花の夜

 濃い紫色に忍び寄る宵闇、その時刻--。
 空には細い細い欠けた月が浮かび、冷ややかな月光を桜霞の上に降らしている。たゆたうような春の靄が、黒と紫の闇の空に漂い、その妖しい翳りを白銀の月の光だけが打ち払っていた。

 新月の近い桜月の夜--。
 誰もが、足音を立てる事すら躊躇うような、桜の花の降りしきる、春の宵闇。
 月光を受け、真っ白に闇に浮かぶ桜の一枝、一枝がしなるほどに満開に花開いた桜。その枝の先からこぼれ落ちる花弁。
 その艶やかにもしどけなく夜風にたゆたう--花。

 ふと心を動かされ、螺呪羅は即興で歌を口ずさんだ。誰も聞いていない事をいいことに。そのあと、何となく耳を澄ます。

(悪奴弥守は歌わないがな……)

 闇神殿へと続く桜の花の小道を、音もなく歩きながら、螺呪羅はそんな考えにとりつかれた。

 闇魔将・悪奴弥守。夜に咲き誇る桜の花を見れば、彼は何と言うだろうか。勿論、彼にも心はある。花を愛でる事を、知らない訳ではないだろう。

 悪奴弥守が、神祇歌しか歌いたがらないことや、滅多な事では言霊の塊とされる歌を歌いたがらない事は、百も承知だ。しまいには、歌など歌えるはずがないと、決めつけてくる輩も出てくるほどで--。

 粗野で乱暴、血気盛んな闇魔将が、存外、美形であることや、人の何倍も感受性が敏感で繊細な人間であることを、知る者は少ない。あっけらかんとして快活、闊達なその性質の奥に、気難しく傷つきやすい少年が潜んでいる事を知るのは、自分と、那唖挫と--あとは主立った悪奴弥守の股肱ぐらいなものだろう。

 だから、悪奴弥守は、歌おうとすれば、歌えるはずだと螺呪羅は踏んでいる。彼が、一年の間にほんの数回、神に奉納する歌しか歌わないし、それでさえも、余人に滅多に見せたがらないというのは、螺呪羅にとっては本当に惜しい話なのであった。妖邪界でも最高峰の歌人でもある螺呪羅にとって、嘘でもなく、悪奴弥守の歌はとても興味があることだった……。

 闇の中に浮かぶ、白銀の月と真っ白な桜の花を見て、悪奴弥守は何を想い、どんな言葉を紡ぐだろう。歌の基本ぐらいなら、教えてやるから、そのまま、彼の声を--文を知りたい。



 そんな想いにとりつかれて、螺呪羅はふと微笑んだ。
 自分の「想う」心……情愛の心が、ひたむきに悪奴弥守に向けられている事が、一瞬、滑稽な事のように考えられた。
 もう何年になるのか……四百年の時を越えて、彼のことを想い続けた自分の有様を考えれば、思わず笑いも出てしまう。
 本当に、自分の執念深さと業の深さは手に負えない。
 この長い、長い、永遠に近い歳月を、一人貫いてきた想いの対象は、悪奴弥守だった。勿論、彼の傍らには、那唖挫という悌の心を持つ魔将がついていた。螺呪羅にとっては、那唖挫もまたかけがえのない、自分の背中を預けられる存在だ。その那唖挫も、極めて知的でクールな歌を詠む。それはモノはモノとして見る学者らしい透徹した理性が詠んでいる詩であり、螺呪羅は彼の冷ややかだが底光りするような言霊に惹かれていることは否めなかった。

 螺呪羅は那唖挫の「玲瓏たる」という単語がぴったり合うような歌をいくつか思い出し、また考え込んだ。
 那唖挫の歌はどれも完成度が高くよく作り込まれている。だが、それは悲しいぐらいに整えられたカラクリ人形を想起させた。それは、螺呪羅がやはり、浄瑠璃などの人形を作り、場合によっては戦わせる、絡繰りの達者だからかもしれないが。

