そうだね。中学生にネットはまだ速いのかもしれない。
こういうことがあると、余計にそう思うよね。
そこからが悪夢だった。私は、姉と同じ私立の進学校を受験する予定だったが、とてもそれどころじゃなくて、まとめサイトや匿名掲示板の炎上を、日々追いかけるようになった。
学校のコマとコマの間の僅かな時間も、スマホを握りしめて炎上のネタを追いかけた。
ネタ。
匿名掲示板やまとめサイトで話題になっている事は、ほぼ全部が”ネタ”だった。本当の事なんか、1%も入ってなかった。99%は嘘だった。それでも、多くの人々は、その”ネタ”に大喜びで食いついていった。ちょっとした事から誰かが思いついたり連想したりしたことを、想像で補って、面白おかしく悪口言える形にしてしまうことを、”ネタ”と言うのだと、私は初めて知った。
大勢の大人達が狂喜乱舞して、父や母をくそみその嘘で叩くのを、私は中学校の校舎の片隅で震えながら見ていた。どうすることもできないのかと、泣いた事も何回もある。
大勢の大人がこんなくだらない嘘にあっさり騙されて……と思うような話題のほとんどは、何故か性的な話題で、私はそのことに、ものを言う事はできなかった。
何故、友原製薬は炎上したのか。
それでも、経緯は、友原製薬のアンチではあるけれど(それでも本人は中立で公正な立場だと言っている。個人サイトなのに)、まとめサイトで知った。
発端は、友原製薬の販売しているダイエットサプリだった。
そのダイエットサプリはよくある、食事制限や運動と組み合わせると、効果を発揮するというタイプのもので、ただ飲んでいれば痩せるということはない。そのことは箱にも説明書にも丁寧な文章で書いてある。
だが、それを誤読した客の一人が、「飲んでいても痩せない!」とカスタマーセンターに食いついた。
友原製薬は効果が出なかったと聞いたので、マニュアルに従って丁寧にお詫びをした上でクーリングオフを受け付けた。
だが、客はそれでおさまらなかった。
「誠意が足りない!」と電話口で喚き、録音したといって無断で公開し、さらに匿名掲示板で客を集めて、友原製薬の不買運動を始めた……という流れ。
「見えない何かと戦っている」と日頃から評判の掲示板を狙ってうまく人を誘導して、まとめサイトや検証サイトを乱立させ、友原製薬の商品を買わないように人々を煽っていた。
友原製薬は小児用の薬もいくつか販売しているため、「子どもにも分かるように」と「絵本のようにかみ砕いた」まとめサイトもたくさんあった。
そこでは何か父や母が、子供用のイラストで、悪者のオオカミにかかれていた。オオカミは大勢の人達に嫌われ、諫められ、コテンパンにされ、そして結末は必ず、「嘘つきオオカミはいなくなってしまいました」というような流れにされて、皆がニッコリ笑ってハッピーエンド。
そのまとめサイトのおかげで、私は両親に何があったのか知る事ができたのだった。
そして、そのことをなかなか両親には言えなかった。ネット上で、いやらしい性的な事をたくさん言われていたから。そんなこと、中学生の私が、見たとか聞いたとか、親に言える訳がない。それで、私は悔しくて、泣いたのだった。家ではなく学校で。
勿論、親でさえがこうだもの。20代の兄や姉はもっととんでもない言いがかりをつけられていた。
特に、お姉ちゃん。お父さんとお母さんの自慢の種で、将来、薬の研究者になるはずのお姉ちゃんは、妹の私から見ても、美人で面倒見が良くて、素敵な人だった。
頭が良くて、私のわからない宿題を根気よくつきあって教えてくれた人だった。
そのお姉ちゃんを、「あいつは本当は馬鹿だ」と”匿名掲示板”で”クラスメイトと名乗る人”が書き込んでいた。
薬学部なんて言って、基本的な化学式も一つもとけないとか、英語のスペルが間違っているとかそういうことをあげつらい、それでも成績がいいのは
……教授と寝てるからだとか。……入学できたのも大学教授と不倫していて、縁故で入学できたんだとか。そういうことを、まことしやかに、”クラスメイトと名乗る人”が書いていた。
勿論、私は知っている。今でも、忙しい母の代わりに、私にお弁当や夕飯を作りながら、姉が真面目に、部屋で勉強していること。
姉が薬科大学に入学した時、私は小学校だったけど、夜中に起きると姉の部屋にはいつも灯りがついていて、姉がコーヒーを飲みながら頑張って勉強していたこと。私に気がつくと姉は眼鏡をかけなおしながら、笑って、「おなかすいたの? ……何か夜食つくろっか?」
そんな人が、なんで、大学教授をたぶらかしてカンニングや裏口入学をするわけがある?
悔しくても、どうしようもない。ネットの上で、そこでは、私の話を書く場所もなければ話を聞いてくれる人もいない。
ただでさえ、まとめサイトとか炎上には、狂ったマイナスの熱がある。私はそれに当てられて、夜も眠れず、ご飯も食べられなかった。勉強なんてしているどころじゃなかったのだ。
勿論、そのことに、真っ先に気がついた人がいる。
姉だ。
私の姉は、私が前のように「おなかすいた」と騒がなくなった事にすぐ気がついた。それで、私に笑って聞いてきた。
「どうしたの、のゆり。……ダイエットでもしてるの?」
ダイエット。
ダイエットサプリ一つで、私の住んでいた世界は壊れた。
姉が、友原製薬炎上の騒ぎを知らない訳がない。姉は、どんな気持ちで私に、そんなことを言ったのだろう。そしらぬ顔で。笑いながら。妹は何も知らないと思って。
……自分たちが私には何も知らせず、完璧な幸せを作っていると思って……。
「お姉ちゃん」
私はそのとき、恐かった。だけど、ちょっとだけ、凶暴なぐらいな感情がこみあがってきて、口が滑るのを止められなかった。
「うちの会社、大丈夫なの?」
「え……?」
「見ちゃった」
見ちゃった。
私はそう言っちゃった。姉には全部、それで通じたらしい。そのあと、私と姉は、姉妹始まって以来というぐらいの口論をした。姉は、通じたはずなのに、認めなかった。友原製薬はなんでもない。炎上なんて聞いた事がない。
私がスマホでスレッドをめくって突きつけるまで、姉はしらっとぼけて、炎上なんて嘘だと私に言い聞かせようとした。
「私、いつまでも子どもじゃないんだよ!! 本当の事を教えてよ!!」
私はスマホで一番大きなまとめサイトと連携している、匿名掲示板のスレッドを検索して、姉に突きつけて怒鳴ったのだった。
姉は顔面蒼白になった。
何も言わなかった。何も言えないような衝撃を、成人している姉に与えたのだと、私は暫く気がつかなかった。私にとって、姉は常に大人の存在だったから。
姉はうつろに視線をさまよわせ、びっくりするほど頼りない仕草と足取りで、私の部屋から出て行った。そして隣の自分の部屋に入っていった。ぱたん、とドアが閉まる音がした。
私はそのときは、何が起こったのかわからなかった。
姉は、部屋から出られなくなった。