金の雨 銀の雨

 眠たげに垂れ込めた灰色の雲から金の絹糸のような雨が降りしきっている。
 雨が降り続けるこの惑星では日常的な光景だ。
 太陽の光がさえぎる雲は衰える事を知らず、日中から人口灯が街中に明々と輝いている。
 その人口灯の光を頼りに、傘も差さずに走るような速さで移動している女性がいた。

 ピンク色の傘を閉じて右手に持ち、ヒールの低いパンプスで学園都市の石畳を蹴飛ばしていく。
 学園都市ククルカンは降り続ける雨にも負けない、特殊な金属で作られているが、それが自然の石畳のような模様をしているのだ。

(ああ~もう、私のバカッ! これじゃ本当に遅刻しちゃうわよ。今日に限って朝から会議なのに……間違いなくこのままじゃ遅刻! 傘さして優雅に歩いている暇なんてないッ!!)
 内心で、夕べ、調子に乗って熱心に書いていた植物の論文に対して罵倒してしまう。
 論文は自分が好きで書いていたんだから、それなりに出来がいいはずだが、深夜に一人きりで調子に乗って書いていたというのがネックだ。今考えて見れば、論文というよりも自分の植物……特に紫陽花に対する愛を綴ったポエムに近いかもしれない。
 そんなことをしていて遅刻したなんて、もう成人した大人がやらかしていいのだろうか!?

 そういうわけで傘を閉じて手で持って、必死になって自分の勤める研究棟まで、雨の中急ぐ女性……その名を、水上紫雨ミナガミシウ。
 紫の雨と書いて、シウと読む。
 この星に住む日本人の家系の女子に、「雨」の字は良く使われるため、それほど珍しい名前でもない。

 紫雨は、夕べ調子に乗っていた自分を猛烈に罵り、自前で反省することに夢中で、霧のような雨で視界が悪い事も、その金色の霧の中に人がいる事にも、気づいていなかった。
 全く何も気がつかないまま、研究棟に行くために建物の角を曲がる。

「キャッ!!」
 そういうわけで、紫雨は、突如、暗い金色の雨の中から現れたとしか思えない人物に、いきなりぶつかって、ヒールで足を滑らせた。
 その場で足首を妙な方に曲げる格好で転び、傘や鞄を道路の上にばらまいてしまった。

「危ない……」
 男の声がした。
 ぶつかった相手は男のようだった。

 紫雨は、羞恥と痛みに赤くなりながら相手を見上げた。
 今日はとことん、ついていない……。朝から寝坊はするわ、遅刻しかかるわ、人にぶつかって転ぶわ。
 何しろ雨の日の事であるから、紺色のタイトスカートも黒いストッキングも雨水に濡れてぐちゃぐちゃだ。

「大丈夫か?」
 ぶつかった相手の男は黒髪を揺らしながら、足を挫いて立てないでいる紫雨の方にかがみ込んで様子をうかがおうとした。
 紫雨は、びっくりして後ずさりをしそうになったが、今はそれどころではない。慌てて、鞄から飛び散った書類や筆記用具を拾い上げ、何とか立ち上がろうとする。

「痛ッ!」
 そのとき、ヒールで足を滑らせたため、妙な方に曲がった足首が、鋭い痛みを発した。紫雨は、再びよろけて転びそうになり、咄嗟に桃色の傘を杖がわりに使って何とか立った。

 ぶつかった男は慌てたように紫雨に手を差し伸べようとするが、紫雨は遠慮してしまう。

「立てたか。歩けるか?」
「へ、平気ですっ、気にしないで下さいっ」
 強ばって突っ張った声でそんなふうに叫ぶ紫雨であった。
 何しろ間の悪い思いをしていたし、今にもまた転んでしまいそうで、腹に変な力が入っていた。

 うわずっている声。

 まるで怒っているように聞こえる。
 そう思ったのだろう。男は戸惑ったような顔で、しかしその場を立ち去らない。紫雨が足を痛めている事に気づいているようだ。

 それが余計に気まずくて、紫雨は作り笑いを浮かべながら冷や汗をかく。ヒールの靴では、足を挫いたまま、どうやって研究室まで行こう。雨で金属の道路は凄く滑りやすくなっているのだ。
 ゴム長靴で来れば何も問題ないのだが、大学であるにも関わらず……否、大学だからなのだろうか? 女性は、ローヒールのパンプス着用が常識であった。

 紫雨はその常識に則っただけなのだが、既にもう大ピンチである。
 傘を杖代わりにしてよちよち研究室まで歩いて行ったら、どう考えたって遅刻だし、第一、格好悪くて仕方ない。

「シウ? シウ、遅いわよ。教授に怒られるかもしれないよ!」
 そのとき、紫雨の目指す研究棟の道路から、黒髪の女性が飛び出てきた。
 同じ研究者の同僚の楊芳ヤンファンだ。同じ黒髪でも中華系の彼女は、目元を薄く赤く縁取ったメイクがよく似合う。髪の毛も高く結い上げ、知的なだけではなくとても凜々しい印象だ。その名の通り柳色の渋い傘を持っている。

「楊芳、ごめんなさい……みんな、もう集まっている?」
 九死に一生を得た気持ちで、紫雨は楊芳に助けを求めるような表情を見せた。
「どうしたの! シウ、足がずぶ濡れじゃない!」
「楊芳。さっきちょっと転んじゃって……」

 そのとき、それまで紫雨のすぐそばから離れなかった男が動いた。
 すっと紫雨のそばから身を離し、無言で、雨の中を他の研究棟の方へ歩いて行く。

「あ、すみませんっ……ぶつかってすみませんでした」
 それまで、言おうと思って言いそびれていた言葉を、紫雨はやっと言う事が出来た。
「何。どうしたの?」
 取り残された楊芳の方は、訳がわからず、男の背中を注意深く見つめる。

「……もしかして、あの人、稲生じゃない? 稲生澄琉イノウトオル」
「イノ……何?」
 紫雨は楊芳と去って行く男の背中を見比べた。

「だから、稲生澄琉よ。有名じゃないの。研究者なのにシューターって言うことで」
「研究者なのに……シューター??」
 紫雨がきょとんとするのを見て、彼女が何も知らない事を感じ取った楊芳は、傘の下で肩を竦めた。
「そうね、色々あるみたいよ。みんなそれぞれ、生きているんだから」
 奇妙な言い回しの楊芳に、紫雨は目をぱちくりさせてしまう。
「研究者やりながら、モンスター退治する余力があるっていうこと? どうやって、時間や体力を作っているのよ」
「さあ……私もそこまでは、知らない。それに、関わらない方がいいわよ。シューターって、特殊な仕事だし」
 楊芳は、そこで紫雨の方をしっかりと見た。

「それより紫雨。この年であなた、本当に遅刻よ。私は、教授に断って、紫雨を迎えに来ただけなんだけど。一緒に怒られてあげることになりそうね」
「うわっ……そうだった」
 紫雨は子どものように首を竦めた。
「どうしたのよ、一体。紫雨が遅刻なんて滅多にあることじゃないけど」
「それがね……」

 紫雨が歩けないのを見て、楊芳が肩を貸してくれた。
 雨の中を何とか早足で歩きながら、紫雨は、夕べ思いついた強化植物のデザインを語り、先ほどの男の事は忘れようとした。
 酷く気まずい思いをしたし、楊芳は関わらない方がいいと言うし。

 ……だが、自分の方からいきなりぶつかって、悪い事をした言う気持ちは、あったのだ。

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