかは分からない。
 
 
 
 現代の食事が原因なのだろうとは、征士は見当をつけている。
 それを同じく現代人の征士が食べても、悪奴弥守のような拒否反応は出ない。
 恐らく、生まれた時から悪奴弥守にとって危険なものを体に少しずつ取り入れてきたためにある程度の抗体が出来ているのだと征士は思う。毒を毎日少量ずつ取れば、最後には毒への免疫が出来て効かなくなるのと同じ原理だ。
 その抗体は一体、いつ出来たのだろうか。
 個体差はあるのだろうが、それがわかれば、悪奴弥守が何を食べてどれだけ時間をかければ抗体を作る事が出来るかの目安になる。
 だが自分でそんな事を考えて、無理だと思った。
 その抗体が何であるか、学者でも医者でもない二十歳の征士がどうやって調べる事が出来るだろう。
 そして、こんな特殊体質の悪奴弥守を学者などに渡す訳には行かない。そもそも妖邪だ。態のいいモルモットにされてしまう事は想像にかたくない。
 抗体がいつどのように出来上がり、どんな働きをするのか、征士がどんなに考えても、詮無い事だった。
 だが征士は、その詮無いことを考え続けた。考えなければ、苦しかった。
 一度は当麻を呼ぼうかと思ったが、征士は彼の渡米の計画を知っていた。征士が一言、この窮状を告げれば、当麻は何をおいても駆けつけるだろう。彼は仲間なのだ。
 そして、征士たちの関係と、智将としてのプライドをかけて徹底的に原因を究明し悪奴弥守の問題を解決する。必ず解決するまで、当麻は笑顔を絶やさずやりぬく。そして彼の大学や関係者に不義理をし多大な迷惑をかけて、渡米計画は潰れるのだ。
 仲間にそんなことはさせられなかった。
 
 
 
 夕方に、悪奴弥守が眼を覚ましてベッドの上で起き上がった。
「もう大丈夫なのか?」
 隣に椅子を置いてくっついていた征士がきくと、まだだるそうに彼は微笑む。
「例の眠りを使った。」
「それなら、もう平気だな。」
 征士も思わず笑みを返す。
 悪奴弥守はゆるやかな仕草でベッドから降りた。
「何か欲しいものはあるか?」
「水を飲みたい。」
 征士の問いに悪奴弥守はそう答えた。
 そして自分で台所の方へと歩いていく。高熱のためにかなりの水分を消耗したのだろうと征士は思い、そこに何か引っかかるものを感じた。
 だがそれが何なのか分からぬまま、征士は悪奴弥守の背中を追いかけた。
 コップに水道水を注いで飲んだ後、悪奴弥守は大きくため息をついた。
「光輪、お前に聞きたい事があるんだが。」
「何だ?」
「一体、いつまでこういう生活を続けるつもりだ。学業の方は、どうなった。」
 征士は虚を突かれ、何も答える事が出来なかった。
「そろそろお前の生活に戻れ。」
 何故かコップを持って水道の蛇口を見つめながら悪奴弥守はそう言った。
 言ったきり、口をつぐみ、悪奴弥守は体の動きを一切止めた。体からも何も情報を与えないために、彼はそうする事が出来る。
 征士は隣にたったまま同じく黙りこくった。
 大学は自由なところで、学生はその気になれば好きなだけ休む事が出来る。だが、ツケは必ず払わなければならないように出来ていた。
 その限定のある自由を使って、彼はここにいた。
また、これまで卓抜して優秀な成績を残してきたからこそ、親が多めに見てくれている。親は、真面目な長男である征士を信用しきっているのだ。これも限定のある自由だろう。
 嘘と隠し事を嫌う征士だが、親にだけは彼が鎧戦士である事も悪奴弥守の事も一切告げずに生きてきた。自分をこうまで信用しきって期待をかけている者達を、巻き込んでいい話だとは思えなかった。
 そして、自主的に親の期待を裏切る事を、彼はまだ出来ないでいた。
 長い沈黙が落ちる。
「何とか言え。光輪。」
