向けられた背中--。
螺呪羅は、その場で、悪奴弥守に背中を向けた。
びっくりしている悪奴弥守の前に、はっきりと背中を向けたのは、拒絶の仕草のようにも見えた。
「小次郎、帰るぞ」
「はいっ」
いかなる場合も部下は部下。動揺を隠して螺呪羅の方に着く。
きょとんとしたのは闇神殿と瑠璃光殿だった。
「悪奴弥守、那唖挫。ナリスマシの処置は俺が言った通りだ。ナリスマシは俺が預かり、徹底的に知っている事を吐かせる。必要な話はお前達にも回す」
「スヤリさん、ちょっと失礼しますね」
小次郎はそう言って、気絶して縛り上げられているナリスマシをスヤリの手から取り上げた。もうこのまま蓮華殿に連れて行く気だ。
「そ、それはいいが……」
那唖挫が何か言いかけるが、螺呪羅は無視して、小次郎にナリスマシを背負わせたまま、さっさと廊下に向かい、勝手知ったる闇神殿の出口に向かっていく。
悪奴弥守の方は、妙に驚いた顔をしている。
だが、まるっきりのバカでもなく、カンは鋭い方であるから、こちらも何も言わなかった。俺が何をしたって言うんだよとも、何も言わず、驚きの後は悲しそうに黙りこくっていた。
「長、もう少し、寝所で休まなくていいのか」
ヤヅカがそう気遣った。
「起きたばかりだろう、長。腹は減ってないかい?」
スヤリも、妙に悲しんでいる風情の悪奴弥守に、そう声をかけている。
螺呪羅は悪奴弥守にも那唖挫にも背中を向けたまま、どんどん先に廊下を渡り、やがてその背中も見えなくなってしまった。
「一兵衛、後は頼んだ」
そこで那唖挫が動いた。一兵衛にそれだけ言い捨てると、廊下を走るようにして早足に、螺呪羅の方を追いかけた。
今、何かあったことは分かったのだ。そりゃ、誰でも分かるだろうが、
自分の言った事が引き金になり、第×次蓮闇戦役などということになったら目も当てられない。
蓮華殿と闇神殿が黄雲大路で衝突したのはつい先日のことだ。また同じ事にならないように、とにかく螺呪羅から情報収集して、なだめようと思った。
空気で、悪奴弥守は何も分かっていないが、螺呪羅の方が問題を持っている事はすぐ分かったのだ。
しかし、螺呪羅の方は、乱波なのだから那唖挫が着いてきている事など分かっているだろうに、平気で無視してどんどん先へ歩いて行く。あっという間に闇神殿を出てしまった。
「待て--螺呪羅、待ってくれ」
ちなみに、夜になれば、乱波の方がどういうわけか歩く速度が速くなる。少なくともそう感じられるのは何故だろう。
どんくさい末っ子は必死に長男を追いかけた。
螺呪羅と小次郎は忍びらしい速度で、大路も小路も気にせず、最短距離を早足で抜けていく。小次郎はナリスマシを背負っているにも関わらず、平然として息を乱す様子もない。さすがに、瑠璃光殿とは鍛え方が違うということか。桃色のお洒落装備に騙されてはいけない。
もう少しで煩悩京の東の端、蓮華殿が見える辺りになって、那唖挫はやっとのことで螺呪羅に追いすがった。
「螺呪羅、待ってくれ、螺呪羅!!」
そう大声で何回目かに怒鳴って、螺呪羅が那唖挫を振り返ってくれたのだ。
少し先で待ってくれている螺呪羅と小次郎に、必死で那唖挫は走って行った。
「どうしたんだ、一体……」
「どうした、とは?」
那唖挫はそこで素直だった。元から、那唖挫にはそういうところがある。自分が兄のように慕う人物の前では、すっかり本音を話してしまうのだ。
