花散らすケダモノ The fox is known by his brush
一匹、二匹、三匹……
シカリの密やかな声が聞こえる。彼は屍骸を見ている。
四匹、五匹、六匹……
無数の異なる獣の屍、その血肉を引き裂きながらシカリは誇らしげに笑んだ。彼は連れて来た子供に自然と群がった獣を一匹残らず撃ったのだ。それを思いついた頭と、実行した己の腕が誇らしかった。
その毛皮を売り、肉は食べ、肝から薬を作り、さて骨は何にするか……それを考えると笑いが止まらない。
生きていくために、必要な事だった。善悪の問題ではない。
「七匹、八匹……九匹でも十匹でも、獣を寄せろ、九十郎……」
九十郎という呼び名に、過去の記憶が引きずり出された。
追憶に耽りながら眠りに落ちた彼は、転生直前の妖邪に堕ちるまでの経緯を克明に夢に見る事となった。
寒村の祀る北方の山の神。その血の掟。自分の身に備わった異能と、それを巡る数々の事件。順繰りにそれらが彼の中で蘇り、その時の自然な感情が身体に復活する。
「……悪奴弥守。」
何度目かの今の呼び名に目を覚まし、彼はぼやけた世界に驚いた。
普段、彼は覚醒した瞬間から視界がくっきりしている方なのだ。
「光輪?」
まだ泣いている目で悪奴弥守は隣のいる男に返事をする。その途端に目尻から涙が零れ落ち、耳まで滴った。そこで、悪奴弥守は自分がどんな顔をしているか気付く。
征士は表情を故意に変えないまま、悪奴弥守の黒髪を撫でていた。その決まり悪さに、悪奴弥守は顔を枕へと伏せようとした。それを征士の手が止める。
慌てる悪奴弥守の顔を、征士の指先が撫でた。白い無骨な指先が、悪奴弥守の涙を丁寧に拭い去っていく。
感情的な悪奴弥守は、涙を自力で止める方法を知らない。どうしていいのか分からずに体を固めて征士を見つめる。
それを誘っているように受け取って、征士は悪奴弥守の唇に唇を合わせた。
追憶の涙のせいではなく、今度は気恥ずかしさと息の苦しさで悪奴弥守は赤面するはめになった。
「朝が来た。」
簡潔に、征士はそれだけを告げた。
「もう、朝が来た。悪奴弥守。」
朝が来て、しばらく経って、悪奴弥守は食事の前にシャワーを浴びた。
(……朝っぱらから……)
自分も肉体的には二十歳なのだが、やはり心身ともに二十歳は若さが違うと再認識しながら悪奴弥守は自分の体を見下ろす。
別に教えている訳ではないのだが、ある程度、要領を掴んできたらしい征士のつけた赤い鬱血が全身に点々とついていた。
それでも悪奴弥守は征士には反応を返せない。
その事に、彼は多少の罪の意識を感じ始めていた。しかし、女と違って男はそういう意味で演技が出来ない。
(……指示を出した方がいいのか?)
一瞬、そんな発想が頭をよぎった。そして、自動的に自分が征士にその件について体を与えながら指南する光景を連想した。精神的に四百二十歳以上年下に対して、それをやったら完全に犯罪である。
反射的に、悪奴弥守は浴びているシャワーの温度調整を限界まで『冷』にひねっていた。
台所で待っていると、征士がシャワーから冷え切った体で出てきた。
「光輪、お前、風呂から必ず体を冷やして出てくるのは何故だ?」
「……聞かないでくれ。」
「?」
自分もさっきは冷水を頭からかぶったが、その後、温かいお湯を浴び直して出てきたのだ。最初の晩からそうだったが、征士は必ず悪奴弥守の後に風呂に入り、そして冷水を浴びた後に出てくる。要するに悪奴弥守が入った直後の風呂ゆえの行動なのだが、そこまで悪奴弥守本人は気が回らない。
(こやつなりの精神修養か?)