 常人が限界とする沈黙の時間を過ぎて、悪奴弥守はかすれた声でそう言った。
「悪奴弥守が私のものになってくれるまで、私はここにいる。」
「―――っ。」
 それは征士の本心だった。
 悪奴弥守は喉の奥に言葉を隠して顔を引きつらせている。
「離したくない。側にいてくれ。」
 体の言葉も極力殺していた悪奴弥守の掌のコップが、小刻みに揺れていた。
 感情を必死で噛み殺しているだろう悪奴弥守に、征士は戸惑いを感じるが、もう引き下がる事は出来なかった。
「答えてくれ、悪奴弥守。」
 更に沈黙が、落ちた。
 征士は悪奴弥守の答えを、ただ待った。
「光輪、お前は―――」
 ついに、コップを叩き割るように洗面台において、悪奴弥守が振り返った。
「態のいい脅迫だな。たいしたものだ、小童。」
 何かを怒鳴りかけた悪奴弥守の声に、冷笑を含んだ声がかぶさった。
 いかにも性格の悪そうな笑い声がそれに続く。驚愕しながらその方を振り返ると、長身の男が台所の戸口に背中を凭れかけていた。
「螺呪羅……?」
 悪奴弥守もまた驚きを隠さずに幻魔将に向けて目を見開く。
 螺呪羅は長身にあわせたスーツだったが、夏のために着はつけていなかった。
「やつれたな、悪奴弥守。」
 頬を歪めて螺呪羅はそう言い、いきなり悪奴弥守に向かって歩き出した。呆然としている征士を突き飛ばすようにして悪奴弥守の前に立つ。
「お前、一体、人間界に何の……」
 そう言いかけた悪奴弥守の眉間を螺呪羅は人差し指で突いた。
 征士の眼にも螺呪羅の幻の力が悪奴弥守に注がれるのが分かる。それに対して悪奴弥守は“気”を使う事もしなかった。
 悪奴弥守の体が、螺呪羅の胸に崩れ落ちた。
「馬鹿が。」
 螺呪羅はそう吐き捨て、寝る際の軽装である悪奴弥守を腕に抱き上げる。一見、青灰の髪を長く伸ばした顔だけの優男に見えても魔将である事には変わりがない。
「貴様っ……」
 逆上する征士の眼前に、螺呪羅は那唖挫から貰った小物を突きつけた。
「天空からの誕生祝だそうだ。中身は惚れ薬だ。」
「なっ……」
「悪奴弥守に使ってみるか? 俺としては是非、お前が同級生の女の顔を見ながら自分で飲んで貰いたい。」
 征士は螺呪羅の手を力任せに叩き払おうとした。
 しかし、怒りの力をこめたにも関わらず、幻魔将の手も惚れ薬もわずかも動かない。
 ますます逆上して征士は怒鳴る。
「そんな事が私に出来ると思っているのか!」
「黙れ小僧!」
 瞬間的な怒声で、螺呪羅は征士の気迫をなぎ払った。そして征士の胸に惚れ薬を押し付ける。
怒りを見せたのは一瞬で、その顔は元の嫌味な冷笑があるだけなのに、征士の手は勝手にそれを受け取った。
 それは時を越え修羅場をくぐり抜けた者の持つ畏怖の力だった。
「寝室を使わせてもらうぞ。」
「―――悪奴弥守……」
 自分の震えた声が征士の耳に虚ろに響く。
「安心しろ。俺はこやつの体から毒を抜くのはこれが初めてではない。」
 毒を抜く。
 その言葉の意味が分からぬまま、征士は螺呪羅をそのまま寝室に通した。
 
 
 
 毒を抜くのなら、言うまでもなく専門は那唖挫だ。
 毒魔将の鮮やかで的確な技には、無論、螺呪羅は及ばない。
 しかし、長年同じ戦場を駆けたものとして基本は修得していた。そして螺呪羅は以前から頻繁に人間界に降りて情報を収集している。当然、自分の体が違和感を覚える食品に対する知識はあった。
 それらを利用して、螺呪羅は悪奴弥守の体から“眠り”でも浄化できなかった毒を丁寧に抜いていった。悪奴弥守の回復力を持つ体が作られたのは、遥か四百年の昔だ。現代の添加物のいくつかには、回復力が完全には追いつかない。体内に蓄積されたそれらが悪奴弥守を疲れさせ、やつれさせた。