「せっかく、悪奴弥守がナリスマシを見破って、螺呪羅は螺呪羅しかいないと言ってくれたのに、何故そんなに怒っている。悪奴弥守に、礼を言わなくていいのか。悪奴弥守も、お前の様子に驚いているのに」
「……」
螺呪羅は、軽く溜息をついた。
そんな質問には困ってしまうのは、本当の事らしい。
小次郎の前で妙な事を言うなと言いたくても、小次郎の方はあからさまに聞こえないふりをしている。実に護衛の忍びらしく、俺は何も見てないし聞いていないという様子で、螺呪羅と距離を取っていた。
「那唖挫、悪奴弥守はどうやって、俺とナリスマシを見破ったと思う?」
そこで螺呪羅はどうしようもない話をし始めた。
「それは……」
それがわからないから面白いのではないか? と那唖挫は首をかしげた。
那唖挫は自分の方が照れくさいような妙な気持ちになっていた。それは、悪奴弥守にしかわからないような螺呪羅の見分け方があるんだろうし、呪法さえも破るような、螺呪羅と悪奴弥守の繋がりだろう。
繋がる心とまで言ったら、さすがに乙女過ぎる。もしかしたら、螺呪羅が悪奴弥守に何か合い言葉とか、秘密のような事を教えていたかもしれないし、それを教えるような繋がりが、誰にも見えないところであったのだ。
九州男児でありながら、那唖挫はナチュラルにそういうことを考えるところがあり、それで長兄にも次兄にも無差別に可愛がられるのである。
「それは俺にはわからんが、何か、二人だけの合い言葉のような、符牒があったのだろう」
那唖挫は照れを必死に隠しながらそう言った。
「そんなものはない」
螺呪羅は自ら那唖挫ドリームを一刀両断した。
「それはな、那唖挫」
「う、うむ……」
那唖挫はこれまた素直に身を乗り出した。
「俺が、くさいからだ」
「………………?」
那唖挫は、意味が全く分からなかった。
くさい。くさいとは、臭い、それしかないだろう。臭い、と、……悪奴弥守が、螺呪羅に言った、ということだろうか。
あの、超感覚、視覚嗅覚聴覚抜群の闇魔将軍の長の悪奴弥守が。
それこそ考えようによっては、那唖挫の赤外線センサーよりも遙かに高感度センサーのような悪奴弥守が、言ったのか。
どちらが高感度と言ったところで、持ち前の分野が違うからなんとも言えないのだが……。
「どういうことだ?」
那唖挫は本当に訳が分からなくてそう聞いた。この末っ子、ここで聞いちゃいけない事を聞いたなんて考えるタマではない。好奇心を持ったが最後、その好奇心が晴れるまで、何がなんでも知りたがる。
「どういうこととは?」
「なんで、悪奴弥守が、お前にそんなことを言ったんだ。悪奴弥守だって、自分の鼻の良さは分かっているんだろう。それで、どうして……?」
「俺が奴に迫ったからだ」
「迫る?」
「わからない訳がなかろう。俺が、あやつを慰めて、寝ようとした時に、あやつが泣き叫んだ。”くさい”とな」
「……」
那唖挫は一瞬、信じられずに、螺呪羅の方を見やった。
螺呪羅が変な嘘をついているのかと思ったのだ。
だが、螺呪羅にそんな様子は全くない。
彼は、何故か真剣な面持ちで、那唖挫にそれを教えていた。
「俺も、悪奴弥守が、威嚇のために”くさい”と言ったのかと思った。一緒に寝るような関係の男、それを追い払うのに、ちょうどよい言葉だからな」
「あ、なるほど……」
確かに、嗅覚抜群の悪奴弥守にくさいと言われたら誰だってショックだ。わざとそう言って追い払おうとしたのかもしれない。
(それにしたって、言葉を選べ、あのバカ!!)