今の日本では川や池で水垢離は出来ないようだ。それならば、風呂ででもやるしかないだろう。
悪奴弥守はそれで納得することにした。
「今、朝食を作るから。」
「いや、それはもう俺が作っておいた。座れ、光輪。」
「……は?」
戦に長く身を置いていた悪奴弥守は自給自足のためにある程度以上の料理をこなす。ガスと水道の使い方も、人のやるのを見て覚えてしまっていた。
「どうした?」
妙に顔を赤らめて台所の入り口に固まっている征士を見て、悪奴弥守は小首を傾げる。
だが征士は何も言わずに何故か下を向きながらぎごちない動きでテーブルの方へ寄って来た。その冷えて青白かったはずの全身が一気に紅潮しているのを不思議に思いながら、悪奴弥守は征士の前に飯を盛って置いた。
それでも征士は挙動不審で目つきも手つきもどこかおかしい。
訳がわからないままに、悪奴弥守は合掌して箸を取った。
しばらくは何事もなく、食事を続けていたが、沈黙している征士に対し、悪奴弥守は怪訝に思って顔を上げる。
征士は無表情のまま鮭をほぐしていた。
……箸が異様に震えている。
別に寒気があるわけではないらしいのだが、手元が不安定すぎた。
「光輪? お前、体を冷やして熱でも出したんじゃないか?」
武士として鍛えている以上、そんなヤワな体じゃないと知りつつ、悪奴弥守はそう声をかける。
「え? いや、私は……」
悪奴弥守の声に過剰反応して、征士は大きく箸を振り回す。
結果、熱い椀をその先で引っ掛けて転ばした。
「熱っ……」
たちまちテーブルに茄子の味噌汁が飛び散り、征士の衣服に零れた。
「大丈夫か?」
悪奴弥守は自分の近くにあった布巾を取って渡そうとしかけ、挙動不審なほど狼狽している征士の様子に気付いた。
(?)
なんだかよく分からないがとりあえず布巾をもって立ち、征士の側へ行くと床に膝をついて征士の服の汚れを取る。
「火傷はないな?」
「あ、ああ……」
征士は更に何か言いかけたが喉の震えのために言葉にならない。喉だけではなく、全身が異様に震えていた。
「……どうしたんだ、一体?」
訳がわからずに悪奴弥守が征士の脚を拭き取りながら下から見上げる。床に膝をついている格好なのだから、当然だ。
それを見た途端、征士の手が悪奴弥守の肩の裏辺りを鷲づかみにした。
「?!」
予想外の行動に、悪奴弥守の対応が遅れる。
次の瞬間には悪奴弥守は不自然な姿勢のまま征士の腹の辺りに顔を押し付ける格好で抱きすくめられていた。
「な、何だ? 何なんだ?」
征士が深々と息を吐く。だが、その表情までは姿勢として確認することが出来ない。
「感無量……」
聞こえてきたのはそんな声だった。
「はあ?」
そんなことを言われても、悪奴弥守にとっては意味不明すぎる。
(味噌汁こぼして人に拭いてもらった事はなかったのか…?)
しかし相手は狐憑きを患っている事を思い出し、突っ込んだ事を言わずに腕を解くのを待とうとした。
だが、征士はなかなか悪奴弥守を離そうとしない。そして、しゃがんだまま椅子に座った人間の腹に顔をくっつけるような姿勢である。
「光輪、く、苦しい……」
長時間は耐え切れずに、悪奴弥守はそう言って布巾を持った手で征士の脚をバンバン叩いた。
それを聞いて、征士がようやく悪奴弥守から手を離す。悪奴弥守は深呼吸をしながら征士の腹から頭を起こした。
「悪奴弥守。」
その十字傷のついた顔を見つめながら征士が言う。
「征士と呼んでくれ。」
「……………」
古典的な技法で言うのなら背景に薔薇を散らして点描を飛ばしているような表情でそんな事を言われ、悪奴弥守は黙したまま背中をかきむしった。
峻厳な蔵王の山峰の曲がりくねった細道の奥。
突然、子供が好きそうな狐のイラストと丸文字の看板が現れる。
そこは軽く手を入れた森の木々の隙間に金網を張る事によって作られた、キツネの村だ。
六月の平日の昼間、そこには征士と悪奴弥守以外の客はいないようだった。
悪奴弥守は自動車のドリンクホルダーに入れっぱなしだった缶ジュースをもち、征士は手ぶらである。二人とも梅雨前の暑い時期で軽装だった。
係の女性が感じのいい笑顔でキツネの餌を入れたビニール袋を二人に手渡してきた。
「巡回路の途中に、金網の大きな部屋がありますから、そこで餌を上げてください。他のところではダメですよー。」
「……今のキツネはこんなものを食うのか……?」
大粒のドライフードを不思議そうに見る悪奴弥守に、征士は苦笑する。
