はじまりの絆


 道場を出て、森の区の路地に出ると、夕陽が家々の屋根を赤く染め始めていた。
 ボミンゴ広場の噴水からは、今日も釣り糸を垂らす影と、冒険者たちの声が聞こえてくる。

(三日後、東サルタバルタ)

 シャナは、赤いロングコートの裾を翻しながら、空を仰いだ。

 外の草原で、何が待っているのか。
 魔力の乱れか、ヤグードか、あるいは――戦争の残した、また別の傷か。

 そして。

 喉元に青い双子石を下げたミスラの拳が、その中でどう輝くのか。

 それを確かめるのが、少しだけ楽しみだと、自分でも驚くほど素直に思った。



 東サルタバルタの陽射しは、森の区の路地よりもいくぶん強く感じられた。

 ウィンダス森の区の門を抜けると、視界が一気に開ける。
 緩やかな丘と、遠くまで続く草原。
 どこまでも広がる空と、風に揺れる草の匂い。

「ん~っ、外の空気はやっぱりウマいニャー!!」

 門を出た瞬間、フィグ・ラーヴは両手を大きく広げて、思いきり胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

 耳がぴんと立ち、尻尾がぶんぶん揺れている。
 喉元の青い双子石が、陽の光を受けてきらりと輝いた。

(元気だな)

 シャナンディ・S・リシャールは、うっすらと目を細めた。

 森の区の中でも十分うるさかったが、外に出るとさらに一段階、声の高さと音量が上がるらしい。

「フィグ殿、はしゃぐのは結構ですが、記録はちゃんと取ってほしいのだ……」

 とろとろした声でぼやいたのは、目の院からの同行者、タルタルの研究者だった。
 丸眼鏡に、書類束を抱え、杖をついている。

 名前は、ピピル・ポポル。
 目の院の助手であり、フィールド調査担当でもあるらしい。

「東サルタの魔力分布、ヤグード出現位置、モンスターの行動――全部、大事なデータなのだ。私は魔力測定と地図の記入で手一杯なのだ。護衛兼案内のフィグ殿には、ぜひしっかり働いてほしいのだ」

「任せるニャ!」

 フィグはくるりと振り向き、胸を張って親指を立てた。

「道もモンスも全部知ってるニャ! ピピル殿は足元だけ気をつけるニャ。転んだらモンスより早く拾うニャ!」

「頼もしいのだか、物騒なのだか、よくわからないのだ……」

 ピピルが困り顔でため息をつく。
 シャナはその横で、淡々と周囲を見渡していた。

 緩やかな丘陵。
 遠くを流れる川。
 草むらの影で、ウサギや鳥の気配が小さく動く。

 近くを、蜂の羽音がかすめた。
 やや離れた場所には、マンドラゴラらしき白いシルエットがぴょん、ぴょんと跳ねている。

(確かに、初心者の訓練にはうってつけの土地だな)

 資料にあった言葉を思い出す。
 “都市に近いため、強力なモンスターはおらず、ヤグードの下級僧などがうろうろする程度”――。

(だが、今回の目的はレベル上げではない)

 ピピルが抱えている書類束には、目の院がまとめた報告が綴じられていた。

 ・東サルタバルタの一部で、精霊魔法の成功率が不自然に上がる地点がある。
 ・ヤグード斥候の行動範囲が、通常よりやや内側に食い込んでいる。
 ・クロウラーや蜂の出現位置に、軽微な偏りが見られる――。

(禁書か、戦利品か。あるいは、戦争の残滓か)

 それを確かめるのが、今回の任務の目的だ。

「――シャナニャ!」

 フィグに呼ばれ、視線を戻す。

「何だ」

「ほら、あそこニャ!」

 フィグが指差した先、丘の陰から、ウサギ――サバンナララブがこちらをじっと見ていた。
 耳をぴくぴく動かしながら、今にも逃げ出しそうな、今にも飛びかかってきそうな、微妙な距離感。