「起きろ、悪奴弥守。」
 幻の眠りを解除するために、そう声をかける。
 しかし、悪奴弥守はベッドの上で寝息を立てたまま動かなかった。
「そうか、それほど悩み疲れているか……」
 そう呟く螺呪羅の声にも、苦悩の色は濃かった。
 
 
 
 自分が二十歳の時の、戦の夢を見た。
 次々と死んでいった妖邪兵の顔が目の前に迫ってきた。
 自分の指示一つで、軍全体が飢えた。寒さとも、戦った。
 その魂と肉体に刻まれたあらゆる苦痛を“夢”という究極の仮想現実で思い出す。
 それを悪夢だとは思わない。思っては、ならない。
 倒れ臥した屍を踏み越えた者は、それを栄光へ続く夢として甘受する。
 その自分に、この二十歳の子供は一体何を言っているのだろう。
 そんな思いを抱えながら、悪奴弥守はゆっくりと覚醒し、濃紺の眼を見開いた。
「―――螺呪羅。」
 ベッドの隣に座る男にそう声をかける。
「人間界に用事でもあったのか?」
 違うだろうと思いながらそう言った。
 座ったまま長い脚を組んでいた螺呪羅は隻眼で鋭く悪奴弥守を見下した。
「馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、今ほどお前を馬鹿だと思った事はないぞ悪奴弥守。」
「……………」
「光輪の心にお前が応える事など出来るはずがない。それを分かっていながら、何故、一緒に居続けてしかも寝た?考えが足りないなどというものではない。しかも、光輪は、まだ子供だ。四百年生きておいて、子供を相手にしている場合か闇魔将。すぐに妖邪界に戻り、闇神殿の主の責を果たせ!何故、それが出来なかった!」
 悪奴弥守は何も言えなかった。
 それに対し、螺呪羅は大仰にため息をつく。
「だんまりか。お前も子供か、悪奴弥守。」
「子供だから……」
 悪奴弥守はぼそぼそと言葉を紡ぎ始める。
「子供だから、なんだ。」
「お前の事だ、螺呪羅。俺の体から毒を抜きながら、ここ数日の記憶も見たろう。心の方には手をつけてないだろうな。」
「そこまでやる必要はない。見たのはお前の頭にある記録だけだ。」
 悪奴弥守は螺呪羅から目をそらした後、彼に背中を向けるように寝転がった。
「俺が光輪にやられた事はもう知っているだろう。」
「ああ。」
「光輪は子供だから、教えられる事は教えなきゃならんと思って……」
「何?」
「俺が離れた後に、俺以外の例えばそこらの娘に俺にしたような事をするのではないかと思ったら、妖邪界に帰れなかった。」
「……………」
「そんなことがあったら俺は死んでも死にきれん。」
 これには螺呪羅も二の句がつげなかった。
 ただ彼は天井を仰いで、人間界の刑罰を思い出す。二十歳からは、一人前の大人として法が適用される事を螺呪羅は思い出した。確かに征士は怪しげな発言もしているが、精神攻撃を生業とする螺呪羅から見ればまだ責任能力がある方だ。
 恐らく悪奴弥守はそういう意味で言っているのではないだろうが、一度、大人の性犯罪者として裁かれそれが報道されようものなら、征士は係累を道連れに惨めな一生を送らざるを得まい。
「光輪は贅沢者だな。幸せ者では全くないが。」
 そう言って、螺呪羅は布団を被ったまま横になって丸まっている悪奴弥守に目を戻す。
「俺は光輪に幸せになって欲しい。不幸になる事は、望まない。だから何とか俺が教えられる事を今のうちに教えて、ある程度の常識を身につけてもらわんと……」
「それは必ずお前がやらなければならん事ではあるまい。」
「だが、光輪は、艶話が出来ないらしい。」
 ぼそぼそと、それでも相手が螺呪羅という気安さがあって悪奴弥守はそんな事を言い出した。
「……そうか?」