「まず、キツネにやってみよう。」
「結構、凶暴なコもいるわよ? 気をつけてね。」
ずっと客がなくて、仕事が暇だったらしく、係の女性は楽しそうに笑いながらそう言った。
「ありがとう。」
そう言って征士が会釈をするので、悪奴弥守も釣られて頭を下げる。
そのまま二人が巡回する小道のある戸口の方へ抜けるのを、女性は手を振って見送った。
ひっきりなしに鋭い獣の声が聞こえてくる。
それは甲高く長い一つの声に調和して、群れが声をそろえているようだった。
悪奴弥守を連れて矢印の板に示された砂利と落ち葉の小道を歩きながら、征士は不安になってくる。
「この声は、なんだろう。」
「出産だ。」
あっさりと悪奴弥守は答えた。
「出産?それでは痛みの声か?」
「そうだな。雌の緊張が、群れの雄や子供にうつっているんだ。手伝うつもりがないのなら、そっとしておくのが一番いい。」
「……そうなのか。」
当然、征士はそんなところに立ち会った事は一度もない。
興味はあったが、何となく気が引けた。悪奴弥守にそっとしておけと言われたからではない。やはり雌の生みの苦しみというのは畏怖と畏敬の対象である。
小道を歩いていくと尾の太いキツネたちが呑気に寝転がっているのが見えた。その先に、大型のダンボール大の柵がついた木箱があり、そこに小型の見るからに若いキツネたちが群がっている。その中に、叫び続けるキツネの尾がある。
「尾が随分、大きいのだな。」
誇張ではなく大人物のマフラーのようなキツネの尾に征士は思わず感心する。あたりは獣臭いが、それは初夏の木々の青い匂いにまみれて不快は感じさせなかった。
「……ん。そう思うか。」
そのとき、呆けていたのか悪奴弥守は歯切れの悪い返事をした。
「どうした、悪奴弥守?」
「いや、何でもない。」
そう言って、悪奴弥守はビニール袋から小型のドライフードを取り出して食べた。
「な、何を食べているんだ?」
「キツネの餌。」
「何故、そんなものを食べる?」
「いや、キツネが、こんなもの本当に食べられるのかと思ったんで、まず俺が食べる事にした。」
自分が食べて安全なら、キツネが食べても安全。
それは確かに悪奴弥守の考えそうな事だった。
「吐き出せ!」
何でこう危なっかしい行動ばかり取るのかと額に青筋を立てて征士が怒鳴る。
「え? 何で?」
やっとの事で悪奴弥守から餌の入ったビニール袋を取り上げて、征士は一息つく。
人間の食料品でさえ場合によっては蕁麻疹が出たりする体で、動物用のドライフードをいくつも食べたりしたら倒れるかもしれない。
今の時点でも十分に征士は心配だった。
「悪奴弥守、口を開けろ。」
そう言って、征士は彼の唇に指を当てる。
「何で?」
警戒を表してそう聞いてくる悪奴弥守に、征士は強い視線を向けた。
「いいから。」
「……?」
征士の表情から何を読み取ったのか、悪奴弥守は軽く口を開けた。
そこに征士はすかさず指を突っ込んで、喉まで刺激しようとした。
「?!」
「今食べたものを、吐き出せ。」
「………!!」
征士のやろうとしていることを正確に悟り、悪奴弥守は体をひねって逃げようとする。
それを至近距離から掴み上げて抱き寄せて、征士は更に指を口の中、深くに入れていく。
「んんっ……!」
苦しそうに悪奴弥守がうめく。実際、相当に苦しいだろう。
「ちゃんと全部、吐くんだ。お前の体に危険なものが入っているのかもしれないのだから。」
「んー!」
「病院にいけないのだから、仕方ないだろう。私が何とかするしか……」
しかし悪奴弥守の方は征士の言っている事を聞く余裕もない様子で暴れ始めた。そうは言っても征士を攻撃しないように気をつけているので、たいした力ではない。
「悪奴弥守!」
叱りつけるように言った瞬間、悪奴弥守が征士の胸を強く突き飛ばし、やっとの事で腕から逃れた。しかし、弾みでバランスを崩し小道の側の茂みに転ぶ。
「……変態!」
苦しさにむせながら悪奴弥守はそう言った。口の周りから顎まで唾液で汚れている。
「どうとでも言え、悪奴弥守。そんなものを口に入れたりするお前が悪いんだ。」
「俺の体の回復の力は知っているだろうっ?!」
「それさえあれば、体に危険なものを食べてもいいのか?それは不遜な考え方だ!」
厳格に育てられた男らしく、征士は思い切り悪奴弥守をそう怒鳴りつけた。