「あれくらいなら、あたし一人で倒せるニャ。見てるニャ?」

「……好きにやれ。ただし、ピピル殿の近くには寄せるな」

「了解ニャ!」

 フィグは嬉々として前に飛び出した。

 草むらを蹴り、ララブに向かって走る。
 ララブが驚いて跳ねた瞬間、その目の前でぴたりと止まり、わざと大げさに腕を広げて見せた。

「ほらニャ~、こっちニャ~! 変なタルタルのほうには行かせないニャよ~!」

「変なは余計なのだ!!」

 ピピルの悲鳴じみた抗議を背に、フィグはララブの跳びかかりを横にすべり、腹への一撃を入れ、最後に顎へ軽いアッパーを入れて仕留めた。

 ララブがひっくり返って動かなくなる。

「よし、こんなもんニャ!」

 フィグはぽん、と拳を打ち合わせた。

 三、四匹ほどそうして倒したあとも、彼女の息は上がらない。
 足取りも軽い。
 シャナは、ララブの位置と倒した地点をざっと確認しながら、ピピルの方に視線を向けた。

「どうだ、研究者殿。出現位置や行動に、異常は見られるか?」

「今のところは大きな偏りはないのだ。ただ――」

 ピピルは首をかしげる。

「風と土の精霊魔法の反応が、時々“跳ねる”のだ。何かの拍子に、少しだけ魔力が濃くなって、すぐ元に戻る感じなのだ」

「……場所は?」

「丘の向こうと、あの川の近くと――あと、崖縁のあたりなのだ。どれも長くは続かないのだが」

 崖縁、という言葉に、シャナは視線を上げた。

 森の区からまっすぐ南へ抜けた先、遠くには、海に向かって落ち込んでいる崖が見える。
 その途中にも、小さな段差や崖のような地形がいくつかあった。

「とりあえず、丘を一つ越えてみよう。高い位置から全体を見たほうが、ヤグードの動きも掴みやすい」

「了解なのだ」

「了解ニャ!」

 フィグは返事と同時に、先頭を走り出していた。

「……走るなと言っていないぞ?」

 シャナが小さく呟く。

 だが、彼女の足は軽い。
 森の区の子どもたちの先頭を走り回ってきた足だ。
 足音のリズムを聞くだけで、これまでどれだけこの平原を走り回ってきたのかが伝わってくる。

(問題は、張り切りすぎなければ、だが)

     

 丘の上は、見晴らしがよかった。

 ウィンダスの森が、遠くに霞んで見える。
 川が蛇のように曲がり、ところどころに木立が点在している。
 その影には、蜂や小さなマンドラゴラ、クロウラーの姿も見えた。

「ふー……!」

 フィグが両手を腰に当てて息をつく。

「やっぱりここ、見張り台みたいで気持ちいいニャ。子どもの頃、よくここで遊んでたニャ。怒られたけど」

「こういうところで遊ぶのは、確かに怒られて然るべきだな」

 シャナは、崖縁の位置を確認しながら、皮肉を返した。

 丘の片側はなだらかな斜面で、ゆっくり降りられそうだった。
 だが反対側は、思ったより傾斜が急で、そのまま段差になり、小さな崖になっている。

 草に隠れて見えにくいが、足を取られれば転げ落ちる程度の高さはある。

「見晴らしはいいが、足場は悪い。あまり近づきすぎるな」

「大丈夫ニャ、大丈夫ニャ。何度も来てるニャ」

 フィグはひらひらと手を振り、崖縁に近づいていく。

「あっちの方、テポカリプカの池ニャ。珍しい魚が釣れるニャ。で、あっちの方は――」

 軽い足取りで、一歩、また一歩と進む。

 その瞬間、乾いた音がした。

 ぱき、と。

 崖縁に生えていた草と土が、一部ごっそりはがれ落ちる。

「みゃ――っ!?!」

 フィグの足元の土が崩れ、身体が前に傾いた。

 空と地面が、ひっくり返る。

 崖の下には石と岩。
 この高さから落ちて、ただでは済まない。

(やれやれ)

 シャナの身体は、頭で考えるより先に動いていた。

 崩れかけた土の上を一歩で詰め、フィグの手首を掴む。
 滑りかけた小さな身体を、ぐいと自分のほうへ引き寄せる。

「あっ――」

 フィグの声が、胸元のあたりで止まった。

 彼女の身体が、勢いのままシャナの胸にぶつかる。
 青い双子石が、ロングコートのボタンにコツン、と当たって小さな音を立てた。

 崖縁ギリギリで、二人の足が止まる。

 フィグの顔が、至近距離にあった。

 金色の瞳が、驚きで見開かれている。
 獣の耳がぴんと立ち、耳の根元だけが真っ赤に染まっていた。

「……」

 しばし、時間が止まったようになった。

 フィグの喉元で、双子石が淡く光っている。
 何かを守るように、かばうように。

「前を見る時は、足元を確認してからにしろと言ったはずだが」

 シャナは、わざと淡々とした声で言った。

「だ、だって、景色が……!」

 フィグは、ようやく言葉を取り戻すと、慌ててシャナの胸から身を離した。

 しかし足元がまだ少し不安定で、尻尾が慌てた猫のようにバタバタ動く。

「……近いニャ」

 ぽつりと漏れたその一言は、本人も気づいていないほど小さかった。

 シャナは、何も言わずに彼女の手首を放し、歩幅を半歩分だけ後ろに下げた。

 頬が、わずかに熱い気がした。
 だが、それが崖縁の風のせいなのか、別のものかは、考えないことにした。

「ふ、ふん……!」

 フィグは咳払いを一つすると、崖から離れるようにくるりと方向を変えた。

「危ないところだったニャ。タオルの次は土が悪いニャ。あたしは悪くないニャ」

「自分のドジを布や土のせいにするな」

「うっ」

 ピピルが、二人のやりとりを複雑な顔で見ていた。

「ケガがないなら、幸いなのだが……今、一瞬だけ、この辺りの風の精霊の数が跳ねたのだ。まるで、誰かを守ろうとして集まったみたいに」

「……精霊が、か」

 シャナは、フィグのネックレスにちらりと視線を送った。

 双子石は、先ほどよりも色濃く輝いている気がした。

(偶然、というには出来すぎているな)