「あの歳で、これだけ情報が出回っている世の中で、艶本も読んだ事がなくて、そうした話もしたことがないようじゃ……俺は心配で。」
「それでは何故、光輪はピンクローターを知っているのだ。」
 さらりと螺呪羅はそれを指摘した。
「……は? なんだそれ。」
「お前が書棚の裏から引っ張りだした桃色の小道具の事だ。あれは、閨で使うものだぞ。お前が想像する通りの物の知らなさだとするのなら、それが識別できる訳があるまい。どこかから情報は仕入れているのだろう。」
「……………」
 悪奴弥守は訳がわからなくなった。確かに、ピンクローターを振り回したとたんに征士は悪奴弥守を押し倒してきた。前後の辻褄が、そこで合う。だが、ピンクローターは悪奴弥守の目から見て、それに使う器具とは分からないようなものだったのだ。何故、物を知らないはずの征士が分かったのだろう。
 悪奴弥守が布団を引っかぶったまま寝転がって螺呪羅の方を向く。
「どういう事だ?」
「その件についてはわからんと言っておく。俺が言えるのは、お前がそこまで心配しなくても光輪は色事を頭からも覚えていくだろうという事だ。」
「大丈夫だろうか……」
 不安のあまり、悪奴弥守は自然と頼るような目で螺呪羅を見上げる。
 螺呪羅は複雑な顔になりながらもその黒い前髪を撫でつけた。
「そういえば、光輪は?」
 回復のために寝ている間も自分にくっついて離れようとしなかった征士が、この部屋の中にいない。その事に気付いて、悪奴弥守は目を戸口の方へ走らせる。
「居間にいる。」
「居間……」
「俺がいる間は、奴はこの部屋に入って来られないようにした。」
 悪奴弥守の頬が引きつった。
 螺呪羅の掌が額にあるにも関わらずに体のバネを使って跳ね起きる。そして自分の上にあった螺呪羅の手首を掴んだ。
「お前、光輪に何を言った、螺呪羅!」
「何を聞きたいのだ?」
「俺が寝ている間に、光輪に何か言ったのだろう!何を言いやがった!」
「だから、何を聞きたいのだ?」
 悪奴弥守の激昂に対して、螺呪羅は冷淡な態度を全く崩さない。
 そのために悪奴弥守は黙るしかなかった。
 四魔将の中で最も舌鋒が鋭いのは螺呪羅である。確かに毒舌や屁理屈ならば那唖挫の方が凄まじい。しかし、人が一生忘れられないような台詞を平然と吐くのは螺呪羅だった。その証拠に、本気で怒り出した螺呪羅に対しては那唖挫が引く。
「……光輪は、まだ、……」
 言いかけて、悪奴弥守は螺呪羅の手首から手を離した。
 何か言ったところで、螺呪羅が征士を許すとは状況的に思えなかった。
「悪奴弥守、闇神殿の寝所にある結界でなら、お前の体の毒は完全に抜く事が出来るだろう。俺の浄化の術は那唖挫ほど完璧ではない。」
「……ああ。」
「あるいは、那唖挫に直接、体に残った危険なものを全て取り去ってもらえ。お前が今やるべき事は、人間界の穢れを祓う事だ。お前は、阿羅醐様に選ばれた闇神殿の主で、性質は神子(みこ)だ。」
 そこで螺呪羅は言葉を区切る。
 彼にも思う事はあった。だが螺呪羅は言う。
「四魔将の中でお前は最も現代の文明に弱い。耐性があるわけがないんだ。」
 その先を言っていいものかと螺呪羅がわずかに逡巡した時、悪奴弥守が膝の上の掛け布団を両手で掴んだ。
「何年生きても、思うように行く事なんてないものだな。」
「それをこそ光輪に教えてやれ。」
 
 
 
 寝室から居間に戻ると、即座に征士がソファから立ち上がる。
 焦燥しきった顔色をそこに認め、悪奴弥守は微笑を作って頷く。
 それをどう受け取ったのか、征士はソファにまた座った。
 ソファはガラステーブルを囲んで二人がけのものが向かい合っており、更に一人用のものが斜めの位置に置かれている。
 自然に悪奴弥守は征士の向かいに座り、螺呪羅は斜めに座した。
