花散らすケダモノ 海王星
大学の近くの打ち捨てられた神社の裏手。
そこが悪奴弥守のよく利用する妖邪界と人間界の通路だ。
人影のない事を確認しながら使っていた<孝>の宝珠をしまう。
(時がそれほど、流れていなければよいが)
しかし征士と悪奴弥守の場合、それほど会う時間に誤差が出来た事はない。
運が良かったのか、それとも鎧の不思議な力の効果か。
蜘蛛の巣の張った神社をわき目に、悪奴弥守は表通りの方に歩いていき、手近なコンビニに入る。
悪奴弥守の顔についた傷を見て、店員はあからさまに嫌そうな顔をしたが、今更そんなことは気にしない。
構わず新聞を取って日付を確認する。
六月九日。
壁の時計を見れば午後一時前。
(間に合った。)
安堵の息を漏らし、新聞を元の場所に戻した。
その間にも店員は悪奴弥守の挙動を恐れてレジの片隅によりつつ不安そうな視線を送ってくる。自分を監視する店員の数は確実に増えて、三人ほどにマークされている事が分かった。つまり、店員全員からだ。
(全く、うるさいのう。)
早々にコンビニを後にしようかとも思ったが、別にやましい行動をしているわけでもないのにまとわりついてくる視線が鬱陶しくて癪に障る。
それに、確かに店の中に入って新聞を見て時刻だけ確かめて出て行く客というのも、店員にしてみれば面白い存在ではないだろう。
とりあえず新聞を下げている棚の脇に並べてあった販促用のペットボトルを取ってみる。
黄色い液体が入っていて、ボトル自体も黄色い。悪奴弥守には読めないアルファベットで何やら書いてある。そして首からぶら下がるちゃらちゃらした小物。
(まあ、別に…これでいいか。)
怯える店員のいるレジの前に立ち、そのペットボトル、「C.C.レモン」を台に置く悪奴弥守。
「勘定を頼む。」
そう促されて、おどおどしながら店員はレジを打つ。
「この水。」
「は、はい…っ!」
「甘いか?」
声が裏返っている店員に悪奴弥守は真顔で尋ねる。
「は、甘いといいますか…すっぱいといいますか…。」
しどろもどろで答える店員。
顔面蒼白になっているのを見て、悪奴弥守はウンザリしてきた。
「まあよい、自分で飲んで確かめてみる。勘定はいくらになる?」
「は、はい…消費税入りまして…」
清算をすませる手際も滅茶苦茶だったが、それをいちいち突っ込むのもバカらしく、悪奴弥守は黙って待った。
「ありがとうございましたー。」
とにかく店中からその声を聞き、頭を下げさせる事で溜飲を下げると、悪奴弥守は初夏の仙台の町に出た。
多くの人間は爽やかと感じ取るであろう杜の都の日差し、柔らかに流れる風の匂い。
手足を露出して歩く人並みを見やりながら、悪奴弥守は征士のいるT大学へとまっすぐ向かって歩く。
五分とかからず目的地についた。
校門で、悪奴弥守はしばし立ち止まる。
大勢の若者の匂いと、噎せ返るような“気”。
(………こっちか。)
その中から目的の人物の“気”を探り当てて一方向にずんずんと歩いていく。
大学の構内には自由に出入り出来る事は知っているので、何もためらうことはない。
悪奴弥守自身、顔に傷があるものの、肉体的には二十歳の若者だ。
広大な敷地、折り重なるように立つ建物、何千人といる若者、そんなものは悪奴弥守の嗅覚と気配を探る能力の前では全く意味がない。
やがて悪奴弥守がたどり着いたのは緑の生い茂る植物園だった。
樹齢百年はいくであろう樅の木の下に人目を引く金髪が座り込んでいる。
「光輪。」
呼びかけると、征士はまるでそこに悪奴弥守がいることを知っているかのように平然と立ち上がり、振り返った。
金の髪、紫の瞳、白磁の肌―――。
それらは何も変わらないが、明らかに十五歳の時よりも背が高くなり、肩幅も広くなった。そしてみなぎる礼の戦士の清澄で雄大な“気”。
研ぎ澄まされたそれを身近に感じ、悪奴弥守は思わず破顔する。
「……来てくれたか、悪奴弥守。」
「当然だ。」
どちらからともなく、お互いの方に歩み寄る。