 そう思いながらも、今は口に出さなかった。

●   

 崖縁の騒ぎの直後だった。

「ピピル、下がれ」

 シャナの声が、鋭くなる。

 丘の下方、やや離れた場所の草むらが揺れた。
 羽音。
 蜂――だが、ただの蜂ではない。

 通常の動きより、明らかに一直線に、こちらへ突っ込んでくる。

「フィグ」

「了解ニャ!」

 フィグは一歩前に出た。

 蜂の軌道を読み、わざと側面を見せて走る。
 狙いを自分に引きつけ、ピピルから遠ざける形に回り込む。

 草むらから、もう一つの影が現れた。
 ヤグードの下級僧。
 ボロ布のような服をまとい、棍を構えてこちらに近づいてくる。

「二匹で突っ込んでくるとは、礼儀を知らない連中だな」

 シャナは、静かに杖の先を上げた。

「ピピル殿、下がっていろ。崖の裏のほうへ」

「了解なのだ……!」

 研究者が慌てて丘の裏手に回り込む。

 蜂が、フィグ目掛けて急降下してきた――その瞬間、シャナの声が重なる。

「スロウ」

 蜂の羽音が、一瞬だけ鈍くなった。
 魔力の糸が、羽の動きに絡みつく。

「今ニャ!」

 フィグが踏み込む。
 蜂の軌道がわずかに乱れたところで、拳が胴体を捉えた。
 殴りつけるのではなく、叩き落とすような角度。
 蜂が地面に叩きつけられ、痙攣し、動かなくなる。

 ほぼ同時に、ヤグードの棍がシャナの頭上へ振り下ろされる。

「そこだな」

 シャナの足が、一歩前に滑る。

 棍の軌道をぎりぎりで外に出し、杖の石突きでヤグードの膝を打ち砕く。
 崩れた上体の喉元に、今度は剣が当てられた。

 鞘からわずかに抜かれたサーベルの刃が、陽を反射する。

「命が惜しければ、ここで失神しておけ」

 ヤグードはよろめき、呻き声を上げながら意識を手放した。

 蜂が倒れ、ヤグードが沈む。
 丘の上に残ったのは、荒い息を吐くフィグと、魔力を静めるシャナの姿だった。

「ふーっ……!」

 フィグが額の汗をぬぐう。

「いつもより蜂の動きが素直だったニャ。あのスロウって魔法、気持ちいいニャ。殴りやすいニャ!」

「本来、殴りやすくするために使う魔法ではないのだが」

 シャナは肩をすくめた。

 だが、彼女の拳と魔法の相性がいいことは、はっきりわかった。

「大丈夫なのだ?」

 丘の裏から、ピピルがおそるおそる顔を出した。

「大きな怪我はない」

 シャナは言い、フィグのほうへ視線を向ける。

「……が、その膝はどうだ」

「え?」

 フィグが自分の足を見ると、さきほど崖縁で滑ったときに打ったのか、膝に泥と少しの擦り傷がついていた。

「平気ニャ。これくらい、いつもの稽古でもっと派手にやるニャ」

「黙って歩いて悪化させるな。座れ」

 シャナは近くの岩を顎で示した。

「こっちに来い」

「え、でも――」

「来い」

 声の調子が少しだけ低くなる。
 フィグは「う……」と小さくうなりながらも、しぶしぶ岩に腰を下ろした。

 シャナは彼女の前にしゃがみこみ、膝に手をかざした。

「ケアル」

 静かな詠唱と共に、淡い光が彼の手のひらから溢れる。

 その瞬間――喉元の双子石が、ふっと淡く輝いた。

 ケアルの光と石の光が、短いあいだ重なり合う。
 傷口にじんわりとした温かさが広がり、痛みが抜けていく。

「……!」

 フィグの瞳が、かすかに見開かれた。

 ケアル自体は慣れたものだろう。
 だが、今のそれは、いつもより少し“濃い”癒しだった。

「シャナのケアル、あったかいニャ……」

「魔力が漏れているだけだ」

 シャナは、わざと素っ気なく言う。

 だが内心では、双子石の反応に集中していた。

(やはり、この石は――)