「光輪。」
 最初に口を開いたのは螺呪羅だった。
「何か音を使え。」
 そう言って、テレビの脇のコンポを指差す。この腹を締め付けるような緊張を緩和するためだと征士は察した。正確な物の言い方が出来ないのは、妖邪だからだろう。
 ガラステーブルの上に置いてあったリモコンを操作して、征士はコンポに入れっぱなしになっていたCDをかける。
 唐突に女性歌手のボーカルが悲しげに歌い出した。その歌声に楽器の音が緩やかに絡んでいく。当時の流行歌だった。
「恋歌か。」
 螺呪羅が誰にともなく言った。
 人間界で流行するのは恋の歌ばかりである事を忌々しく思い出す。彼は自分の緊張を和らげるために音を使おうと思った訳ではない。
「光輪、俺は妖邪界に帰る。」
 曲が第三小節目に入ったところで悪奴弥守が言った。
「帰らないでくれ。」
 当然、征士はそう答える。
「帰らないわけにはいかない。このままでは。」
 征士の震える紫の瞳を凝視し、悪奴弥守は付け加えた。
「お前のためだ。」
「私のため?」
 悪奴弥守の言っている意味は征士は気付く事が出来ない。
「無論、悪奴弥守の体のためという事もある。」
 螺呪羅が腕と脚を組みながら言う。
「“眠り”は妖邪界においては悪奴弥守を完全に回復させる事が出来るが、この世界ではそうはいかない。悪奴弥守の自然に近い体が違和を感じたものに対しては何が起こるかまだ分かりきっていない。分かっているのは、どんなに眠っても浄化されることがなく蓄積されて体を疲れさせ、そして激しい発作が起こるという事だ。」
「違和と感じるもの? 添加物か?」
「それだけだと本気で思っているのか光輪?」
 螺呪羅の叱るような声に征士の体に緊張が走るのを、悪奴弥守は危ぶみながら見つめる。しかし征士が緊張を見せたのは一瞬の事で、彼は螺呪羅に向かって顔を上げていた。
「それだけではないのか?」
「この世界の空気、水、大地、それに連なるもの。その全てに、悪奴弥守は違和感を持っている。人間界で、お前の側にいるだけで、悪奴弥守の体は蝕まれていくということだ。だから、いつも短時間しか留まらなかった。」
 征士は何も言わずに螺呪羅を見つめている。
 やがてその視線が悪奴弥守に映った。
「何故、黙っていた。悪奴弥守。」
「すまん。」
「謝罪が聞きたいのではない、私が言いたいのは―――」
 征士の声には明らかな怒りが滲んでいる。
 悪奴弥守は全身から言葉を消す。ただ、眼だけが潤んで征士を見ていた。
「悪奴弥守がそれをお前に言えると思うのか若造。お前が悪奴弥守を汚れた大気や水からどうやって守れる?息をし、水を飲まなければどんな命も生きていけはしない。そんな事を、お前に言ってどうする。お前に罪悪感を抱かせるだけだろう。」
 螺呪羅の冷淡な言葉で征士は悟る。
 この件についての罪悪感は悪奴弥守の方にこそあった。
征士に呼び出されて同じ時間を過ごすだけで健康を害してしまう自分を、悪奴弥守は不甲斐なく感じる。だから悪奴弥守は、自分の体調が悪くなるたびに限界まで征士にそれを隠そうとしていたのだ。
 自分の過去や現代へ向けての感情を常に隠していたのと同じく。
「俺のためというのもあるが、何よりもお前のためだ光輪。自分を大事にしろ。」
「自分を大事に?」
「異界の住人のために学業も家族も蔑ろにするような状態を、お前は自分を大事にしていると思うのか?俺にはそう思えん。」
 その言葉の裏には、自分が学をつける事も家族を守る事も出来ない状況を生きたという思いが当然ある。若者の可能性が遥かに限られていた戦国時代に価値観を作られた悪奴弥守にとって、征士が持っている可能性は最大限に生かされてしかるべきものだ。