手と手が触れ合う位置に立ったとき、悪奴弥守はふと身を引きたくなった。
征士の方が、わずかに背が高い。
今までそれほど気にした事はなかったが、昨夜の螺呪羅との会話が思い出される。
(俺と光輪は、肉体だけなら、同い年…)
今までの自分の人生を否定されたような感覚が、再び襲ってくる。
慌ててそれを振り払い、鞄の中から用意してきた包みを取り出した。
「祝いの品だ。」
「祝い?」
「粉と紙。あれば使うであろう?」
刀の手入れに使う打ち粉と奉書紙は、現代ではなかなか手に入りにくい。
一方、戦乱の打ち続いた妖邪界では当然ながらそれらはよく出回っていた。
「悪奴弥守が使っているものか?」
「まあ、な。」
とりあえず自分が使ってみて極上と思ったものを取り揃えたのだが、果たして気難しい征士が気に入るかどうか。
「ありがとう。」
そう言って、はにかんだように笑う征士の顔を見、悪奴弥守は眼を細める。
「刀は侍の魂という。いざという時のため、心行くまで磨くがよい。」
「そうさせてもらう。」
悪奴弥守の手から包みを手にとり、征士は自分の鞄に丁寧にそれを入れた。
「悪奴弥守、今日は何か予定があるのか。」
「別にないが?」
「町の中央に、百種類以上の茶を出す店がある。一緒に行かないか?」
悪奴弥守は戸惑った。
「学問の方はよいのか?」
「今日の講義は午前中のみ。私はここで、瞑想をしていただけだ。」
凛と張り詰めた空気はそのためだったのかと、悪奴弥守は合点がいった。
「小童どもと何か予定があるのではないか?」
「それは、次の次の日曜だ。」
先ほど新聞で確かめた際、今日は木曜だった。
既に大学の研究職についている当麻を抜かせば皆学生、その上互いに遠隔地に住む以上、そう自由はきかないということらしい。
「次の次?」
「伸が華道の抜けられない会があるとかで、次の日曜はふさがっている。」
「なるほど。」
「まあ、電話なら、今朝全員から来たがな。」
そう言って微苦笑を浮かべる征士に、悪奴弥守はただ頷く。
小童どもの強い心のつながりは、戦っている時はひたすら苦々しく感じたが、今はただ頼もしい。
「人間界の茶か。それもよかろう。」
征士の運転する自動車に乗り、仙台の中心部に向かう。
いつものことだが、主に車中で話すのは征士の方だ。
学生生活のこと、実家の剣道場のこと、口うるさい姉妹のこと、そして何より鎧のこと……そうしたことを征士は忌憚無く悪奴弥守に話して来る。
普段の征士は寡黙で、心中を簡単にさらけ出さない性質だとは、悪奴弥守も知っている。
恐らく、悪奴弥守が同じ鎧を着る者でありながら違う世界の人間で、全く異なる時の流れに身をおいているから言える事なのだろう。
悪奴弥守はほとんど黙って聞いているが、質問されれば出来る限りの答えは出す。
程なく駐車場につき、自動車から降りる。
「喫茶店からは遠いが、駐車場の便が悪いんだ、この町は。」
「そのようなこと、気にはしない。…光輪さえよければだが。」
征士が近距離でも自動車を使いたがるのは、悪奴弥守がどうしても人目を引くからだ。ただでさえ地毛から金髪で、精緻に作られた人形のように美しい征士と、野性的に整った顔立ちながら左頬に十字傷がある悪奴弥守は連れ立って歩くと異常に目立つ。
しかも、征士が洋服を選ぶまでは悪奴弥守は普段着の小袖姿だったのだ。
ヤクザに間違われて店から追い出されかけた事もしばしばだった。
「そう言ってくれるのなら。」
何故か恐縮したように言う征士の肩を軽く叩き、悪奴弥守は先を促した。
他愛ない会話を交わしながら、アスファルトずくめの大通りを歩く。
六月の午後の気温は次第に上がり、普段はゆるやかな小袖の悪奴弥守にはきっちりしたミリタリーファッションは次第に蒸し暑くなってきた。
雪国、それも山間部で生まれ育った悪奴弥守は、とにかく暑さに弱い。
思わず、首元をはだけて襟で胸を扇いだ。
「行儀が悪いぞ、悪奴弥守。」
そう言われて、悪奴弥守は仕方なく襟元を直す。
(………?)