那唖挫だって、そう思う。わりない仲というか、寝たりするような関係の男に言う言葉ではない。
「だが、先ほどの話では……そうなのだろうな」
「え」
「本当に、俺は匂うのだろう。どうしようもない悪臭が俺からするから、奴の鼻が嗅ぎ分けたのだ。ナリスマシは、体温を真似する事は出来なかった。俺の体の熱や汗と、悪臭は関係あるのかもしれんな」
「……」
螺呪羅はどこまでも冷静に、自分の事をそう評した。
この煩悩京一、美しく、しゃれた男が、最も執着する男に、悪臭男と思われていると那唖挫の前で言い切った。
「え、……えええ!?」
那唖挫は目を白黒させる。
ちなみに、匂いといったら、少なくとも、那唖挫は螺呪羅からはとてもいい匂いを嗅ぎ取っている。何しろ桃色装備のお洒落さん、戦場であっても香などには気を遣い、汗臭さや防具の臭さなどは感じさせないのだ。
那唖挫は現在のところ、螺呪羅から白檀の良い匂いを嗅ぎ取っているが、悪奴弥守レベルの鼻の良さとなるとまるで違う匂いも嗅ぎ取れるんだろうか。さながら遠赤外線のように。
「悪奴弥守も、まさか、皆の前で幻魔将の俺のことを、悪臭野郎とは言えまい。それで、恥ずかしくて真っ赤になって顔を背けたのだ。可哀想だから、俺が黙って立ち去ってやるのが優しさだ。分かったか、末っ子よ」
「……」
( ゚д゚ )ポカーン
↑最早、こんな顔するしかない那唖挫であった。
それは恐らく、那唖挫が転生する前の事件だったのだろうが、那唖挫の目から見て、螺呪羅は確かに傲慢でワンマンなところはあるが、十分に悪奴弥守を思いやっていたし、色々な意味で大好きであるということは分かっている。それが恋情かどうかまでははっきりしなかったものの、那唖挫としては、何故かこの段階で、恋情だと確信した。
(みんなの前でくさいって言われて、優しい気持ちで逃げ帰るって、そして、くさいと言われた事に何より傷つくって……恋だな、これは……)
変なところで変な判断をする男、那唖挫。
そして、恋する男に、くさいという言葉や態度を平気で投げつけてくる悪奴弥守に無性に腹が立ってきた。
だから荒くれ男と勘違いされるのだ、闇神殿は。意外に頭も良いしデリケートなところもあるのだが、どういう訳かバリケードと勘違いされそうな事ばっかりやっている。
これは悪奴弥守に意見が必要だ。少なくとも那唖挫はそう思った。
そのため援軍をと思い、小次郎の方に視線を投げると、小次郎の方は何食わぬ顔で、木石のような無情な笑顔で黙ってしらばっくれやがった。
それは、小次郎だって、螺呪羅の側近中の側近だ。螺呪羅のためを思って何かと細々と動いた事もあるだろう。悪奴弥守のために。だがそこは、妖邪兵と魔将のどうしようもない差もあったことだろうし、さすがに小次郎も閨の中まで参加している訳じゃないんだから、なにがなんだか分からない事がたくさんあったんだろう。それで最早諦めて、今回はこっちが不参加ということか。
「分かった、螺呪羅、お前、今言った事は本当だな」
那唖挫は、意志の固い声でそう言った。
「何」
「本当に、悪奴弥守が、抱こうとした螺呪羅にくさいなどと言ったのだな。俺はそれを聞いているのだ」
「……そうだ」
螺呪羅は嘘を言ったつもりはないので、静かな声でそう答えた。
「俺はそれは言っていい事じゃないと思う」
するとそこで、小次郎が首をすくめている。
なんだか”そうなんですよねー”とでも言いたそうだ。
「だが、悪奴弥守の方も、言わなきゃいけない何かがあったのかもしれない。悪奴弥守は理由もなくそんなことを言う男ではない」
「……?」
螺呪羅はそこは首をかしげた。
螺呪羅から見ると、いつも怒鳴っている悪奴弥守は、わりとそういうところがあるように見えるのかもしれない。那唖挫は何しろ悪奴弥守に猫かわいがりされている立場だから、それはわからんだろうが……と言い足そうに見える。
だが何も言わなかった。那唖挫に向かって、悪奴弥守の悪口を言う必要はない。
「俺はこれから、くさいの件について、悪奴弥守に聞いてくる。何か行き違いがあったのかもしれんし……いいな、螺呪羅?」
「別にそれはかまわんが?」
螺呪羅は何故、那唖挫がそんなことを気にしているのかわからない様子だ。
「そうしたら、螺呪羅、悪奴弥守に礼を言え。言ってくれ」
那唖挫はそこについて食い下がった。
「那唖挫……?」
「お前の危機を救って、お前に礼を言われる。それぐらい、悪奴弥守だって気分良く受け取るだろう。そうすれば、俺は悩みの種がなくなるし、お前も何かとやりやすくなる。そうではないか? 何も悪いことはない」
「なるほどな」
噴き出しそうな顔になって、螺呪羅は悪奴弥守に礼を言うことを約束することにした。
これだから末っ子は可愛い。
「だが、悪奴弥守から色よい返事が来るとは限らない。そこは気をつけろよ、那唖挫。今あいつは、戦闘直後で気が立っているからな」
螺呪羅は長男らしく、那唖挫にそう釘を刺した。
那唖挫はぱっと明るい顔になった。螺呪羅はこういうところが実は優しいと思う。そして嬉しそうに身を翻して闇神殿にとって返すことにした。
見ると小次郎は、あまり期待していなさそうだったが、応援はするようで、那唖挫に親指を立ててくれていた。