 それが、悪奴弥守にとって征士が自分を大事にする事だった。
「私にとって、一番大事な事は、悪奴弥守とともにあることだ。」
 流行の恋歌がうねるように体にまとわりつく。普遍の心を歌い上げる女性の声は堂々としていながら胸が張り裂けるように切ない。
 悪奴弥守の肩に緊張が走る。螺呪羅は、動かずに隻眼で征士を見下している。
「ここ数日で分かった。私は悪奴弥守の事をまだ何も知らない。悪奴弥守はずっと私に黙って隠していた事がたくさんある。それを知りたい。体の事も、心の事も。」
 嘘と隠し事を嫌う征士がそれを言うのは自然の事だった。
「散々、悪奴弥守の身も心も傷つけておきながらそれを言うか光輪。」
 螺呪羅が呆れ返ってそう言った。
「何故、それを―――」
 螺呪羅のいわんとしている意味よりもそれを螺呪羅が知っている事に驚き、征士が彼の方を向く。
「俺は幻術の一環として人の精神に干渉できる。貴様が、悪奴弥守に何をやったかはもう知った。貴様、一度、力ずく抱いた事でこの男を自由にする権利を得たと勘違いしていないか? それは俺もやった間違いだから、はっきり言っておくが、そんなことで悪奴弥守はかかわりを変える事はないぞ。」
 焦った悪奴弥守が螺呪羅を止めようと立つ。
 それとほぼ同時に、征士の全身から殺気が飛んだ。それは物質的な力を持ち、座っている螺呪羅の周囲の雑誌や小物を叩き散らしたが、螺呪羅の体に触れる前に弾かれて消え去った。
「……すまない。」
 自分が礼の戦士だと思い出したのか、征士が殺意を隠さない表情でそう言った。
「まだまだだな。小童。」
 余裕を見せつけるように腕を組みなおしながら螺呪羅が答える。
「わざとじゃないんだ、螺呪羅。」
 ソファに座りなおしながら、悪奴弥守がとりなした。
「螺呪羅、私は悪奴弥守に側にいて欲しいといい、悪奴弥守はそうしてくれた。私たちはどこかできっと気持ちを通じ合わせている。体も欲しいが、それだけではない。私は、悪奴弥守ともう離れたくないだけだ。」
「そうだとして、最初に取った行動はなんだ。気持ちを通じ合わせるために何故、山奥に連れ込んで突然襲い掛かる必要がある。お前は、肉欲のはけ口として悪奴弥守を利用したいだけではないのか。異界の住人だから法に問われることもなく、まして男なら孕む可能性もない。二十歳程度の男ならば精神よりも肉体の欲望が増しているのはよくある話だ。」
 力を制御しようとしているのだろう。征士の体の周りで風が舞い上がり、金髪を逆さに撫で上げる。紫の瞳はかつての闘いでも見せなかったほどの憎悪をたたえて光り、螺呪羅の眼に視線を合わせて動かない。
「螺呪羅、それ以上、お前は何も言うな!」
 たまらずに悪奴弥守が叫んだ。
「光輪。貴様がそうやって連れ込んだこんな山奥でさえ、悪奴弥守の肉体は異物と認識したものに耐え切れず苦しむ。そして貴様が可愛い悪奴弥守は不本意ながらも肉体を与える事で、心も傷つける。それで側にいて、どうするのだ。貴様が一方的に満足するだけだろう。それよりはさっき俺が言った通り、他の女のために自分で惚れ薬を飲め。」
 悪奴弥守を無視して、螺呪羅が言い募る。
「今は確かに私は悪奴弥守に対して無力だ。だがきっと必ず、悪奴弥守を満足させる事が出来る。そのために、私は何も惜しまない。」
 最大限の怒りと嫉妬を全力で最小までまで押さえ込んで征士が言い切った。
「若いな、本当に。」
 螺呪羅は息をつく。
「いい加減にしろ、螺呪羅! 人の言うことを聞け!」
 悪奴弥守が拳を握り締めてまた叫んだ。
「いつかきっと、私と悪奴弥守は、本当の意味で通じ合える。そのために、知りたかったんだ。悪奴弥守が、貴様も含めて、他の男と何をしているか……」
 最初の時の情動は、そんな言葉で終わらせられるものではなかった。