驚いたように悪奴弥守は征士を見上げる。次第にその顔に困惑が浮かんでいくのを心苦しく思いながら、征士は悪奴弥守の前に座るとまた唇に指を当てた。
悪奴弥守は大人しく口を開いた。
「……笑うなよ?」
「私がそんなことをすると思っているのか。そうしろといっているのは私なのに。」
征士は出来るだけ優しく口の中に指を差し込んでいった。
悪奴弥守はその指を噛まないように、最後まで気をつけていた。
イラクサの茂みの中でその恥ずかしい行為が終わった後、悪奴弥守は純粋に苦しさで涙ぐんで咳き込んだ。
征士が代わりに自分が持っていたレモンジュースのプルトップを開けて差し出す。
悪奴弥守はやっとの事でそれを飲み込んだ。
「落ち着いて飲め。」
「……ん。」
何回にも分けながら、悪奴弥守が液体を飲んでいく。その口の周りから淡い色のシャツは黄色に汚れ、異臭を放っていた。
それでもレモンの味は口と喉の苦く粘ついた味を中和したらしく、悪奴弥守はしばらくすると大きく息を吐いた。そして醒めた笑いを見せる。
「無様だと思っただろう?」
「何故だ?」
瞬間的に苛立ちを感じる。五年間、ずっと付きまとってきた焦れったさが、征士の中で最高に強まっていった。
「こんな事で、お前の手を借りるなどと、情けない。」
その笑いは自嘲だとはっきりと分かった。
「そうだな。情けない。悪奴弥守は分かっていない。」
そう言いながら、征士は悪奴弥守の肩を乱暴に引き寄せる。
「……よせ!」
何をしようとしているのか即座に察して、悪奴弥守がまた暴れようとする。しかし、不自然な嘔吐で体力を使ったためにうまくいかない。
征士は、悪奴弥守の口を強引に自分の口でふさいだ。汚いなどとは思わなかった。
いくらレモンで注いだとはいえ、恥辱行為の直後の口だ。悪奴弥守は歯を開ける事も舌を使う事も出来なかった。
一分の後、それに気付いて征士は唇を離す。
「私が手を貸したい時は、どんな時でも拒まないでくれ。」
焦れる思いを押さえながら、ようやく征士はそう言う。
「そんな事は、出来るはずない。」
「だから分かっていないというんだ!」
勿論、悪奴弥守の今の行動を情けないとは征士は思っていない。だから、くちづけた。
むしろ、手を貸した事で悪奴弥守に自嘲されてしまった自分の方が情けないと彼は思った。
当然だが、五年間、彼は悪奴弥守に対等の存在かそれ以上に見てもらいたいと望んできた。そのために悪奴弥守を泣かせるような事までして抱いたが全然気持ちが通じていない。
焦燥と困惑をどう言葉に直していいか分からずただ征士は悪奴弥守の顔を睨む。悪奴弥守は征士の貸したハンカチで顔を拭い、急にある一方へと眼を向けて、顔を綻ばせた。
「……どうした?」
苦しそうだった表情の急激な変化に戸惑って、征士はそう聞いてしまう。
「生まれた。」
そういえば、甲高かった声は聞こえず、キツネたちの声も肌がひりつくような緊張は感じさせなくなっていた。
騒々しい事には変わりないが、そこには嬉しげな余裕が確かにある。
「見に行くか、悪奴弥守?」
畏怖の気持ちが消えて、征士は立ち上がる。キツネの赤子を彼は見た事がない。
しかし悪奴弥守は首を左右に振ってその場から動かなかった。
「見なくてもいいのか?」
「雌は、疲れている。怯えさせてはいけない。」
征士は考える。
母ギツネたちは人に慣れているだろうし、悪奴弥守は獣が勝手に寄って来るほど好かれる体質だ。獣へ精通した知識も持っている。つまり生まれたばかりの人になれないキツネの赤子と、特に獣に詳しい訳でもない征士への配慮だろう。こうした事を言明する事は、悪奴弥守は何故か滅多にしない。
「……分かった。」
征士は静かに微笑んだ。対等になりたいと思うと同時に、こういう態度を取られるのは、嫌いではないのだ。
蔵王の近くの温泉郷へ行き、古くからある旅館で食事を取る。
その後、まるで湯治でもするように時間をかけて湯につかった。
その時にしっかり見たが、悪奴弥守の体には異常はなかった。
二人とも、取り立てて口数が多いわけではない。
時折、静かな会話が流れて行った。
夕暮れに家に戻り、今度は協力して夕飯を作った。
風呂に入った後、居間で休憩を取って、二人で同じベッドに入る。
悪奴弥守は相変わらず盛ることはない。
それでも、征士に合わせる事は出来た。
悪奴弥守に悪夢が訪れないようにと征士は祈る。
征士について悩みながらも、悪奴弥守はまだ離れる事が出来ない。
そのまま二人は、穏やかな眠りに落ちて行った。