 那唖挫の歌は完璧に近ければ近いほど、自分が石像を愛でるピグマリオンになったような妙な気持ちにさせられる。だからこそ、その歌が愛されるということもあるだろう。

 どこにも難癖がつけられないような形式の整った、理知的な歌。

(そうか、なるほど)
 螺呪羅は、夜桜の花を見上げながら、何故今、悪奴弥守の歌を強く願ったのか、自分でもわかるような気がした。
 可愛い那唖挫の歌は、形式が整っていて、誰にとっても読みやすい、綺麗な歌であるからこそ、ここに彼を連れてくれば、何を歌い、何を引くかわかるような気がするのだ。
 那唖挫は勿論、月を詠み、夜の冷気を詠み、桜の艶やかさを淡々と、そのモノの美しさに沿って読み上げるだろう。
 彼がこの場で引用するのも、平安以降熱烈に愛されてきた桜の歴史を、正確に紹介し、螺呪羅をうならせるほどの博識ぶりを、自然体で発揮するだろう。

 だが、悪奴弥守は--何をするか、わからない。

 この春の夜の痺れるような冷気。
 冴え渡る月光。
 しどけなく花開き散り落ちる桜--。

 そういうものを見た時に、悪奴弥守がどう感じ、どんな行動に出るかは、螺呪羅にも想像がつかない。
 彼の感度、彼の感受性は、四魔将の中でも随一であるから、何も感じないということはあり得ない。その心の震え、感性の煌めきが言葉になったとき、どんなふうに発露されるのか、知ってみたいと思った。

 それも、やはり、古式に則った、三十一文字で。

(無理だろうな。悪奴弥守は……そういうことをしない。桜を見て美しいと思えば美しいといい、心の揺れ動いたままを、そのまま表現するだろう。那唖挫はよく整った形の言葉にするだろうが、悪奴弥守は本当の意味での自然体だ。自然……)

 悪奴弥守。
 闇と獣の将。
 当然、彼は自然に近しく、森羅万象の生命を司るとされる。妖邪界において、最大の暗闇をもたらす事の出来る男--。

 悪奴弥守は、螺呪羅の全てだった。
 恐らく、妖邪界に生まれ変わった時から。


 悪奴弥守の眠りは深い。
 彼は闇神殿の聖域とも言える寝所で、一点の光も見えぬ中、深く安らかな眠りについている。
 宵闇の時刻とはいえ、悪奴弥守が眠りに就く時間は昔から、早い。
 その分、朝は暁とも言える時間から起きだして、修行し、神に仕える仕事をする。
 そう、彼は、自然の呼吸に合わせて生きる、神に選ばれた覡でもあるのだ。

 自然の呼吸、太陽の往き来に応じて、悪奴弥守は眠りに就き、あるいは目を覚ます。
 今はまだ、春の夜の夢の中をさまよいながら、悪奴弥守は昏々と眠り続けている。

 実際に、その眠りの中で、いかなる夢を見ているかは誰にもわからない。闇の安息はもとより彼の領域だ。

 規則正しい呼吸は深く長い。
 夜目のきく螺呪羅はいつの間にか、悪奴弥守の神聖結界でもある寝所の中に侵入し、彼の寝顔を見守っている。
 何のてらいもなければ、計算もない、本当の素顔。

 誰の事も意識していない、自分のことすら計算に入れていない、ありのままの寝顔。

 それを観察出来る男は、妖邪界ひろしといえども、悪奴弥守と同じ魔将ぐらいだろう。螺呪羅は密かな優越感にひたりながら、悪奴弥守の布団の隣に座った。

 完全に気配を消しているとはいえ、螺呪羅の存在にここまで気づかないとは、悪奴弥守の眠りは随分深いらしい。
 何かあったのか、と螺呪羅は気がつく。

 悪奴弥守は、一度眠りに落ちれば、完全回復するまで起きない事がある。深い手傷や疲労があれば、それだけ、眠りの質が深くなる。
 かつて、悪奴弥守は、那唖挫を庇って背中から袈裟斬りにされたことがある--螺呪羅に。

 相当な深手であり、命の安否を那唖挫が口にしたほどであったが、それすらも、獣の生命力を持つ悪奴弥守は、丸一日眠っただけで全快させてしまった。それこそ、刀傷も残らないほどであった。
 その後の騒ぎはいつのまにか、ただの痴情沙汰になってしまい、楽しいけれど誇れるものは何もない記憶になっているのだが……。


 日頃は、日の沈む時間に眠り、日の出とともに活動開始するということぐらいは、螺呪羅もよく知っている。苦手なものは早起きの螺呪羅とは全然、活動時間帯が違うのだ。

「悪奴弥守」
 もしも、怪我でもしていて、眠っているのなら、起こす訳にはいかないのだが、それでもやはり気になって、螺呪羅は悪奴弥守の名を呼んだ。

「悪奴弥守よ--」

 闇神殿の暗黒の静寂が、螺呪羅の艶やかな声を吸い込む。
 外では、紫色の匂うような闇の中、細い細い月の光が、花の霞を照らしている。足下には白雪のように降り積もる桜の花弁……。