そのとき、征士から妙な“気”が放たれた。
まるで自分の中を探ってくるような“気”に対し、悪奴弥守は条件反射で“気”を弾き返す。
それに対して征士は表情を変えずに、大学の講義の話を続けた。
「小手森城の撫で切りについて来週までに小論文を仕上げなければならない。政宗公が、女子供はもとより犬や牛馬まで惨殺した事件についてなのだが。」
「それはまた。戦国の習いとはいえ、凄まじきことよな。」
奥州の覇者、伊達政宗が生まれるより先に、悪奴弥守は妖邪界に転生している。
故に、征士の崇拝する先祖の事は具体的にはよくわからないのだ。
しかし、自分が転生した直後、故郷がどんな状態になったかについては当然ながら興味があった。
政宗の話に夢中になって、悪奴弥守は妙な“気”のことは捨て置いた。
征士が悪奴弥守をつれてきたのは、デパートの二階のこじんまりした静かな喫茶店だった。狭いがゆったりとした音楽が流れた店内の壁際の席に征士が悪奴弥守を連れ込む。
きちんと制服を着こなしたウェイトレスがメニュー表を持ってきた。
「……厚いな。」
征士は茶の種類が百種類以上、と言ったが、表というより冊子のようなメニューには一体どれだけ茶の名前が載っているのか。
「まるでカラオケのカタログのようだろう?」
「からおけとは何だ?」
「な、なんでもない。悪奴弥守は知らなくていい。」
「?」
急にうろたえた征士をいぶかしく思うものの、本人が嫌がっているようなのに追及するのも無粋だろう。
悪奴弥守は大人しくメニュー表を開いた。
多すぎるお茶の名前に頭がくらくらしてくる。
お茶の名前一つごとに簡単な説明がついているのだが、カタカナ言葉やアルファベットが多くて悪奴弥守には意味が分からない。
それに、茶の湯のことなら、恐らく朱天や那唖挫はある程度以上の知識はあるのだろうが、悪奴弥守には生憎と「喉を潤す味のある水」という認識しかない。
「どれにする?」
征士に聞かれて、悩みつつも目を引いた名前を指差す。
海王星。
「悪奴弥守は天体にも興味があるんだな。」
そう言って征士は笑い、ウェイトレスを呼んだ。
二人分の茶と一緒に、ケーキも二種類注文した。
「けえきは甘いと、嫌っていなかったか?」
悪奴弥守がすかさず聞く。
「これは現代の習慣だ。誕生日にはケーキを食べる。」
「何だ…。」
思わず悪奴弥守はそう言ってしまった。
「どうかしたのか、悪奴弥守?」
征士に聞かれて慌てるが、うまい言い訳も思いつかず、悪奴弥守はありのままを話す。
「いや、近頃、甘いものを一緒に食べる女でもいるのかと思ってな。」
「……女など、いらない。」
そう言って、征士は顔を伏せてしまった。
「そうは言っても、光輪は今日で二十歳であろう。確か現代でも大人と認められる年ではないか。第一、光輪は一人息子だ。いつまでも女嫌いでは、伊達家の存続にも関わる。」
戦国時代の感覚が抜けきらない悪奴弥守にしてみれば、二十歳にもなって女の影が全く見当たらない征士の身辺はどうしても気にかかる。
何しろ先ほどの伊達政宗が正室の愛姫を娶ったのが十二歳。
そして男と女の事は「家」を継ぐのに最も肝要だと悪奴弥守は思っている。
こんな自分を下世話と思いつつもついつい口出ししてしまう。
「好いた女は、今まで一人もいなかったのか?」
「……そんなものはいない。」
顔を見せないまま、征士はそう答える。
「そんなもの」とまで言われてしまうと流石に悪奴弥守も二の句を継ぐことができない。