 だが、征士の螺呪羅に向かう激情がそういう言い方を選ばせた。
 何度も夢に見た“白い手の男”の正体を知ったと、彼は思ったのだ。
「俺のことが気に障るか、小童。」
 征士の激昂を螺呪羅は冷笑した。
「当たり前だ。貴様は、何百年も悪奴弥守の側にいて、これからも……。」
「螺呪羅の言う事は気にする必要はない。光輪。俺は……」
 さえぎるために悪奴弥守が言葉を選ぼうとする。
「確かに貴様が想像している通りの関係だ。気が乗れば、俺たちはいつでもどこでも寝る。」
 それより早く螺呪羅はあっさりと征士の激情を煽る。
「螺呪羅、てめえ、さっきから何が目的で!」
「落ち着け、悪奴弥守。この小童の幻想を壊して、もう二度とお前を愛せないようにするだけだ。」
 もう二度と愛せない。
 その言葉に他の二人は息を飲む。
「そんなことはありえない。螺呪羅。私の気持ちは決して、幻想などに惑わされない。貴様は、光輪の鎧を何だと思っているのだ。」
「確かに光の鎧は闇を祓って真実を映し出す。だが、貴様はまだ真実だと思いたいものを真実だと信じている段階だな。だから小童だと言うのだ。貴様は先ほど、己で認めたはずだ。悪奴弥守の事を実は何も知らないと。そして、いきなり悪奴弥守を襲い体を得、何度も体を重ねたな。……それだけだ。」
 征士の顔が苦渋に歪む。
 自分の愛撫では悪奴弥守は欲を得る事すら出来なかった事を、螺呪羅は知っているだろう。そして螺呪羅は恐らく、白い手の男なのだ。
「体も心も欲しい。それで何が悪いのだ。悪奴弥守は長すぎるほど生きている。過去や心を全て知るには、私には時間がないんだ。」
 握り締めた征士の拳から、血が流れ落ちた。
 そして征士の怒りに満ちた顔は、それにすら気付いていない事を示している。悪奴弥守はそれを危ぶみ、少し離れたカラーボックスの上のティッシュを取ろうと体を伸ばした。
「時間がないから、体だけでも得たいか。なるほど。我らの体だけ落とすのは簡単だからな。」
「……何?」
 今までは明瞭に征士を叩きのめしてきた螺呪羅の言葉が、突然、なぞめいたものになった。違和感を覚えた征士は眼を瞬いて冷たく整った螺呪羅の顔を見る。
「我らの体だけ落とすのならば簡単だ。」
 そう言いながら螺呪羅は立ち上がると悪奴弥守のソファの背後に回る。
 悪奴弥守は腕を伸ばしきってティッシュケースの端を掴んだところだった。
「動くな悪奴弥守。」
「え―――」
 螺呪羅の意図がわからずに悪奴弥守が適当な声を出す。
「何……」
 その頭上に螺呪羅は掌をかざすと彼の司る力を解き放った。
 悪奴弥守の体の動きが完全に止まり、濃紺の眼が不自然なほど見開かれる。
「白の黒であり、白の赤であり、赤の黄である。」
 螺呪羅がその単純だが意味不明の呪文を言った途端、ティッシュに置かれた悪奴弥守の手が、ピアノでも弾いているように激しく動いた。
 全身が目に見えて分かるほど激しく震え上がり、興奮した犬ように呼吸が荒くなる。恐らく、心拍数も跳ね上がっている事だろう。その濃紺の眼から、突如、滂沱の涙が零れ落ちた。
「………悪奴弥守?」
 あまりの事に呆気に取られ、征士は彼に駆け寄る事も出来ない。
「“雌犬”」
 螺呪羅の発したその声に征士は更に驚く。それは、完全に五年前に死んだ男、阿羅醐のものだった。
 その途端、悪奴弥守の体がソファの上に崩れ倒れた。
 征士が見た事もないほどその四肢は煽情的にうごめき、のたうつ。
 そして何故か思った。
悪奴弥守の動きは、己の快楽のためではなく、見る者の快楽のものであると。




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