 傷ついた悪奴弥守の眠りを、螺呪羅は、守ってやりたいと思うのは本当だったが、同時に、無性に、悪戯したくなったのも本当の事であった。



 神獣。
 妖邪界には数多くの、神に選ばれ、あるいは神に仕える霊獣がいる。

 悪奴弥守が傷ついたのは、その神獣の一体と、激しい戦闘に陥ったからだった。その理由は割愛。
 神獣、麒麟と戦い、悪奴弥守一人の力でねじ伏せる事が出来たのはただの僥倖と言うほかない。
 普通だったら、闇神殿の神官の中でも精鋭部隊が動くところだが、悪奴弥守はそうはしなかった。神官を信用していないわけではないが、麒麟を怒らせるとどうなるか、知らない訳ではない。そして、神獣が、神官の血の穢れを帯びた場合、どんな異常現象が起こるかわからないのだ。
 それで、悪奴弥守はぎりぎりの判断で、自分一人で麒麟と渡り合い、力で--その攻撃力と機動力で、勝った。
 だが、無論、手負いである。戦いの神聖結界の外で待っていたスクネがただちに治療を開始し、悪奴弥守は、血まみれの体を、神官達の手により消毒され、闇神殿の寝所に運び込まれた。
 そのまま、悪奴弥守はスクネとヤヅカに最低限の指示を言い残して、眠りに落ちた。

 それを知らない螺呪羅が、寝所に忍び込んできたのは、ほんの一刻後の事である。

「よく眠っているな。傷はそれほど深くないようだが……?」
 既に非常識な勢いで回復は始まっていた。
 悪奴弥守の呼吸や、頬の色を確かめて、それに気がついた螺呪羅は、軽くため息をついて、彼の隣に横になった。
 布団の中に入りはしないが、掛け布団の上、隣に横たわり、至近距離から悪奴弥守の顔を観察する。

 頬の十字傷、浅黒い健康的な肌艶、美丈夫といって差し支えない目鼻立ちに、今更気がつく。
 悪奴弥守は、起きて動いていると、自分の美しさを気取らせない。その、元気の良さと裏表のない行動で、そう思わせないのだ。大人の男とも思えない、何とも言えないかわいらしさを感じる女は多いらしい。
 だから、もしも、悪奴弥守が端整な顔立ちをしていると気づくとしたら……それは螺呪羅でさえが……夜、眠っている時の顔立ちなのだろう。

 間近にその美しいとすら言える、愛しい人間の寝顔を見ていたら、することは決まっていた。
 螺呪羅は顔に顔を近付けた。唇に、唇を近付けていった。

 そっと触れるだけの皮膚の感触に、螺呪羅は、悪奴弥守の真似をして、自分の”気”の力を彼の方へと吹き込んでみた。”気”とは森羅万象に巡るエネルギーの塊である。魔将レベルの妖邪ならば、造作もなく操れる。
 悪奴弥守は己の生命力を吹き込む事で相手を蘇生させるほどのエネルギーの持ち主だ。

 悪奴弥守は、螺呪羅の気配に気がついた。

「!?」
 起きた途端に、螺呪羅にくちづけられている。そのことに気がついた悪奴弥守は、条件反射で手足を大きく暴れさせ、螺呪羅を突き飛ばしてそこから逃げようとした。

「くっ」
 螺呪羅でさえが声を漏らすような、落差。悪奴弥守は、物凄い勢いで布団を跳ね上げ、ずざざざざっと壁際まで退いたかと思うと、そこで秒の速さで、着物を身につけ足袋をはいた。
 螺呪羅はとても、迂闊だった。

 彼は全裸だったのだ。布団の中で。
 全裸で目が覚めたらいきなりキスをされていたため、そういう行動に出たらしい。

 武装よりも早く着付けを行う芸を見せられた螺呪羅は、思わず、彼に向かって拍手した。噛んだ唇が、痛かった。



「な……なんだよ」
 悪奴弥守は喘ぎ、自分の着物の襟の辺りを両手で押さえながら、螺呪羅を見つめている。

「どこから入ってきやがった。何しにきたっ」
 顔を赤くして怒鳴るのは、くちづけされた事に気づいているからだ。螺呪羅はそのことを理解した。

「ほう?」
 思わず、笑ってしまう。
「どこからと尋ねられて答えると思うのか?」
「!」
 不法侵入した男にそう言われ、悪奴弥守は更に赤くなり後退し、背中を壁にぶつけた。
 螺呪羅はすかさず、予備動作もなしに一気に悪奴弥守に距離を詰める。