(俺に黙っているだけなのであろうか…。そうとしか思えぬな。)
しかし、征士の嘘や隠し事を嫌う性分は熟知している。
どうしたものかと思っていると、ウェイトレスが茶とケーキを運んできた。
「どうぞ、ごゆっくりお召し上がりくださいませ。」
丁寧で礼儀正しい仕草で品物を置き、一礼してウェイトレスが去る。
当然、場の中心は珍しい茶とケーキになった。
基本的に、四魔将は手先が器用に出来ている。
朱天は細かい事を気にする性分故、那唖挫は薬品の調合をするため、螺呪羅は忍具の手入れにより、そして悪奴弥守は生まれた時から。
よって、四人ともナイフとフォークの使い方はするする覚えた。
現代人とほぼ変わらない仕草でケーキを切り分ける悪奴弥守。
勿論、使い方は礼儀を重んずる征士が教えたのだから完璧である。
「……この間の大型連休に、当麻と東京に行ってきたんだが。」
一口ケーキを食べた後、征士が言った。
人間界では五月の頭に大規模な休みがあることは悪奴弥守も知っている。
「ほう。」
「当麻の奴、いきなりケーキの食べ放題の店に行こうと言い出してな。」
「腹が減っていたのか?」
「いや、昼食は三十分前に取ったばかりだった。」
「ふむ。」
「通りがかりで、どんな味がするか分からない店だし、私は遠慮したんだが、当麻の奴、全く言う事を聞かなくて。」
「天空も強引なところがあるようだからな。」
「一緒に連れて行かれて、目の前で、ケーキを十九個食べられた。」
「ぶっ………。」
何気なく切り分けたケーキを口元に持っていった悪奴弥守は、噴き出した調子に顔に白い生クリームをつけてしまった。
十九個という数もさることながら、こんな甘い、悪奴弥守から見れば女子供が食べるものを…。
「そ、それは、一見の価値がある光景というか…なんと言うか……。」
多分、一緒にいた征士は見ているだけで腹いっぱいになったのではないだろうか?
「食べ過ぎだと思って私も止めたんだが、何でも、頭を使うためには脳に大量の糖分が必要だとか説明されて、当麻は確かに私達の頭脳だし…そういうものかと、そのときは納得したんだが。」
「そうか?関係はないと思うが。」
「何故?」
「那唖挫は辛いもの好きだぞ。」
東洋、そして妖邪界の薬学・医学を那唖挫がマスターしていることは、征士は悪奴弥守からはもとより、当麻からも聞いていた。
「那唖挫が?」
「あやつは医食同源で、食い物にはよく気を使うが、定期的に辛いものを取らないといらついてな。いつも南蛮胡椒を薬籠に入れて持ち歩いて、生で食う。」
「南蛮胡椒?」
「高麗胡椒ともいう。……赤くて細長くて、痛いくらい辛い植物だ。」
「ああ、唐辛子か。」
征士は頷いた。
しかし、唐辛子を生で食するという那唖挫の味覚は辛いもの好きですまされるのだろうか。それは果たして体にいいのだろうか。
カプサイシンを頻繁に取っているわけだから、ダイエット効果はあるのだろうが。
「螺呪羅も、四百年の間、頭を使うために甘いものを食うなどと言っていた事はないぞ。天空が単にけえきを大量に食べるために言い訳したのではないか?」
螺呪羅と朱天には食事に変な癖はない。あえていうなら螺呪羅は含め煮を始めとしてクワイをよく食べる。朱天はゴマ豆腐や茶粥が好物だ。
「やはり、お前もそう思うか?」
征士は悪奴弥守の顔をまじまじと見つめながら言う。
「まあ…今の人間界での常識はよくわからんが…いくらなんでも食い過ぎだ。」