 母のネックレスほど強くはない。
 だが、癒しの系統の魔法に呼応する性質を持っているのは間違いなかった。

 この石を通したケアルは、通常より少しだけ効きが良い。
 そういう感触がある。

「これは、母様の形見ニャ」

 フィグが、不意に口を開いた。

「……そうなのか」

「うんニャ」

 彼女は、指先でネックレスをつまんだ。

「母様があたしの耳に穴をあけようとした時、手が震えて、うまくできなかったニャ。 あたしが痛がって泣いたら、すごく悲しそうな顔をしてたニャ」

 その光景が、彼女の中ではまだ鮮明なのだろう。
 金色の瞳が、ほんの少しだけ遠くを見ていた。
 双子石のピアス。ミスラの風習について、シャナは何も知らない。

「それで、耳は諦めて、首にしてくれたニャ。“いつか自分で好きなようにすればいい”って。だから、これをつけてると、転んでも、殴られても、立ち上がれる気がするニャ」

「……転ぶ前提なのか」

「ニャ!」

 軽く頭を小突きたくなる衝動を抑え、シャナは立ち上がった。

 膝の擦り傷は、きれいに消えている。

「とにかく、無茶をするな。帰る場所と、待っている奴がいる者ほど、足元は大事にしろ」

「帰る場所……」

 フィグは、森の区の方角を振り向いた。

 ゾルドフ道場。
 ツィム。
 族長の家。
 そして――もう戻ってこない母の面影。

「絶対、帰るニャ」

 彼女は小さく呟いた。

「サルタからも、三国からも、どこからでも。帰って、全部話すニャ。ツィムに、ゾルドフに、森の区の皆に。だから、そのためにちゃんと働くニャ」

「ならば、なおさらだ」

 シャナは頷いた。

「無茶をするなとは言わん。ただし、“無駄な無茶”はするな。殴るべき時だけ殴り、退くべき時にはちゃんと退け」

「……了解ニャ」

 フィグは、珍しく素直に頷いた。



 その後、彼らは東サルタのいくつかの地点を回った。

 川の近く。
 木立の影。
 クロウラーが多く見られる場所。

 ピピルが魔力の濃度を測り、シャナが周囲の地形とモンスターの出現傾向を確認する。
 フィグは、そのあいだずっと、周囲を走り回りながら警戒を続けていた。

 蜂が一匹。
 マンドラゴラが二匹。
 ヤグードの斥候が一人。

 どれも、対応を誤らない範囲では大きな脅威ではなかった。
 だが、時折、風と土の精霊が不自然に集まるポイントがある。

「魔力の乱れは、たしかに存在するのだ」

 森の区への帰り道、ピピルがまとめるように言った。

「ただし、今のところは“小さな異常”レベルなのだ。白の書や禁書に直結するほどのものかどうかは、まだ判断がつかないのだ」

「だが、何かの“予兆”ではあるだろう」

 シャナは、森の向こうに沈みかける夕陽を見た。

「いずれ、もっと大きなうねりになって現れる。その時、今日のデータが活きるはずだ」

「その時も、あたしが殴るニャ!」

 フィグが右拳を突き上げた。

「ヤグでも、変な本でも、なんでもぶっ飛ばしてやるニャ!」

「本はぶっ飛ばすものではないのだ……」

 ピピルの悲鳴じみた声が、夕暮れの草原に溶けていく。

 シャナは、思わず口元を緩めた。

(戦場の外側で、誰かがこんなふうに笑っている光景は、悪くない)

 かつて、サンドリアの城壁の上で、弟と眺めた夕陽を思い出す。
 あの時は、ただ戦争の終わりを祈っていた。

 今は――少し違う。

 戦争の後始末。
 失われた宝。
 連邦と三国の均衡。
 それらを追いかける旅の、最初の一歩が、こうして始まっているのだと実感していた。

 そして。

 その横で、喉元に青い双子石を揺らしながら笑うミスラと、その拳が。
 これから先、どれだけのものを殴り、守り、道を切り開いていくのか。

(……少なくとも、退屈はしなそうだな)

 シャナは、肩についた草の欠片を払った。

 森の区の門が見えてきた。
 門の向こうには、夕陽を背に腕を組んで立つミスラの影が一つ。

「おかえり」

 ツィムが、ほんの少しだけ安心したような顔で、二人を迎えた。

「ちゃんと仕事してきた?」

「聞いてニャ聞いてニャ!」

 フィグが一気に距離を詰め、しゃべりだす。

「崖で落ちかけて、シャナに助けられたニャ!」

「フィグ」

「蜂を殴り飛ばして、ヤグを倒して、ケアルして――」

「順番に話せ」

 シャナはフィグの頭を押さえた。

 だがその声には、どこか優しい響きを持っていた。




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