「螺呪羅、近いっ……」
 螺呪羅は、悪奴弥守の体を押さえ込むように、壁に両手で手を付いた。
 悪奴弥守は螺呪羅の両腕に挟まれた形になってしまう。

「そして何をしに来たのか、わざわざ言わせたいのか、悪奴弥守よ」
「……!」
 これ以上なく体を緊張させて、悪奴弥守が螺呪羅の事を睨みあげる。
 腰が抜けたような姿勢で壁にもたれる悪奴弥守に迫り、膝を突いて両手で壁を押さえた格好の螺呪羅では、螺呪羅の方が悪奴弥守を見下ろす形になる。

 螺呪羅は、不敵に笑うと、右手で悪奴弥守の耳から首筋のラインに触れた。

「何だと思う?」
「……言えるかっ!」
 噛みつくような調子で悪奴弥守は反応した。

「悪奴弥守……俺はな」
「わざわざ言う気か!?」
 夜中の寝所という事で、大声を立てる事は出来ず、ただ悪奴弥守は不自然な格好のまま身をもがいた。両手で螺呪羅を突き飛ばそうとしたり、中途半端に投げ出した足で螺呪羅を蹴飛ばそうとしたり。だが、慌てているためかどれもうまくいかない。

「悪奴弥守」
 それを何とかうまくいなして、螺呪羅は悪奴弥守の鼻を指先で突いた。

「花」
「……はな!?」
「花を見に行こう」
「………………」
 唐突な螺呪羅の台詞に、悪奴弥守は濃紺の眼を大きく瞬いた。
 それは考えていなかったらしい。

「花?」
「何を考えていたのだ、お前は」
 螺呪羅はいやらしく笑いながら悪奴弥守の顔をのぞき込んだ。
「な、何も考えてないっ!!」
 悪奴弥守は先ほどとは違う意味で顔を紅潮させ、今度こそ螺呪羅を大きく突き飛ばして、彼の腕の中から脱出した。

「闇神殿の桜はどれも見事だが、やはりお前の庭の山桜は格別だと思う。しかし、闇神殿には桜の神木があると聞いた事があるが……聖域にあるのか?」
 聖域と言えば、煩悩京においては、闇神殿自体が聖域と言える。だが、その聖なる闇神殿の中にも、特別に神聖とされる箇所があった。
 多くは、特別な新刊や闇神殿の主である悪奴弥守以外、不可侵とされる聖域。
 確かにその聖域の一つには、巨大な桜の神木がある。

 それこそ樹齢何年ともつかない神木が。

「見たいのか?」
 悪奴弥守は眉を潜めながらそう言った。
 螺呪羅は黙って笑っている。
 闇神殿の神官・狩人達、どちらにも嫌われている自分が、聖域に入れる訳がない。ただ、闇の聖域に咲く桜の話を、悪奴弥守から聞いてみたかったのだ。
 彼の言葉では、どんな表現をされるか知りたかった。

「じゃあ、見に行くか?」
「……悪奴弥守?」
 螺呪羅は驚いて、隻眼を大きく見開いた。悪奴弥守は、不思議そうに頭を右に傾けた。

「……見たいんだろう? だったら、一緒に来いよ」
「……いいのか?」
「なんで」

 悪奴弥守はそう言って、寝間着から漆黒の着物に着替えた。漆黒の長着の上に、同じく漆黒に鳳凰の羽根を染め抜いた羽織を肩からかける。
 さっさと着替えると、念のために打ち刀を腰から下げる。
 一方、螺呪羅は白藤に青海波の有職紋様の羽織だった。春とはいえ、夜風は身にしみるように冷たいのだ。

 二人は連れ立って闇神殿の庭に出た。誰もが寝静まっている時間だった。
 螺呪羅は悪奴弥守の隣で、白い桜の花弁が散り落ちた、宝石のような玉砂利の道をゆっくりと歩き始めた。
 夜風に吹かれる息が白い。
 だが、悪奴弥守は元々寒さに強いため、深夜の暗さも冷たさも何とも思っていないようだった。螺呪羅はひんやりと自分の白い皮膚を切りつけてくる風を感じ、頭上を見上げた。


wavebox


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