そう言って、征士の顔を見、悪奴弥守は妙にその白磁の肌が赤らんでいる事に気付いた。
「暑いのか、光輪。」
「別に、そんなことはないが?」
「顔が赤いぞ。」
「……なんでもない。そんなことより悪奴弥守、顔を拭いてくれ。」
「ん?ああ、すまんな。」
店内に備え付けの紙を手に取り、顔にこびりついた白いクリームを拭き取る。
その様子を征士は紫の瞳で凝視した。
悪奴弥守は別に何とも思わない。征士がそんなふうに自分の行動をじっと見つめる事はよくあることなのだ。
恐らく、本人も自覚していない癖で、誰に対してもそうなのだろう。
あまり行儀がいいとはいえないが、いちいち咎めることでもないと悪奴弥守は思っていた。
仮に、その目つきでのために町でゴロツキに絡まれたとしても、鎧戦士の征士なら心配することは何も無い。
その後、一時間ほど二人は茶を飲みながら歓談した。
そこまではいい。
問題は勘定である。
「私が持つ。」
征士がそう言ってきかないのだ。
「光輪の誕生祝いであろう?ここは俺が持つ。」
「そんなつもりで悪奴弥守とここに来たわけではない。私が持つ。」
「こういう場合は年長が金を出すものだ。知らんのか、光輪。」
「年長とか、年下とか、関係ない。ここは、私が持つべきなんだ。」
「光輪、意味がわからん。光輪がこの店に俺を連れて来たから、という事か?」
「そうではない!」
「………光輪、年上に恥をかかせるものではない。」
やや強い口調で悪奴弥守が言って聞かせようとすると、征士は明らかにむっとしたようだった。
「当麻から聞いた。私と悪奴弥守はもう、同い年だろう。」
「……………!」
虚を突かれて、悪奴弥守は何も言えなかった。
昨夜、螺呪羅から聞いたばかりのその情報。
恐らく、今朝あったという当麻からの電話で征士も知ったのだろうが…。
確かに、悪奴弥守と征士は、肉体年齢だけなら同い年だ。
だが、同時に悪奴弥守は戦国時代から闇魔将として生きてきたのだ。
そう言いたくても、喉に何かモノが詰まったようで何もいえない。
そうしている間に、征士は悪奴弥守の手からオーダーを取ってさっさとレジに向かい、清算を済ませてしまった。
「……悪奴弥守?」
店の真中に立ち尽くしたまま物思いにふけっている悪奴弥守に、征士が心配そうな声をかける。
「あ、ああ…。」
何とか返事をした悪奴弥守の声は、我ながら頼りなげで、心ここにあらずといえた。
「元気がないようだな。」
「いや…」
「私は、強引だったようだ。悪奴弥守を疲れさせたかもしれない。それで思いついた。自動車で少し時間がかかるが、伊達家の別荘に行かないか?」
「別荘?初耳だな。」
「人ごみから離れた場所で、ゆっくり休もう。」
そう言った征士の顔は、誠実に悪奴弥守を思いやっているようだった。
確かに、戦国時代の人間の悪奴弥守にとっては都会の仙台の喧騒は性に合うものではない。煩悩京も都会といえば都会だが、人口といい大気といい全く違う。
「行かないか?」
「招いてくれるというのなら、断る理由はない。」
気分を切り替えよう。
征士も悪意があって「同い年」と言ったわけではない。
礼の戦士としての彼なりの道理があってこんな振る舞いに出たのだ。
それは間違いない。
第一、今日は征士の二十歳になった祝いの日。
彼の誘いには、出来るだけ応えたい。
悪奴弥守は征士に促されるままに店を出、征士の後をついて駐車場へと戻った。
悪奴弥守と征士の場合、征士が誘って悪奴弥守がそれに応えて、というのが基本パターンである。
戦いが終わった直後から、征士は月にきっかり一回のペースで悪奴弥守を人間界に呼ぶようになった。
<礼>の宝珠を使って“気”を通し、悪奴弥守に自分の意志を伝える。
それに対して、悪奴弥守は断った事はない。
そして、人間界に呼んでしまえば主導権は完全に征士のものである。
征士が十五歳から十六歳―――最初の頃、当然ながら、悪奴弥守には人間界の常識がさっぱり分からなかった。
機械化された文明と戦国時代からは考えられない人の多さに悪奴弥守は拒否反応を起こしたが、征士のしっかりした案内と気配りで少しずつ慣れていったのである。
そして人間界で約五年、即ち六十回ほどの呼び出しを重ね、悪奴弥守もある程度、人間界に順応するようになった。
しかし、その頃には悪奴弥守にすっかり征士のリードに任せる癖がついてしまったのだ。
征士の宝珠に応えて呼び出され、征士に誘われるがままについていく。
妖邪界での悪奴弥守を知る者なら考えられない事だが、もうこの場合はやむをえなかったとしか言い様がない。
自動ドアが何故自動で開くのか、若い男女が相席でメシを食って許されるのか、そういうことから順繰りに教えていったのが征士なのだから。
本当に征士は根気が良かったし、悪奴弥守の方もまず素直だったと言える。
(人間界のことにおいては、光輪は頼りになる。その分、俺は同じく鎧を着る者として、光輪の望みには応えてやらねば。)
それが悪奴弥守の本心だった。
勿論、呼ばれればいつでも素直についてくるが自分から征士を妖邪界に呼ぶ事は一度もない悪奴弥守に対し、征士が何を思っていたのかなどと考えたこともない。
そもそも、何故、征士が毎度毎度月に一回、悪奴弥守を人間界に呼び出すのか、その理由すら考えようとした事がなかった。
伊達家の別荘に行く車中で、征士はいつになく黙りこんでいたが、悪奴弥守は自分から話し掛けようとはしなかった。
(慣れない道の運転で、気を張っているのだろう)
下手に話し掛けると事故の元になる。
勿論、悪奴弥守が運転免許を取っているわけがないから、ここは大人しくして征士に安全運転を心がけてもらうしかない。
それに元来、悪奴弥守は征士同様沈黙が苦にならない性質なのだ。
仙台市を出、郊外を抜けてしまえば、東北地方には力強い自然が残っている。
人間界でもあまり仙台から出た事のない悪奴弥守は郊外の木々に眼を奪われた。
ウメモドキ、オオシラビソ、オオバベニガシワ―――
勿論、悪奴弥守にとっては違う名称の植物だが、車窓を過ぎていく六月の樹木を眺めつづけ、時を忘れた。
やがて自動車は曲がりくねった山道を越えて一軒の家についた。
周りに人家は見られず、鬱蒼とした森が広がっている。
築年数はそう経っていないだろう。二階建ての広広とした作りで、伊達家直系の財力を窺わせた。
「ここは普段、父上が書斎として使っているのだが、私も一応カギは渡されているのでな。人も来ないし―――いい場所だ。」
そう言いながら征士は自動車を降り、鞄の中からカギを探す。
「光輪の父上殿は、入り婿と聞いていたが、こんな屋敷を持っているのか。」
「まあ、なんというか、あの人の、逃げ場だ。」
それで悪奴弥守も大体の事は察した。
征士の家はとにかく女が強く、特に婿養子の父親はかなりしんどい思いを強いられているらしい。
そのため、金をはたいて自分の心休まる場所を作ったのだろう。
そして同じ男の征士にも気を使ってカギを渡したと思われる。